【創作】アダージョ 第3話
「今日はキンイロが来ないな」
おじいちゃんは庭の池にかかる太鼓橋から餌をやり、黄金色の鯉を探して橋から乗り出すように眺めた。
「ああ、いたいた。随分と遅いお出ましだ」
他の鯉よりも一回り身体の大きいキンイロは、焦る風でもなく悠々と泳いで来ては餌にありついた。その姿はまるで、背が高く筋肉質で、何事にも動じないお父さんみたい。
「翠は気迫って分かるかい」
「うん。高村光太郎の詩に出てきて、習った」
鯉は食べるものが無くなると、裏切り者のように散り散りに泳いで行ってしまう。
「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る。あれはいい詩だな。心の栄養になる」
心の栄養。私は鯉が行き交う水面を見つめながら、そのことばを心の中で繰り返した。
「翠の世代は良い奏者が揃ったね。翠もそうだが、山田君の息子も佐々木君の息子も素晴らしい」
山田君の息子は奏真で、佐々木君の息子は、ひとつ年上の大晴のことだ。2人ともお父さんが有名な箏の師範だ。
「だが、私は翠か旭に川崎流を継いで欲しいと思っているよ。血でないと継げないものがある。気迫のようなものだ。翠は家を継ぐことを、どう想う」
「まだ分からない。お箏は好きだけど、みんなが敷いてくれたレールの上を、楽に進むようで」
そう言うとお爺ちゃんは、私の顔を見て小さい子どもを見るように和かに笑った。
「翠、実際は、誰の前にも道はないんだ。敷かれたレールなんて、何処にも存在しないんだよ。どの道が楽で、どの道が険しいかなんて、誰にも分からないんだ」
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「え、わざわざこんなことしなくても良いのに」
翠に借りた教科書を返す時、自販機に翠が好きなココアが売っているのを思い出したから、ついでに買って持って行った。
「でも翠、これ好きだろ。教科書、助かったから」
「ありがとう」
翠は俺に微笑んだ。俺は翠の笑った顔が好きだ。もっと見たいと思ってしまう。
「翠、これから部活?」
「ううん、試験前だから今日はないの。奏真は?」
「俺もない。じゃ、一緒に帰ろう」
「え、でも彼女さんと帰らなくていいの?」
「別に約束してないから、いいんじゃない」
昨日たっぷり喜ばせたから、今日は別にいいだろう。
「そういうもの?」
「そう。先、飲んだら?それ」
そう言われて翠は自分の席に座った。俺も前の席を借りて座る。ごめんね私だけ、と言う翠に、喉乾いてないからと返す。
「おいしーい!」
「相変わらず食いしん坊だな、翠は」
翠は美味しいものを口にすると、子どもみたいになる。小さい頃から、好きなものを食べると、まるで天国に辿り着いたような顔をしていた。あれだけ大人びて堂々とした演奏をするのに、このギャップはいつも不思議に感じる。
「奏真って優しいよね」
「そうかな」
ココアが美味しいのか、翠は極上の笑顔で話す。絹のような黒髪が揺れて、天使の輪が動く。
「例えば、私が話し始めようとして、でも他の人の方が早かったり声が大きかったりして話せなかったとき、『翠、何か言った?』って必ず聞いてくれるでしょ?そういう細かいところまで、気がきいてるなって思う」
「ああそれは、母さんが話すの遅いだろ」
「一華ちゃん?おっとりしてるよね」
「うん。それで間が悪いことに、話そうとすると、だいたい他の人と被って話せなくなるんだ。それで、父さんがいつも『一華、何か言った?』って聞く」
「何か、想像できる!」
「だろ?そうすると母さんが、すごく幸せそうな、溶けたような顔をするんだ。小さい頃からそれが印象にあるからかな」
「優先生と一華ちゃん、本当に仲良しだよね」
翠には状況が思い浮かぶのか、女子たちが黄色い声を出す時のような顔をして言う。
「それは、翠のところもだろ」
「ほんとほんと、お父さんが何処でもお母さんを抱きしめるから、こっちが恥ずかしくなっちゃう」
「すご。晃輝先生、海外生活が長かったからかな。凪先生、嫌がらないの」
「嫌そうなこと言って、実際は嬉しそうだよ。杏は見ると『ウザっ!』って言って、旭は一緒になって抱っこしてもらってる」
そう言って大きい目を細めて楽しそうに笑う。翠は家族が大好きだ。それは大晴も俺も同じで、家族の話は3人でいるとよく出てくる。例えばこれを彼女に話すと嫌がられるから、他の奴には俺はしないけど、中3にもなっておかしいかな。
「ごちそうさまでした。ありがとう奏真。帰ろ?」
翠の隣は心地良い。学校から3駅電車に乗って川崎流本家に送るまで、歪に感じる気まずい瞬間というのが、翠には存在しない。翠の歩幅に合わせて歩くのも、意識せず楽に出来る。幼馴染は、安心出来る大切な仲間だ。
「ありがとう奏真、鞄まで持ってくれて」
「別にいいよ。じゃあまた明日」
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私は奏真に片想いしている。まだ5歳の頃、奏真は私に結婚して、って言ったけど、奏真はそんなのもう覚えていないだろう。
長い間、私は奏真に幼馴染以外の感情は抱かなかった。一緒に育った同じレベルの男の子。だけど小学生の高学年になると、奏真の背は急に伸びて、声も低くなり、見上げないと話せないようになった。
小学6年生の時だった。奏真の入っているバスケチームが他区のチームと試合をするから、と誘われて、奏真の家族と大晴と一緒に応援に行った。
会場の東京体育館に入るのは初めてで、ワクワクした。ピカピカに磨き上げられたアリーナの床。姿勢良く立っているゴールポスト。皆で良い席を陣取って座るだけで、未知の体験に興奮した私は大晴に「うるさいぞー」と、髪をわしゃわしゃされた。
奏真のチームは相手チームに負けていた。あと少しなのに逆転出来ない。
「私、奏真のあんな顔、見たことない」
いつも穏やかな顔をしている奏真は、一瞬の隙も逃さず獲物を仕留める肉食動物のような、真剣な顔に変わっていた。
「いい顔になってきたな。こっから面白いところだ」
大晴が隣で説明する。バスケのルールはよく分からないけれど、この張り詰めた空気は演奏の前に近いと思った。極度の緊張と、背中に負う期待。そんな中、奏真が声を出している。仲間から集まる視線、繋ぐパス。
「大晴!奏真がリーダーみたいになってる!」
私は奏真から眼を逸らさずに、大晴に話しかけた。
「バーカ、あいつはエースだよ。7番だろ」
「そうなの?」
奏真は普段、私といる時は歳上の大晴と一緒のことが多いからか、リーダー気質に感じない。だけど、今日の奏真はまるで違う。怖いくらい鋭い眼、獲物を仕留めるためのような機敏な動き、聞いたことのない大声の早口。
「7番をマークしろ!」
奏真は相手チームに囲まれて、なかなか動けなかった。心臓がバクバクして、思わず胸の前で手を組む。
「いい動きだな、行け!奏真!」
大晴が叫んだ。一瞬の隙をついて、奏真が相手のガードを振り切り、パスを受けた。そのままあっという間にゴール近くまでドリブルして行ったと思ったら、信じられないことが起こった。
奏真がジャンプしてシュートした瞬間、時間が止まったように感じた。奏真が宙に浮いているように見えたんだ。奏真はまるで鳥のように一瞬止まり、それからはスローモーションでボールがゴールネットに吸い込まれた。
「やった!ゴール‼︎」
私と大晴は抱き合って喜んだ。
それから奏真のチームは巻き返し、何とか逆転して勝利を収めた。チームが応援席の方に並び、頭を下げて挨拶してくれた後、奏真は大晴と私を見て笑顔になり、軽く手を上げた。
眼が合ったように感じた瞬間、心臓がバクンと音を立てて大きく鳴り始めた。その日から私は、この辛い痛みを与える動物のようなものを、胸の中に飼っている。
奏真に初めて彼女が出来た時、その動物は私の胸の中で大暴れしてあちこちを傷つけ、苦しくて痛くて堪らなかった。奏真がその彼女と別れたと知ると、幼馴染の不幸なのに素直に悲しめなかった。むしろ喜んでしまう自分を見つけて、また悲嘆に暮れた。
どうして人は恋なんかするんだろう。こんなの、神様が与えた呪いでしかない。
奏真と帰った次の日、私は高校生の先輩3人組に呼び出された。胸が峰不二子ちゃんみたいなリーダー格のセクシー美女と、その取り巻き的な2人だ。
こ、校舎の裏に呼び出しとか、どんな昭和ですか。
ていうか校舎の裏がある学校、おかしくない?
しかもここ、良家の子女対象の学校のはずですが、それなのに呼び出し?
「あなたね、何様のつもりなの?」
「わ、わたくしは善良な一市民でございます」
「あら。ここ、東京なんだけど、あなた市民なの?区外の人?」
い、いえ、言い間違えただけなんですが、突っ込むところ、そこですか。
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