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無料券で入った洋館で、一人消えていた

深夜1時。
私はパソコンの前で、
年表について
考えていました。

原因は、AIです。
いや。
正確には、無料です。

少し前に、友達から
連絡がありました。
「観光無料券が
当たったんだけど、
一緒に行かない?」

私は定住の鳥です。
夏は旅行しない。
遠出もしない。

暑い時期は、
冷房の風が届く範囲を
生息地とし、なるべく
同じ場所にとどまる。

しかし、無料です。
無料という言葉は、
定住の鳥の羽を
一時的に強くします。

私は観光バスに
乗り込みました。
行き先については、
ほとんど調べていません。

座っていれば、無料券が
どこかへ運んでくれます。

たどり着いたのは、
オレンジ色の屋根を持つ
豪華な洋館でした。

大きなステンドグラス。
螺旋階段。
円形のソファ。

私は無料券を握ったまま、
誰かが落とした招待状で
舞踏会に侵入した
庶民のような気分に
なりました。

その館で暮らしていたのは、
日本最初の女優と言われる
川上貞奴でした。

展示によると、
貞奴は最初から女優を
目指していたわけでは
ありません。

しぶしぶです。

私がしぶしぶ始めたことは、
だいたい二日で終わります。

しかし、貞奴は、
しぶしぶ海を越え、
しぶしぶ舞台に立ち、
人気を集め、
パリ万博で評判になりました。

若き日のピカソが貞奴を
描いたスケッチまで
残っているそうです。

最初の夫は、川上音二郎。
「オッペケペー節」で
有名な人です。

オッペケペーの人と結婚し、
海外へ渡り、女優になり、
ピカソに描かれる。

情報量が多い。

しかし、貞奴の人生は、
まだ落ち着きません。

音二郎が亡くなったあと、
貞奴は福沢桃介と、
この館で暮らしていました。

桃介は電力王と呼ばれた
実業家で、二人は
初恋の相手だったとも
伝えられています。

貞奴は、このきらびやかな館で
政財界の人々をもてなし、
電力事業に関わる人を
優しく労い、
桃介の健康を気遣い、
仕事を支えました。

館内には、二人の歩みも
紹介されていました。

貞奴は音二郎と結婚し、
夫とともに海外へ渡る。
音二郎が亡くなったあと、
桃介とこの館で暮らす。

一方、桃介は若い頃、
福沢諭吉の娘と
結婚していました。
その後は電力事業を進め、
会社をつくり、
貞奴と暮らし始めます。

年表を見て、私も友達も
不思議に思いました。
桃介の奥さんは、
どうなったのか。

貞奴の方には、
海外へ渡るきっかけと
なった、音二郎が
亡くなったことが
書かれています。

しかし、桃介の妻については、
その後がありません。

病死とは書かれていない。
どこかで離婚したのでしょう。
「貞奴と関係ないから
省かれたのか、
書けないほど複雑な事情で
別れたんじゃない?」

福沢諭吉の娘です。
名家です。
観光客向けの年表には
載せられない事情が
あったのかもしれません。

私が説を唱えると、
友達は年表を見直しました。
「それっぽいね。
悲劇的なことかもね」

根拠はありません。

二人の観光客が探偵となり、
展示の前で福沢家の悲劇を
一つ作り上げました。

しかし、帰宅後も、
桃介の妻のことが
気になっていた私は、
AIに聞きました。
「桃介の妻は、
いつ亡くなったの?
それとも、離婚したの?」

AIは答えました。
「どちらでもありません。
桃介は福沢諭吉の娘・房と
離婚せず、婚姻関係を
続けたまま、貞奴と
暮らしていました」

書かれていなかった
わけではない。
書くべきことそのものが、
存在していなかったのです。

我々二人の探偵が作った
福沢家の悲劇は、
数時間で消滅しました。
「つまり、貞奴は愛人だったの?」

AIは少し丁寧になりました。
「歴史資料では、
愛妾や愛人と表現される
ことがあります。
ただし、現在の施設案内では、
事業パートナーなどの
表現が使われています」

貞奴はあまりにも
堂々としていました。
そのおかげで、
愛人という可能性は、
頭を一度も
よぎりませんでした。

私は友達にLINEを送りました。
「桃介、福沢諭吉の娘と
離婚してなかった」

しばらくして、返事が来ました。
「大胆な愛人」

続けて、もう一通届きました。
「だから、名字が川上の
ままだったのか」

川上貞奴と、福沢桃介。

答えは、堂々と
年表に並んでいました。

しかし二人の探偵は、
貞奴の情報量の多さに、
名字という手がかりを
まんまと見逃して
しまいました。

私はAIに聞きました。
「房は、貞奴のことを
どう思っていたの?」

「房本人の気持ちを直接示す、
確かな資料は確認できません」

怒っていたのか。
諦めていたのか。
黙認していたのか。
当時としては
珍しくないことだったのか。
「福沢諭吉が生きていたら、
二人の関係を認めたと思う?」

AIは答えました。
「断定はできません。
ただ、福沢諭吉は桃介と房に、
互いを尊重し、世間の模範となる
家庭を築くよう求めていました。
その考え方からすると、
おそらく認めなかったと思います」

でも、その瞬間。
私はまた一つ、
精神的無敵の人になりました。

人は、隠されたものを疑います。
しかし、あまりにも堂々と
置かれたものは、
かえって疑いません。

無敵だ。
最強だ。

無料につられて入った洋館で、
私は一つの歴史ミステリーを
解きました。

犯人は、年表でもAIでもありません。

愛人は、こっそりしている
ものだと思い込んでいた、
我々二人の探偵でした。


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