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料理の向こう側 CASE 11


♦️第1章|ピストルが届いた日



 インターホンが鳴った。

Mirim  
「来た!」

 ドアを開けると、思ったより小さな段ボール。

 けれど中身は軽くない。
 持った瞬間、分かる。

 これは、チョコレートだ。

 テーブルに置いて、カッターで封を切る。

 緩衝材の下から現れたのは、
 緑にカカオのパッケージ。

Cacao Barry。

Mirim  
「……高かったんだよね、これ」

 袋を取り出す。
 1kg。

 bitter 55%。

 ピストル型のクーベルチュール。


 でも最後に決めたのは、
 昔、Keigoくんが話してくれたことだった。

 フランスの講習で、
 カカオバリーの社長が話していた。

 刻まず使えて、溶けやすい。

 プロの合理性。

Mirim  
「義理チョコなのに、本気出しすぎかな……」

Keigo  
「何が?」

 いつの間にか背後にいる。

Mirim  
「見て。クーベルチュール」

Keigo  
「おぉ。ピストルか」

Mirim  
「ヴァローナも考えたんだけどさ」

Keigo  
「よく見るよな、ネットで」

Mirim  
「でも、思い出して」

Keigo  
「昔話か?」

Mirim  
「うん。社長が講習してたって」

 Keigoくんは、少し笑った。

Keigo  
「懐かしいな」

Mirim  
「で、アルマニャックも買った」

Keigo  
「ラムじゃなくて?」

Mirim  
「キルシュかコニャックも考えた。
でも、アルマニャックにした」

Keigo  
「渋いな」

Mirim  
「なんか、大人っぽいかなって」

 袋を開ける。

 コロコロと、
 小さなチョコレートの粒がボウルに落ちる。

 刻む必要がない。

 それだけで、ちょっと嬉しい。

Mirim  
「パヴェ・ドゥ・ショコラ、作るんだ」

Keigo  
「生チョコか」

Mirim  
「そう。
 仕事関係の人に渡す用と……
 あと、Keigoくんの分」

Keigo  
「なるほどな。バレンタインか」

 チョコレートを見下ろしながら、
 Keigoくんが静かに笑う。

Keigo  
「湯煎、準備しとくぞ」

Mirim  
「手伝ってくれるんだ?」

Keigo  
「美味しいの作りたいだろ」

 湯を沸かす音が、キッチンに広がる。


♦️第2章|クーベルチュールとは何か
—— 果実から再構成されたチョコレート


ボウルを湯煎にかける。
ピストルは形を保ったまま、
静かに艶を出している。

Mirim  
「ねぇ、Keigoくん。
クーベルチュールってさ、
普通の板チョコと何が違うの?」

Keigo  
「その前に、だ」

Mirim  
「カカオは、フルーツだって知ってるか」

Keigo  
「木になる実だ。
 ラグビーボールみたいな実の中に、
 白い果肉に包まれた種が並んでる」

Mirim  
「その種がカカオ豆?」

Keigo  
「そう。
 チョコレートは、果実の種からできてる」

 ボウルの中のピストルを見る。

Mirim  
「なんか急に、生き物感出てきた」

Keigo  
「その豆を乾燥させて、焙煎して、砕く。
 中のニブをすり潰すと、
 熱で脂肪が溶けてドロドロになる」

Mirim  
「それが?」

Keigo  
「カカオマスだ。
 豆を丸ごと潰したペースト。
 脂肪も固形分も全部混ざってる」

Mirim  
「じゃあカカオバターは?」

Keigo  
「そのカカオマスを圧搾して、
 脂肪分だけ取り出したもの」

Mirim  
「取り出す?」

Keigo  
「ギューッと絞る。
 液体の脂肪がカカオバター。
 残った固形分はココアの原料になる」

Mirim  
「再構成じゃん」

Keigo  
「一度バラして、組み直す。
 それがチョコレートだ」

 湯煎の熱で、
 ピストルの縁が少しだけ丸くなる。

Mirim  
「じゃあクーベルチュールは?」

Keigo  
「その再構成を、
 “加工しやすい前提”で設計したチョコレート。基本はシンプルだ。
 カカオマス。
 カカオバター。
 砂糖。
 ミルクタイプなら乳成分も入る。
 代用油脂は使わない」

Mirim  
「代用油脂?」

Keigo  
「安い植物油で
 カカオバターを置き換えることがある。
 でもクーベルチュールは、
 カカオバターをきちんと使う」

Mirim  
「だから溶け方が違う?」

Keigo  
「固まり方もな。
 艶も、口溶けも、
 全部カカオバターが握ってる」


Mirim  
「55%って?」

Keigo  
「カカオ分だ。
 カカオマスとカカオバターを合わせた割合」

Mirim  
「じゃあ残りは?」

Keigo  
「主に砂糖。55%なら、約45%は甘さだ」

Mirim  
「結構入ってるね」

Keigo  
「73%になると、
 砂糖が減ってカカオが増える。
 だから甘くない」

Mirim  
「カカオが増えるってことは、
 カカオバターも増える?」

Keigo  
「配合次第だが、基本的にはな。
 ただし%だけで味は決まらない。
 原料のカカオ、焙煎、コンチング。
 全部で決まる」

Mirim  
「奥深い」

Keigo  
「だからメーカーがある。
 フランス、ベルギー、イタリア、
 そして日本もな」

Mirim  
「日本も?」

Keigo  
「今は国産も増えてる。
 価格も抑えられてる」

Mirim  
「ちょっと待って。そっちにすればよかった?」

Keigo  
「わからん。好みだ」

Mirim  
「だよね」


♦️第3章|テンパリングという壁
—— チョコレートは数度で別の物になる



 ボウルの中で、
 ピストルの輪郭がゆっくりと消えていく。

Mirim  
「溶けてきた」

Keigo  
「まだ混ぜるな。
 自然に崩させろ」

Mirim  
「混ぜた方が早くない?」

Keigo  
「早い。焦りは禁物だ」

 湯煎の温度は高すぎない。
 沸騰はさせない。

Mirim  
「なんでそんな慎重なの?」

Keigo  
「チョコは温度で構造が変わる」

Mirim  
「構造?」

Keigo  
「カカオバターは、
 固まり方が何種類もある」

Mirim  
「何種類も?」

Keigo  
「結晶の形が違う。
 その中で一番安定した形に整える作業がある」

Mirim  
「それが?」

Keigo  
「テンパリングだ」

Mirim  
「テンパリングって、
 艶を出すことじゃないの?」

Keigo  
「結果が艶だ。
 やってることは、結晶を整えること」

 ボウルの中のチョコは、
 ほとんど液体になった。

Mirim  
「整わないとどうなるの?」

Keigo  
「白くなる」

Mirim  
「ブルームってやつ?」

Keigo  
「脂肪が浮き出る。
 舌触りも悪くなる。
 パリッと割れない」

Mirim  
「数度の差で?」

Keigo  
「そう。たった数度の差でな」

 湯煎からボウルを外す。

Keigo  
「チョコは勝手に固まる。
 でも、勝手に美しくは固まらない」

 溶けたチョコを見つめる。

Mirim  
「じゃあ、生チョコは?」

Keigo  
「生チョコはテンパリングしない」

Mirim  
「なんで?」

Keigo  
「ガナッシュだからな。構造が違う」


♦️第4章|ガナッシュという再構成
—— 溶かすのではなく、混ぜて別のものにする


 湯煎から外したボウルの中で、
 チョコレートは静かに光っている。

Mirim  
「テンパリングしないってことは、
 艶とか気にしなくていいの?」

Keigo  
「今回はな。生チョコは“固めるチョコ”じゃない」

Mirim  
「え?」

Keigo  
「混ぜて、別のものにする」

Mirim  
「別のもの?」

Keigo  
「ガナッシュだ」

 小鍋に生クリームを入れる。
 火は弱い。

Mirim  
「生クリームを入れるだけで、
 何が変わるの?」

Keigo  
「水分が入る」

Mirim  
「水?」

Keigo  
「生クリームは脂肪だけじゃない。
 水分を含んでいる。
 チョコレートは油と固形分の塊だ。
 そこに水が入る」

Mirim  
「分離しないの?」

Keigo  
「する」

Mirim  
「え?」

Keigo  
「ちゃんとやらないと、分離する。
 だから“混ぜる”じゃない。乳化させる」

Mirim  
「水と油を無理やり仲良くさせるやつ?」

Keigo  
「そうだ」

 温まった生クリームを、
 溶けたチョコに少しずつ注ぐ。

Keigo  
「一気に入れるな。
 中心から、小さく混ぜる」

Mirim  
「おぉ……」

 真ん中が、つやっと光る。
 少しずつ輪が広がる。

Mirim  
「なんか急に、もったりしてきた」

Keigo  
「それが乳化だ。
 水分と脂肪が分散して、
 均一な状態になる」

Mirim  
「つまり?」

Keigo  
「チョコレートじゃなくなる」

Mirim  
「え?」

Keigo  
「構造が変わるってことだ。
 カカオバター単体で固まる世界じゃない。
 水分と脂肪が混ざった、別の安定状態になる」

Mirim  
「だからテンパリングいらないの?」

Keigo  
「そう。
 もう“結晶を整えて固めるチョコ”じゃない。
 柔らかいクリーム状の塊だ」

 ボウルの中は、
 完全に滑らかな艶を持っている。

Mirim  
「なんか、チョコの気難しさが消えた感じ」

Keigo  
「消えたんじゃない。
 構造を変えたんだ」

Mirim  
「また構造」

Keigo  
「そういうことだ」

 ボウルを見つめる。

Mirim  
「じゃあ、生チョコの“生”って?」

Keigo  
「生クリーム入り、って意味が強いだろうな。
 火で焼かない。
 結晶を固めない。
 柔らかいまま食べる」

Mirim  
「ガナッシュを、
 そのまま食べるってことか」

Keigo  
「パティスリーでは中身だ。
 でも日本は、それを切って粉をまぶした」

Mirim  
「パヴェ・ドゥ・ショコラ」

Keigo  
「日本の再発明だな」

 ボウルの中のガナッシュは、
 静かに光を吸っている。


♦️第5章|アルマニャックという選択
—— 香りは、味の外側にある


 ボウルの中のガナッシュは、なめらかに落ち着いている。

Mirim  
「ここで入れるんだよね」

 小瓶を持ち上げる。

 アルマニャック。

 最後まで、ラムと迷った。
 キルシュもコニャックも考えた。
 でも今日はこれだ。

Keigo  
「決めた理由は?」

Mirim  
「渋いから」

Keigo  
「それだけか?」

Mirim  
「うん。でも、それでいい」

 栓を抜く。

 甘く、乾いた香り。
 ブドウの奥に、木のニュアンス。

Mirim  
「ラムだと少し甘すぎる気がした。
 生チョコって、どうしても優しくなるでしょ」

Keigo  
「アルマニャックは角がある」

Mirim  
「そう。少しだけ、芯が残る感じ」

 スプーンで、ほんの少量。

 ガナッシュの中心に落とす。

Mirim  
「入れすぎると分離するんだよね?」

Keigo  
「アルコールは水分だからな。
 乳化のバランスを崩すことがある」

Mirim  
「だから少しずつ」

 中心から、ゆっくり混ぜる。

 艶は消えない。
 むしろ、深くなる。

Mirim  
「香りが立った」

Keigo  
「どう変わった?」

Mirim  
「甘さが軽くなった。
 でも、味は濃くなった気がする」

Keigo  
「それが香りの仕事だ」

Mirim  
「甘さは舌だけど、香りは鼻。
 だから立体になる」

Keigo  
「覚えてるな」

Mirim  
「ちゃんと予習してるからね」

 もう一度、混ぜる。

 苦味、甘味、乳のコク。
 そこに、揮発するアルコールの余韻。

Mirim  
「チョコって、ずっと再構成してるね」

Keigo  
「果実から始まってな」

Mirim  
「種を砕いて、脂肪を分けて、
 また混ぜて、水を入れて、香りを足す」

Keigo  
「壊して、組み直してきた」

 型に流し込む。

 表面をならす。

 今はまだ流体。
 でも、もう“ただのチョコ”じゃない。

Mirim  
「冷蔵庫、入れてくるね」

Keigo  
「温度は低すぎるなよ。
 急冷すると結露する」

Mirim  
「はいはい」

 型を持ち上げる。

 ガナッシュは静かに揺れる。

 アルマニャックの香りが、
 ほんの少しだけ、キッチンに残っていた。


♦️第6章|冷却という時間
—— チョコレートが旅してきた距離ー



 冷蔵庫の扉が閉まる。

 中で、ガナッシュはゆっくり温度を落としていく。

Mirim  
「これ、何分くらい?」

Keigo  
「焦るな。時間で決めるな。
 状態で見る」

Mirim  
「また職人っぽいこと言う」

Keigo  
「当たり前だ」

 キッチンは静かになった。

 さっきまで液体だったものが、
 今は冷蔵庫の中で構造を変えている。

Mirim  
「ねぇ」

Keigo  
「ん?」

Mirim  
「チョコってさ、いつから今の形になったの?」

Keigo  
「もともとチョコは飲み物だった。
 カカオはすり潰して、水と混ぜて飲んでいた」

Mirim  
「甘くないやつ?」

Keigo  
「甘くない。
 砂糖が広がる前だ。
 香辛料を入れていた」

Mirim  
「全然今のチョコじゃない」

Keigo  
「それがヨーロッパに渡って、
 砂糖が加わり“嗜好品”になった」

Mirim  
「ここで甘くなるんだ」

Keigo  
「だが、まだ液体だ」

Mirim  
「固まるのは?」

Keigo  
「カカオを分離して、
 再び組み直す技術ができてからだ」

Mirim  
「再構成だ」

Keigo  
「そうだ」

 冷蔵庫のモーター音が低く響く。

Mirim  
「ずっと壊して、作り直してるね」

Keigo  
「果実から始まってな」

Mirim  
「種を砕いて、
 脂肪を分けて、
 また混ぜて」

Keigo  
「何度も設計し直してきた」

Mirim  
「破壊と再構築の歴史だ」

Keigo  
「好きだな、その言い方」

 しばらく沈黙。

Mirim  
「この時間も、その一部?」

Keigo  
「温度を下げるのも工程だ。
 自然に任せてるようで、制御している」

Mirim  
「放置じゃないんだ」

Keigo  
「設計だ」

 冷蔵庫の扉に手をかける。

Keigo  
「そろそろ見てみるか」

Mirim  
「まだ固まりきってないかも」

Keigo  
「それも含めてだ」

 扉を開ける。

 型の中の表面は、
 もう揺れていない。

Mirim  
「来た?」

Keigo  
「来たな」

 果実から始まった話は、
 今、静かに形になろうとしている。

♦️第7章|切るという決断
—— 固まったものにも、温度がある



 冷蔵庫から型を取り出す。

 表面は、もう揺れていない。
 触れると、わずかに弾力が返る。

Mirim  
「……落ち着いてる」

Keigo  
「“固まった”じゃない」

Mirim  
「うん。なんか違う気がする」

Keigo  
「水分と脂肪が安定した状態だ。
 結晶で固めたわけじゃない。
 だから質感が柔らかい」

 型をひっくり返す。

 静かな四角い塊が、
 まな板の上に現れる。

Mirim  
「緊張する」

Keigo  
「包丁は?」

Mirim  
「準備してある」

 湯を張ったボウルに、
 刃を沈める。

Mirim  
「温めて、水気を拭いてから切る。
 冷たい刃だと割れる」

Keigo  
「ちゃんと予習してるな」

Mirim  
「わたしが作ってるんだから」

 刃を拭く。

 ガナッシュの表面に、そっと当てる。

Mirim  
「押さない。下ろす」

 刃が、静かに沈む。

 抵抗はある。
 でも割れない。

 断面が、ゆっくり現れる。

Mirim  
「きれい」

Keigo  
「乳化が安定してる証拠だ」

Mirim  
「また構造」

Keigo  
「最後まで構造だ」

 刃を温め直す。

 等間隔に切り分ける。

 正方形。

Mirim  
「石畳」

Keigo  
「パヴェだな」

 ココアパウダーをふるう。

Mirim  
「これ、なんでまぶすんだっけ」

Keigo  
「見た目だけじゃない。
 表面の水分を軽く吸う。
 手にくっつきにくくなる」

Mirim  
「苦味の補正も、だよね」

Keigo  
「覚えてるな」

 四角い生チョコが、
 粉をまとっていく。

 さっきまで液体だったものが、
 今は指でつまめる。

Mirim  
「果実からここまで来た」

Keigo  
「長旅だな」

 ひとつ、口に入れる。

 外はさらり。
 中はゆっくり溶ける。

 甘さ。
 乳のコク。
 その奥から、
 アルマニャックの香りが立つ。

Mirim  
「……角がある」

Keigo  
「芯が残ったな」

Mirim  
「優しいだけじゃない」

Keigo  
「Mirimらしい」

Mirim  
「義理チョコだけどね」

Keigo  
「本気の義理だ」

 テーブルに並ぶ、小さな石畳。

 同じ形。
 同じサイズ。

 でも、

 溶ける温度は、
 食べる人によって違う。

Mirim  
「半分はKeigoくんの分」

Keigo  
「合理的だ」

Mirim  
「プロの合理性、でしょ?」

 チョコはもう、
 ただの甘い塊じゃない。

 壊して、組み直して、
 時間をかけて、
 温度を管理して、

 切り分けてようやくこの形になった。

 まな板の上に、
 整然と並ぶ正方形。

 果実から始まった物語は、
 ここで一度、区切られる。

 でも、

 溶ける瞬間までが、
 本当の完成だ。


♦️第8章|口溶けという現象
—— 体温で完成する菓子



 テーブルの上に並んだ石畳。

 粉をまとった小さな正方形は、
 どれも同じ顔をしている。

Mirim  
「見た目は、静かだね」

Keigo  
「完成した顔だな」

Mirim  
「でもさ」

Keigo  
「ん?」

Mirim  
「この子たち、本番はここじゃないよね」

 ひとつ、指でつまむ。

 指先の温度が、ゆっくりと伝わる。

Mirim  
「体温で、少しずつ変わる」

Keigo  
「生チョコは、口に入れて初めて完成する」

Mirim  
「固体なのに、液体みたい」

Keigo  
「カカオバターの融点は34度前後だ」

Mirim  
「人の体温とほぼ同じ」

Keigo  
「だから“口溶け”が生まれる」

 舌の上で、
 ゆっくり崩れていく。

 噛まなくてもいい。

 体温だけで、構造がほどける。

Mirim  
「これって設計だよね」

Keigo  
「もちろんだ」

Mirim  
「偶然じゃない」

Keigo  
「偶然なら、ここまで洗練されない」

 カカオという果実。
 その種。
 分離された脂肪。
 再構成。
 乳化。
 冷却。
 切断。

 そして最後に、
 体温という外部条件。

Mirim  
「最後の工程が、“食べる人”なんだ」

Keigo  
「そうだ」

Mirim  
「完成を他人に委ねる菓子」

Keigo  
「面白い表現だな」

 もうひとつ、口に入れる。

 今度はゆっくり溶かす。

 甘味が広がる前に、
 アルマニャックの揮発が鼻へ抜ける。

Mirim  
「香りって、先に来るんだ」

Keigo  
「鼻は、舌より早い」

Mirim  
「だから甘さが軽く感じるのか」

Keigo  
「味覚は単独じゃない。嗅覚と一体だ」

 ミルクのコクが残り、
 最後に、ほんの少しの苦味。

Mirim  
「55%、ちょうどいい」

Keigo  
「73%なら、もっと硬質になる」

Mirim  
「義理には強すぎるか」

Keigo  
「攻撃的な義理もあるがな」

Mirim  
「怖い」

 笑う。

 でも、この温度、この溶け方、この余韻。

 全部、計算の上にある。

Mirim  
「チョコって、合理的だね」

Keigo  
「感情的に見えてな」

Mirim  
「甘いのに、理屈の塊」

Keigo  
「だから世界中で愛される」

 食べ終わる。

 口の中は、静かに消えていく。

Mirim  
「残らないね」

Keigo  
「脂肪は溶ける。
 水分は蒸発する。
 固形分は分散する」

Mirim  
「物理だ」

Keigo  
「料理は物理だ」

 テーブルの上には、
 まだいくつも並んでいる。

Mirim  
「これ、明日には減ってるね」

Keigo  
「誰の分だ」

Mirim  
「半分はKeigoくんの分。ありがとう」

Keigo  
「合理的だ」

Mirim  
「プロの合理性、でしょ?」

 果実から始まった話は、
 今、体温でほどけた。

 壊して、
 組み直して、
 温度で整えて、

 最後は、人の体で完成する。

Mirim  
「チョコって、
 人間に溶かされるためにあるみたい」

Keigo  
「人間が溶かすように作ったんだ」

Mirim  
「設計か」

Keigo  
「設計だ」

 石畳のひとつを、
 小さな箱に詰める。

Mirim  
「義理だけど」

Keigo  
「本気だ」

Mirim  
「果実からここまで来たんだもんね」

Keigo  
「その距離は、軽くない」

 箱を閉じる。

 チョコレートは、
 温度と時間と歴史の塊だ。

 そして、

 誰かの体温で、
 また静かに、壊れる。


♦️第9章|贈るという行為
—— 甘さは、物質か、関係か




 小さな箱に、
 石畳を整然と並べる。

 粉が少しだけ舞う。

Mirim  
「同じ大きさに切ったのに、
 なんか微妙に表情が違うね」

Keigo  
「刃の入り方、温度、力加減。
 完全な均一はない」

Mirim  
「工業製品じゃないもんね」

Keigo  
「だが、設計思想は同じだ」

 ふたを閉じる前、
 もう一度、中を見る。

Mirim  
「これ、原価いくらだろ」

Keigo  
「急に現実だな」

Mirim  
「1kgのクーベルチュール。
 生クリーム。
 アルマニャック。
 ココアパウダー」

Keigo  
「材料費は見える」

Mirim  
「でもさ」

Keigo  
「ん?」

Mirim  
「歴史の分は、いくら?」

 マヤ。
 スペイン。
 圧搾機。
 産業革命。
 パティスリー。
 日本の生チョコ。

 全部が、この箱に折りたたまれている。

Keigo  
「値段はつかないな」

Mirim  
「じゃあ、これは甘味料じゃなくて、
 文化の圧縮体?」

Keigo  
「大げさだが、間違ってない」

 リボンを結ぶ。

Mirim  
「贈るってさ」

Keigo  
「なんだ」

Mirim  
「物を渡してるようで、
 工程を渡してる感じ」

Keigo  
「時間だな」

Mirim  
「そう。
 選んで、
 溶かして、
 混ぜて、
 冷やして、
 切って、
 味見して」

Keigo  
「その時間ごと渡してる」

 バレンタインは、
 製菓会社のキャンペーンかもしれない。

 でも、

 作る側の時間までは、
 キャンペーンできない。

Mirim  
「義理チョコって言うけどさ」

Keigo  
「うん」

Mirim  
「合理的な関係の確認だよね」

Keigo  
「社会的潤滑油だな」

Mirim  
「でも、合理的に作ったチョコのほうが、
 逆に本気っぽい」

Keigo  
「矛盾してるな」

Mirim  
「合理性の中に、
 ちょっとだけ遊びがあるから」

 アルマニャックの角。
 55%の選択。
 温度管理。

 全部、わたしの決断。

Keigo  
「料理は、選択の積み重ねだ」

Mirim  
「そして贈ると、その選択は相手に渡る」

Keigo  
「食べるかどうかも、相手の選択だ」

Mirim  
「完成を委ねる菓子だもんね」

 ふたを閉じる。

 リボンを結ぶ。

 箱は、静かに完成する。

Mirim  
「果実から始まったのに、
 最後は人間関係に着地するんだね」

Keigo  
「食文化は、いつもそうだ」

Mirim  
「カカオはフルーツ。
 でもチョコは社会」

Keigo  
「いいまとめだ」

Mirim  
「まだ終わらせないで」

Keigo  
「まだあるのか」

Mirim  
「溶ける瞬間までが完成でしょ?」

Keigo  
「そうだな」

 箱を、テーブルの中央に置く。

 もうひとつの箱は、
 わたしたちの分。

 果実から始まった物語は、

 圧搾され、
 再構成され、
 乳化され、
 冷却され、
 切断され、
 粉をまとい、

 そして今、
 誰かに渡されようとしている。

 わたしは箱を持ち上げる。

Mirim  
「じゃあ、行ってくる」

Keigo  
「溶かすなよ」

Mirim  
「冷蔵バッグ入れてく」

Keigo  
「合理的だ」

Mirim  
「プロの合理性、だからね」

 扉を開ける。

 外は少し冷たい。

 でも、

 この石畳は、
 誰かの体温で、
 また静かに、壊れる。

 そして、

 その瞬間だけが、
 本当の完成になる。


♦️第10章|再構成という愛
—— 果実から、わたしへ




 キッチンは静かだ。

 テーブルの上に、
 わたしたちの分の石畳。

 粉をまとった、小さな正方形。

 ひとつ、口に入れる。

 外はさらり。
 中はゆっくり溶ける。

 アルマニャックの角が、
 最後に残る。

 優しいだけじゃない。
 それでいい。

 わたしも、
 いろんな選択をしてきた。

 迷って、
 混ぜて、
 やり直して。

 完璧じゃない。

 でも、
 自分で選んだ。

 壊れることを怖がらない。

 溶けることを前提に、
 形をつくる。

 それでいい。

 甘さは消える。

 でも、
 選んだ時間は残る。

 —— これが、わたしのチョコレート。



Fin


前話はこちら


料理の向こう側シリーズ
マガジンはこちら
メンバーの方には全て公開しています。


今回Mirimの使ったクーベルチュール

今回Mirimが使ったアルマニャック

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