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アダージョ 第6話


家に帰ってすぐ自分の部屋に篭り、ベッドに寝転んでボンヤリしていたら、ドアが2回、ノックされた。

「奏真。話がある」

無言で開けると、父さんが怖い顔をしている。整った顔の父さんがこういう顔をすると迫力があるけれど、俺だって怒っている。

「奏真、翠の担当講師や稽古の時間帯を決めたのも、演奏会の曲目を決めたのも、俺と凪先生で翠じゃないんだ。翠は何もしていない。酷く泣いてたぞ。謝りに行け」

また翠かよ。そんなの知るか。父さんが慰めればいいだろう。泣いてた、と聞いて心臓が針で刺されたように痛くなったけど、腹の虫が治らない。

俺は父さんの横をすり抜けて、出て行った。

「奏真、どこへ行く。奏真!」

庭に出てボールをひたすらゴールポストに投げ続ける。どうせ覚えていないんだろう。翠の先生になるまでずっと、土曜日の午前中は俺とバスケをしていたことなんか。


女はいいよな、泣きたいのは俺の方だ。だけど、海外公演でさえ堂々と演奏する、動じない翠が泣いたなんて。......そんなの知るか。俺はさっきから続く胸の痛みを無視することにした。翠はいつだって皆に好かれて、心穏やかで幸せそうにしてるだろう。たまには痛みくらい、味わえばいい。

いつもよりずっと、命中率が悪い。躍起になってボールを投げていたら、別のボールが後ろから飛んで来て、綺麗にネットに吸い込まれた。

父さん?そう思って振り向いたらそこには、父さんの親友がいた。


「よ、奏真。お前すげぇ暴れたんだって」

「何だよ、昴先生。父さんに頼まれたのかよ」

昴先生は微笑んでボールを拾った。内心、父さんじゃなかったことにがっかりする。父さんが昴先生に頼んだのなら少しは嬉しいけれど、昴先生が言ったことばにまた俺は落胆した。

「大晴に聞いたんだ。酷い顔して帰って来たから、理由を聞いた。珍しいじゃないか、お前が怒鳴るなんて。ま、『龍歌』を取られた気持ちは分かるけどな」

昴先生は、ボールを持って玄関へと続く階段に座る。

「あの曲は俺にとって、すごく大事な曲なんだ。2人に弾けるなら、俺にも弾けるはずだ」

「いーや、お前に龍歌は弾けねえよ」

優しい顔で、ボールを回しながら昴先生は否定した。

「どうして?俺は第一箏も第二箏も、もう弾ける」

「技術のことを言ってるんじゃない。表現力だ。『龍歌』は、俺にも弾けない」

「え、昴先生も?」

昴先生が隣に座るように促したので、素直に従って次の会話を待つ。

「川崎流の『龍歌』は、凪先生と優成のイメージであまりにも有名になっちまったろ。客はあれを期待して来んだよ。『龍歌』を別のやつが弾くんだったら、2人のイメージと全く違う表現にするか、或いは似せて弾くしかない」

そう言って真面目な顔で、俺を見る。辺りがすっかり暗くなった中、玄関ドアのガラスを通して柔らかくぼやけた灯りが、俺たちを照らしている。

「だけど、別の表現にすんなら、あの2人を遥かに超えた表現力が必要になる。そんなことが、お前に出来るか?」

凪先生と父さんの表現力。俺は、足元にも及ばない。

「俺は、無理だと思う」

「そうだろ。お前が弾いたら客から落胆されて、お前の箏の人生に傷がつく。それよりもっと奏真に弾ける曲があんだろ」

「だけど、じゃあどうして!大晴と翠ならいいんだ!」

声を荒げた俺の髪を、昴先生はわしゃわしゃと撫でた。

「だから2人に似せて弾かせんだよ。お前には第ニ箏はまず弾けない。第一箏も無理だ。奏真の能力の問題じゃない。質の問題だ」

父さんと同じ答えをする。質の問題だと言われても、分からない。

「翠なら、翠なら弾けるの?」

「弾ける。第ニ箏なら」

言ってから昴先生は、何故だか悲しそうに笑って下に置いたボールを見つめた。

「どうして!父さんが先生だから?父さんが翠にだけ、弾けるように教えたのかよ!」

「違えよ馬鹿。お前本当に、優成の気持ちが分かってねえな」

「分からない!翠が上手いのは知ってる!だけどどうして、第ニ箏を弾くんだ!俺の父さんのニ箏を、俺じゃなくて翠が!

俺たちは3人一緒に箏を習って、3人同じレベルのはずだ。どうして俺だけが駄目なんだ!」




昴先生は暫く黙っていたが、ため息をついてから続けた。

「お前、まだ恋したことないだろ」

「恋?恋人なら2人より早く出来たし、女の子と付き合ったことだってある」

「お前のことだ。それは身体だけの付き合いだろ」

「身体だけ?」

昴先生は、今度はまっすぐ俺の目を見た。

「恋人ったって、心は友だちと変わんねぇ関係だったんだろ」

「恋人だと何か違うのかよ」

「全然違えよ」

そう言って、俺の頭を軽く押した。

「川崎流の『龍歌』は、恋の歌だ。いいか、お前の父さんの、あの身が切れるような演奏は、恋をなくして狂乱した龍の歌だ」

「......え」

「お前、失恋したことないだろ。お前の父さんだって、わざわざ『龍歌』を弾かせるために、あれほどの痛みをお前に経験させたくないはずだ」

「父さんが、失恋したの」

「昔の話だ。父さんに言ってやんなよ」

「言わないけど、信じられない。あんなに何でも出来て、優しくて、完璧な父さんが」

「まあ、人間は完璧だから誰にでも好かれるって訳じゃねえんだよ。相性だからな」

俺たちは暫く黙っていた。

「翠は、してんの、失恋」

「少なくとも、本人はそう思ってんだろうな」

「翠も、辛いの」

「そりゃそうだ。長い間、苦しんでるように見える」

俺はまた胸が痛んだ。あんな堂々としている、誰にでも愛されて、全ての痛みから守られているように見える翠が。

「俺には、そんなこと言ってなかった」

「......そりゃお前には言えないさ。第一、恋愛の悩みなんてのは、誰にでも言えない奴は多いんだ」

「どうして昴先生は知ってんの」

「俺らは生きてる年月が違えんだよ、若造。見てりゃ分かることだってある」

俺たちは暫く話をしなかった。三日月の輝きが、いつもより眩しく感じる。

「じゃあ、第ニ箏は駄目だとして、一箏は、どうして」

「あれは更に難しい。ニ箏のあの悲壮な演奏に引っ張られずに、幸福な演奏を続けんだ。相当幸せな恋を、してないと出来ない」

「大晴は、してんの」

「......お前、大晴と杏が、どんだけ仲良いと思ってんの」

「杏はまだ中1だ!子どもじゃないか!」

「だから精神で繋がってんだろ。それに、俺らからしたら、みんな子どもだ。奏真、お前らも杏も、大晴も」

「......何だよ。俺だけ置いてきぼりかよ」

「まあそう言うな」

昴先生は、また優しく笑った。

「俺は、子どもん時は早く大人になりたいと思ってた。だけどこういうのは早くても遅くても、何も変わんねぇよ。むしろ焦って、その時を謳歌しないで損したと思った。だから奏真、お前は焦らずゆっくりでいいんだ」

「俺は別に大人になりたくなんかない。だけど、2人に置いて行かれると思うと、不安になる」

「こんなのに置いてかれるも何もねえよ。ほんのささいな違いだけだ、心配すんな」

そこでまた俺の髪をわしゃわしゃと触る。

「箏に関してはさ、今のお前じゃないと弾けない曲があんだろ。『藍と月』。あれは優成のお気に入りだ。何が不満なん。あれを一番情感込めて弾けるジュニアは、お前しかいねえだろ」

そう言って昴先生は立ち上がった。

「俺は奏真の演奏、好きだよ。森林浴をしているような気分になる演奏だ。そこには愛だの恋だの、いらねぇんだよ。もっとそれを超えた堂々たる自然の、癒されるような強さを、多くの客に聴かせてやれよ」

俺は昴先生をしばらく無言で見上げて、それからぼそっと言った。

「俺、謝りに行かないと」

「お、そうか。じゃあ俺もついていってやる。翠の父ちゃんは、奏真1人じゃ太刀打ち出来ねえからな」

そう言って昴先生は、玄関のドアを開けて、大声で「ちぃーっす!」と言った。

「昴」

父さんが即座に出て来て、俺と昴先生を交互に見る。

「父さん、ごめんなさい。俺、酷いこと言った」

父さんは目を見開いて昴先生を凝視した。

「昴、お前、奏真に何を言った」

「こういうことは他人の方が上手く行くんだよ。俺らこれから翠に謝って来っから、4649。夕食、まだ作ってないなら一緒に食べさせっけど」

「昴君?」

母さんが紙袋を持って小走りで出てきた。Proofreaderの若草色をしたそれは、重さに引っ張られても綺麗な形を保っている。

「これ、香織ちゃんに持って行って。みかん、たくさんもらったから」

「マジで?サンキュー、一華ちゃん。香織、喜ぶわ」

「ごめんね、奏真のこと、よろしくお願いします」





「何しに来た、山田ジュニア。帰れ!」

案の定、晃輝先生は火のように怒っていた。筋肉質のデカいイケメンが怒ると、この世の終わりのように怖い。

「嫌だな川崎さん、謝りに来たんすよ。子どもの喧嘩に親が口突っ込んだら、ややこしくなるっしょ」

昴先生は慣れているのか、ケロリとしている。この人はおちゃらけているけど格好いい。

「誰が喧嘩だ。一方的に翠を痛め続けやがって。いいか、ここから一歩も通さんぞ」

「相変わらず娘のこととなると頑なっすね」

一瞬ニヤッと笑った昴先生は、急に大声で杏を呼んだ。

「杏!杏いるか?」

昴先生の太い声はよく通る。すぐに杏がパタパタと出て来た。

「昴先生。奏真」

「よう。俺ら翠に謝りに来たんだ」

「そうなの。入って入って。お父さん、行こ」

杏は無理やり晃輝先生の手を引っ張って、奥に行ってしまった。

「待て杏。あいつらを通すな、杏!佐々木君、貴様!汚い手を使いやがって、許さんぞ!」

「ありがとな、杏!」

「どういたしまして!私、お姉ちゃんの味方だから!」

「昴先生、頭良いですね」

父さんが昴先生を大切にしている気持ちが、よく分かる。

「伊達にあの人と付き合い長くねぇよ」

昴先生はそう言って笑った。




続きはこちら。

以前のお話はこちら。

第1話はこちら。


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