【創作】アダージョ 第5話
「来週は演奏会だからお稽古はお休みだけど、やりたかったら優成くんが教えるって言ってたよ。優成くん、今回の演奏会は忙しくて出られないから。どうする?」
稽古の後で先生が言った。お手伝いさんが紅茶と菓子を出してくれて、俺たちは頂きながら聞く。
「父さんに、やると言っておきました」
「俺もお願いします」
俺と大晴の返事を聞いて、凪先生は柔らかに微笑んだ。
「大晴くん奏真くん、いつも言うけど、2人は翠と同じ能力を持ってるんだから、来週みたいな演奏会に出てもいいんだよ」
次の演奏会は伝統的なもので、言ってみれば堅苦しい。
「俺はバスケの練習もしたいし、他のもっと気楽な演奏会に出てるから、それでいいです」
「俺も、サッカーの試合があるんで」
それに、由緒ある演奏会は背負うものが違う。出るのにかなり、恐怖心と戦わなければならない。
「そっか、残念。でもきっと貴重な経験になると思うから、気が変わったらいつでも言ってね」
これ美味しいよ、と先生は小分けになっているチョコチップクッキーを勧めた。チョコレートが好きな翠を思い出す。翠もこれを食べたのかな。またあんな、天国にでも行ってしまったような顔をして。
「翠は出るんでしょう?」
大口でクッキーを食べながら、大晴が聞いた。
「翠は私と、家元と合奏。三代共演だよ」
「すごいな、翠は。俺は一つのことを集中して続けるって、出来ません」
「奏真くんはそう思うんだね。私はお箏しか出来ないから、いろんなことを並行して出来る人を尊敬するよ」
「人それぞれってやつっすね」
実際、翠の箏への熱心さは舌を巻くほどだ。俺はあんな風に箏だけを頑張れない。だけどそんな俺でも、箏は嫌いじゃないし、自分なりに力を入れて練習してきて、弾きたい曲も幾つもある。
中でも凪先生と父さんの合奏の代名詞になっている、「龍歌」。俺はいつの日か、あれが弾きたい。小さい頃から何度も聴いた、母さんも大好きな曲。
母さんはあれを聴いては、よく泣いていた。小さい頃に砂場で見つけた、宝物のガラス玉のように綺麗な涙を流していて、俺は子ども心に、こんな美しい涙を流させる父さんは偉大だと思っていた。母さんは、あれを聴いて父さんに恋をしたんだ。だから、心を揺さぶられる、思い出の曲なんだって。
父さんみたいに、人の心にいつまでも住み続けて、幸せのかけらになる演奏をしたい。本当は、「龍歌」は隠れて第一箏も第ニ箏も何度も練習して、もうどちらも弾ける。あとは感情を入れて弾くだけだ。「龍歌」が弾きたい。パートナーは、翠かな。翠はもう弾けるんだろうか。
隣で大晴がクッキーをバリバリ食べる音を聞きながら、先生に尋ねた。
「先生、翠の音は先生の音に近いと思います。家元の音にも近いような。これって、血なのかな」
「奏真くんには、そう聴こえるの」
「はい。同じ教室で習ってるのに、俺や大晴や、菅野さん達と違います」
「血が継いでいくものは、弱くないかもしれないね」
先生は優雅に紅茶を一口飲んでから続けた。
「だけど翠は優先生の弟子だから、優先生がそういう風に持って行ったのかもしれないよ」
「父さんが?」
「そう。優先生はもともと私の弟子だったし、音も私に近いから、優先生に習ったら私に似てくるのは分かるけど。敢えて翠が持ってる川崎の音を潰さないように、育ててくれてるのかもしれない」
「そんなこと、出来るんですか?」
「奏真くんのお父さんなら、そのくらいのことはやってのけるよ。例えば晃輝先生が翠を教えていたら、もっと派手でエッチな感じになっちゃってるけど」
「何それ、似合わねぇ!」
想像した大晴が腹を抱えて笑う。
「そっか、だから杏のバイオリンはエロいんだ!」
「そういうこと。実際、翠もバイオリンの時は、なかなか官能的な演奏をするよ。演奏って、師事する先生によって変わるから」
「じゃあ奏真も晃輝先生に習ってみろよ。エロくなれるぜ」
「俺は遠慮しとくよ。その前に殺されそうだ」
先生や翠が出る演奏会が終わると、またすぐに別の演奏会の準備が始まる。次の演奏会はジュニアの部があるから、俺たちも忙しくなる。能力が一程度に達している中高生だけが出られるジュニアの部の中で、翠と大晴と俺は3年間、トリの数曲を弾いていた。
「今年はお客様からのリクエストが多くてね、それに合わせるようにとの家元の依頼があったの」
俺たち3人は凪先生に呼ばれて稽古場で話を聞いている。先生の隣には父さんもいる。翠の師匠だからだろう。毎年同じことだ。
「それで今年も、最後の2曲をあなた達にお願いします」
「え、2曲って?」
「1曲は合奏なの。それを最後にするか、ソロを最後にするか、まだ決めていないんだけど。まず、ソロはね、『藍と月』」
俺の好きな曲だ。小さい頃からよく、凪先生や父さんの演奏を、家族で聴いた。
「これはね、奏真くんにお願いします」
「分かりました」
やった。心の中でガッツポーズを決める。
「合奏の方はね、お客様のリクエストが多くて、『龍歌』をお願いしたいの。第一箏を...」
「え?」
3人の声が同時に出た。
「ちょっと待って先生、『龍歌』?」
大晴が驚いている。翠も唖然とした顔だ。
「そうなの。第一箏を大晴くんに、第ニ箏を翠に」
2人は何も声が出ない。
「先生!どうして『龍歌』が俺じゃないんですか‼︎」
俺は思わず立ち上がり、大声を出した。
「今のお前には無理だよ、奏真」
先生が答えるより先に、父さんが冷静に返事をする。
「どうして!俺は2人と同じレベルのはずだ!それなのに」
「能力の問題じゃない」
「どういう意味」
「資質の問題だ」
父さんは何でもないことのように、落ち着いた雰囲気を崩さない。
「資質って何だよ!二箏はずっと父さんが弾いてるだろう!それなのにどうして、俺じゃなくて翠なんだ!」
頭が沸騰したように熱くなって止められない。俺が、俺が長い間ずっと弾きたいと思っていた大切な曲を、第ニ箏を、どうして翠が!
「奏真......」
翠が俺の腕に触れる。
「触るな!」
強く振り払った瞬間、翠はよろめいた。
「奏真!」
父さんがきつい声を出して俺を嗜める。どうしてこの状況で、俺を叱るんだ。辛いのはこっちの方だ。
「大丈夫か、翠。奏真、『龍歌』のニ箏は、お前より翠の方が適任だ。何度も言う、能力の問題じゃない。奏真には奏真に合った曲があるだろう」
「うるさい!父さんはそんなことを言って、いつも翠の方が大事なんだろう!翠に自分の曲を弾かせたいから、そうやって弾けるように教えただけじゃないか!」
「ちょっと落ち着けよ、奏真」
「奏真、違うよ。優先生は...」
翠はまた俺に触れて来た。怒りが身体中に充満して、落ち着けるはずがない。
「だから触るな!翠!どうしてこれ以上俺から奪うんだ!俺から土曜日の父さんを奪って、自分だけ父さんに習って、大事な『龍歌』の第ニ箏まで、俺から取るな!」
俺は翠の顔を直視して、全ての身体中にある俺の怒りを翠に思い切りぶつけた。翠は呆然とした顔をしていた。
「何てことを言うんだ!謝れ奏真!」
この後に及んで翠かよ。父さんは、俺のことなんか、何にも考えてない。俺は無視して出て行った。
「奏真!」
父さんの声が聞こえたけど、止まってなんかやるか。追いかけても来ないじゃないか。父さんはやっぱり、昔から俺より翠の方が大事なんだ。そんなに翠がいいなら、翠の父さんになればいいだろう。
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暫くは何も考えられなかった。やがて涙が出て、止まらなくなった。お母さんが抱きしめてくれて、私は激しく震え出した。
「なんて奴だ。ごめんな、翠。あいつまだ、ずっと子どもなんだよ。後で厳しく言っておくから」
優先生が謝ってくれたけど、嗚咽が激しくて返事が出来ない。頭を振って何とか答える。優先生は一先ず大晴に帰るように声をかけた。大晴はお母さんと一緒になって私の背中を摩り、「元気出せよ、翠」と掠れた声で言って出て行った。
「凪先生、すみません。俺の説明が上手くなくて」
「違うよ、優成くん。優成くんのせいじゃない。私ももっとちゃんと伝えれば良かった。中3って大変な年齢だよね。今日はもうお開きにしよ」
お母さんがそう言って、今度は優先生が私の頭を撫で、「本当にごめんな、翠」と謝った。
奏真はずっと、あんなに強い怒りを内に溜め込んで、我慢していたんだ。優先生を奏真から取ってしまった私に、あんなに鋭い憎しみを持ちながら、優しい奏真はそれを見せることもしないで、何年も耐えていたんだ。私はずっとそれに気づかずに、甘え続けていたんだ。
どんなに傷つけていたんだろう。気づかないで笑っていた私は馬鹿だ。どうしてもっと、思いやれなかったんだろう。好きだったのに、今でも、誰よりも好きなのに、こんなんじゃ、好きと思う気持ちさえ失格だ。
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