料理の向こう側 CASE 10
♦️第1章|今夜の夕飯は、カレーにしよう
わたしはキッチンに立って、鍋を出した。
冷蔵庫を開けて、玉ねぎの袋を見る。
ジャガイモは、まだ残っている。
肉もある。
問題はない。
Mirim
「ねぇ、Keigoくん」
Keigo
「ん?」
Mirim
「今日さ、カレーでいい?」
そう言いながら、
わたしはもう引き出しを開けていた。
まな板を出して、包丁を置く。
Keigo
「“でいい”って言い方、ずるくないか」
Mirim
「だって、反対されないもん」
Keigo
「まぁ……しないけどさ!」
献立の相談は、これ以上広がらない。
理由もいらない。
今日は特別な日でもない。
不思議な話だ。
ハンバーグでもない。
生姜焼きでもない。
唐揚げでもない。
「カレー」と言った瞬間、
家の中の空気が、少し落ち着く。
わたしは玉ねぎの皮をむきながら、
そのことを考えていた。
Mirim
「ねぇ、Keigoくん」
Keigo
「なに?」
Mirim
「カレーってさ」
玉ねぎを半分に切る。
包丁が、一定の音を立てる。
Mirim
「なんで、こんなに普通なんだろうね」
Keigo
「普通?」
Mirim
「うん。
“今日はカレー”って言って、
誰も理由を聞かないじゃん」
Keigo
「確かに」
Keigoくんは、ジャガイモを剥きながら
少し考えた。
Keigo
「説明がいらない料理、ってことか」
Mirim
「そうそう。
楽だからとか、簡単だからとか、
そういう話じゃなくて」
玉ねぎを刻む手が、止まらない。
Mirim
「“今日はカレー”って、
それだけで成立してる感じ」
Keigo
「言われてみればな」
包丁の音が、一定のリズムで続く。
Keigo
「カレーって、いつの間にか、
当たり前の王道料理になってるよね」
Mirim
「でしょ」
鍋に油をひく音が、静かに響く。
Mirim
「でもさ、考えてみると、変じゃない?」
Keigo
「何が」
Mirim
「カレーって、
日本の料理じゃないよね」
Keigo
「違うな」
Mirim
「海外の料理だったはずなのに、それが今では
普通にみんなが作ってる」
鍋に玉ねぎを入れると、
じゅっと音が立った。
その音が、妙に懐かしい。
Mirim
「ねぇ、Keigoくん、カレーって、
いつから、こんな位置に来たんだと思う?」
Keigoくんは、鍋の中を見ながら答えた。
Keigo
「最初からじゃないだろうな。
どこかで日本の生活に合わせて、
形を変えたはずだ」
玉ねぎが、少しずつ色を変えていく。
この料理は、遠くから来たはずなのに、
今では日本の国民食だ。
Mirim
「今日はさ、ちゃんと作りながら、
考えてみようよ。カレーが、
どうやって、ここまで来たのか」
Keigoくんは、小さくうなずいた。
Keigo
「いいな」
鍋の中で、玉ねぎが静かに甘くなっていく。
♦️第2章|KariがCurryになった日
—— イギリスが持ち帰った「煮込みの概念」
玉ねぎを炒める手を止めて、
Keigoくんが言った。
わたしはジャガイモを切っていく。
Keigo
「まず、はっきりさせとこうか」
Mirim
「なに?」
Keigo
「“カレー”って言葉。
あれ、インドの料理名じゃないからな」
Mirim
「えっ!そうなの?」
Keigo
「インドに“カレー”って料理はない」
わたしは一瞬、手を止めた。
Mirim
「ちょっと待って。
インド料理=カレーじゃないの?」
Keigo
「違う。 インドには煮込みが無数にあるだけだ」
Mirim
「無数?」
Keigo
「地方ごと、家庭ごと、宗教ごとに全部違う。
豆だったり、肉だったり、野菜だったり」
Keigoくんは言葉を選びながら続ける。
Keigo
「でも、それを全部まとめて呼ぶ名前が、
インド側にはなかった」
Mirim
「じゃあ……」
Keigo
「“Curry”って言葉を作ったのは、イギリスだ」
話は一気に過去へ飛ぶ。
18世紀から19世紀。
イギリスがインドを支配していた時代。
イギリス人たちは、
現地で出される煮込み料理を前にして困った。
香りが強い。汁気がある。
でも名前が多すぎる。
覚えられない。分類できない。
そこで、まとめたんだ。
Keigo
「“Kari”って言葉がある」
Mirim
「Kari?」
Keigo
「タミル語で、 汁とか煮込みに近い意味だ」
Mirim
「料理名じゃないんだ」
Keigo
「状態を指す言葉だな。
イギリス人は、その音を拾って、
自分たちの言葉に置き換えた。
Curryだ」
無数にあった煮込みは、
一つの言葉に統一された。
Mirim
「……だいぶ雑だね」
Keigo
「さすが帝国のやり方だな」
イギリスに持ち帰られた煮込みは、
そのままでは使えなかった。
スパイスが多すぎる。
油が重い。
毎回味が決まらない。
Keigo
「イギリスは、家庭料理の国だろ?」
Mirim
「たしかに」
Keigo
「だから、誰が作っても同じになる形に変えた」
そこで生まれたのが、
複数の香辛料をあらかじめ混ぜた粉だった。
Mirim
「カレーパウダー?」
Keigo
「そう。量を決めて、香りを固定した」
Mirim
「再現しやすくしたんだ?」
Keigo
「その時点で、もう現地の料理とは別物だな」
このカレーは、
家庭だけじゃなく、軍でも使われた。
大量に作れる。 臭みを消せる。
味がぶれない。
Mirim
「便利すぎるね」
Keigo
「兵隊向きだ」
わたしは鍋の中の玉ねぎを見ながら言った。
Mirim
「それってさ、このあと日本に来る条件、
もうすでに揃ってない?」
Keigo
「揃ってる。日本に渡ったのは、
インドの煮込みじゃない。
イギリスが作った、
作りやすい煮込み料理だった」
鍋の中で、玉ねぎがゆっくり色づいていく。
フライパンで、牛肉を炒めて行く。
でもこの料理は、
もう一度、別の場所で形を変えることになる。
♦️第3章|海軍がカレーを選んだ理由
—— 日本に渡ったCurryは、まず軍で煮込まれた
玉ねぎが、だいぶ透き通ってきた。
鍋の底に残る音が、
じゅっ、から、しゅっ、に変わる。
水分が抜けて、油の気配が前に出てくる。
Keigo
「さっきの話の続きだけどさ」
Mirim
「うん」
Keigo
「日本にカレーが来た最初の居場所、
どこだと思う?」
Mirim
「……お店?」
Keigo
「違う」
Keigoくんは、鍋の中を見ながら言った。
Keigo
「海軍だ。時代は明治。
日本が一気に西洋化を進めていた頃、
海軍はイギリスを手本にしていた。
船も。制服も。訓練も。そして食事も」
Mirim
「海の上で?」
Keigo
「そう。
長い航海で、何百人分も作る必要があった。
当時の日本海軍が抱えていた問題は、
はっきりしていた。脚気だよ」
Mirim
「……白米のやつ、ビタミンB1不足?」
Keigo
「そう。腹は膨れるけど、体が持たない。
一汁三菜を、毎食きっちり出す余裕はない。
でも、栄養はまとめて摂らせなきゃいけない」
Mirim
「そこで、カレー?」
Keigo
「一つの鍋で、肉も野菜も全部入れられる。
しかも味がしっかりしてるし、
多少条件が悪くても、味が誤魔化せる」
鍋の中で、玉ねぎが静かに色づいていく。
フライパンでは牛肉が色良く焼けてきている。
Keigo
「そして、もう一つ大事なのがな」
Mirim
「なに?」
Keigo
「主食だ。イギリスでは、パン。
そして、日本では、米。
ここが決定的に違った。
米と一緒に食える必要があった」
Mirim
「……とろみ?」
Keigo
「そう。汁気が多すぎると、米に絡まない。
少なすぎると、煮込みにならない。
ちょうどいい濃さ。ちょうどいい重さ」
Mirim
「だから、今の形になったんだ」
Keigo
「海軍の中で、その形が固まった。
曜日で献立を回す。分量を決める。
誰が作っても同じ味にする」
Mirim
「家庭料理とは、真逆だね」
Keigo
「でもな」
Keigoくんは、少しだけ間を置いた。
Keigo
「型が決まったからこそ、あとで崩せたんだ。
肉を変えてもいい。野菜を増やしてもいい。
水を足してもいい。
それでも、名前は変わらなかった」
Mirim
「カレーの強さって、
もうここで仕込まれてたんだね」
Keigo
「そういうこと」
鍋の中で、
玉ねぎは色づき完全に甘くなっていた。
水と固形コンソメとローリエをいれる。
そして香ばしく焼けた牛肉を入れる。
Mirim
「じゃあさ、
このあと、家庭に登場するんだよね?」
Keigo
「だな。」
Keigoくんは、そう答えただけで、
それ以上は言わなかった。
♦️第4章|ルーが生まれた日
—— 給食とハウス食品が、家庭への道を開いた
沸騰し火を弱めた鍋から、
玉ねぎの甘い匂いが広がっている。
この匂いは、
特別な店のものじゃない。
どこかで皆が嗅いだことがある匂いだ。
Mirim
「ねぇ、Keigoくん、カレーってさ、
家にいきなり来たわけじゃないよね」
Keigo
「来てないな」
Keigoくんは、
鍋の中をゆっくりかき混ぜながら続けた。
Keigo
「家庭に来る前に、まず子どもが食べている。
戦後、日本では、学校給食がはじまっただろ。
その中で、カレーは特別な立ち位置を持った。
白いご飯に、とろみのあるカレー。
普段より匂いが強くて、はっきりした味」
Mirim
「給食のカレーの日って、
今でもちょっと空気違ったよね」
Keigo
「あぁ。人気メニューだし、教室も静かになる。
全国どこでも、ほぼ同じ形のカレーを食べる。
地域差も、家庭差もない。
子どもにとって、それは「基準の味」になった」
Mirim
「で、家で食べたくなる」
Keigo
「そう。でも、ここで問題が出る。
家庭では、給食のカレーがうまく再現できない。
粉を炒める。焦がさない。
そしてダマにしない。
分量を間違えると、失敗する。
作りなれていない主婦たちには難しすぎた」
Mirim
「確かに、慣れるまで毎回は無理だよね」
Keigo
「毎日の料理としては、リスクが高すぎたんだ。
ここに現れたのが、ハウス食品だった。
ハウスがやったことは、実はすごく単純だ」
Mirim
「なに?」
Keigo
「家庭で一番失敗する工程を、
全部、工場で済ませた。
小麦粉と油を炒める。香辛料を混ぜる。
火加減を管理する。
それを、家庭じゃなく、工場でやる。
そして、固めた」
Mirim
「……ルーだ」
Keigo
「そう。家では、割って入れて溶かすだけ。
焦がさない。粉っぽくならない。味がぶれない」
Mirim
「それで一気に、家で作れるようになったんだ」
Keigo
「給食で覚えた味を、
そのまま家に持ち帰れるようになった。
そして、子どもが言う。給食と同じだ!
その一言が、家庭での今の居場所を決めた」
Mirim
「つまりさ、
給食が記憶を作って、ハウスが道具を作った」
Keigo
「そういう分業だな。
どちらか一方じゃ足りなかった。
給食だけでは、家で作れない。ルーだけでも、
食べた記憶がなければ広がらない。
その2つが、ちょうど同じ時代に噛み合った」
Mirim
「だから、一気に家庭に普及したんだね」
Keigo
「説明なしでな。」
Mirim
「なるほど!これでさ、カレーは、
完全に家庭の料理になったんだね」
Keigo
「子ども経由でな」
鍋の火を、
そのままにしてコトコト煮込む。
♦️第5章|カレーは「お袋の味」の席に座った
—— 家ごとに違うのに、誰も困らなかった理由
鍋の蓋を少しずらす。
Mirim
「ねぇ、Keigoくん。
皆、同じルー使っていてもさ、
家ごとに味、全然違うよね」
Keigo
「違うな」
水の量。
肉の種類。
野菜の切り方。
同じのメーカーの箱を使っているはずなのに、
それでも出来上がる味は揃わない。
Keigo
「でも、それで困ったことあるか?」
Mirim
「……ないね」
他人の家で出されたカレー。
少し甘かったり、
思ったよりシャバシャバだったり、
具がやたら大きかったり。
それでも、
誰も「間違ってる」とは言わない。
Mirim
「味噌汁だとさ、出汁が違うと、
ちょっと気になるのに」
Keigo
「カレーだと、そうならないだろ?
カレーには、正解が一つじゃない。
むしろ、違っている方が当たり前だ。
ここで、カレーは一段、立場を変えたんだ」
Mirim
「立場?」
Keigo
「家庭ごとの味を、許された料理になったんだ。
甘口の家、辛口の家。具だくさんの家。
肉を使わない家。豚肉の家。
隠し味にこだわる家庭。
どのルーを使うのか。ブレンドするのか。
どれも、その家のカレーだ」
Mirim
「だからさ”うちのカレー”って言い方が、
普通に通じるんだね」
この言葉が使える料理は、
実はそんなに多くない。
お袋の味。
それは、味そのものより、
繰り返し食べた記憶のことだ。
Keigo
「給食で基準を覚えて、
家で、少しずつズレていく。
そのズレが、積み重なっていった。
そして気づいたときには、誰の家にも、
自分の家のカレーがあった」
Mirim
「カレーってさ、お袋の味を、
奪ったんじゃなくて、空いてた席に、
すっと座った感じだね」
Keigo
「言い得てる。
カレーは特別な日に出る料理じゃない。
でも、雑にも扱われない。
文句も出ないし理由もいらない。
毎週食べても許される料理だな」
Mirim
「それ、相当すごいことだよ。
だからさ、カレーって、国民食になったんだね」
鍋の中を、軽くひと混ぜする。
ジャガイモをいれる。
♦️第6章|そして、日本はカレーを分岐させ始めた
—— 一つだった料理が、無数に増えていった理由
Mirim
「ねぇ、Keigoくん。
カレーってさ、
いつの間に、こんなに種類増えたんだろうね?
無水カレー。スープカレー。スパイスカレー。
思い浮かべるだけでも数えきれないよね」
Keigo
「家庭に完全に入ったあとだな。
正解がなくなった。
それで、みんな試していい料理になった」
表面に浮いてきたアクを丁寧にすくいとる。
Keigo
「最初から自由だったら、ここまで広がらない。
一度、全員が知ったからな。給食のカレー、
家のカレー。そしてルー。
同じ基準を一度は通ってる」
Mirim
「だから、水減らしても、別に怒られないんだ」
Keigo
「名前で通じるからな。
水を減らす。油を減らす。小麦粉を抜く。
トマトを入れる。全部、“やってみた”の延長だ」
Mirim
「日本のカレーって、
実験が許されてる料理なんだね」
Keigo
「まぁ、家庭料理がメインだからな」
鍋の中を、お玉で一度すくって戻す。
♦️第7章|なぜ、海外は油で煮るのか
—— 水が貴重だった世界の料理構造
火を止め、ルーを溶かす。
鍋の表面に浮いた油が、
少しずつ端に寄る。
Mirim
「そういえば東南アジアの煮込みカレーってね、
動画見てびっくりしたんだけどね、
大量の油で煮込んでるよね?」
Keigo
「何?」
Mirim
「例えばお肉とか焼かないで揚げるの。
でもその後、お肉を取り出してね、
野菜とかを炒めてたの。編集してあったのかな?
あの大量の油って、どこいったんだろうって」
Keigoくんは、少しだけ考えてから答えた。
Keigo
「基本、油はさ、捨てないよな。そのまま使う」
Mirim
「……だよね。え?それ大丈夫なの?」
Keigo
「油は、向こうじゃ“残り物”じゃない。
油で作る料理だ。そもそも調理の途中なんだ。なぜなら、水は貴重だからな。
生水は飲めない。そして保存できない。
水で煮る文化は、安全な水が前提だ」
Mirim
「なるほど。え!?じゃあ、
それがない場所では?」
Keigo
「水の代わりが油になる。油は腐りにくい。
香りを閉じ込める。
火を通せば保存も効く。
だから南アジアの料理は、
油で始まり、油で終わるんだ」
Mirim
「揚げて、その油で煮る」
Keigo
「不思議でもなんでもない。合理的手法だ」
わたしは、そこでようやく理解した。
Mirim
「そもそも、あっちのカレーは
油で作る料理なんだ?」
Keigo
「そう。だから——さっきも言ったけど、
“カレー”なんて名前も、元々存在しない。
インド。タイ。ネパール。スリランカ。
向こうは、油でスパイスを立たせる。
油に香りを溶かす。乳化させて広げる。」
Mirim
「でも、日本のカレーは違う」
Keigo
「水で煮込む。野菜の水分。煮込む時間を考える。
油でまとめるより、水で作る料理だな。
ご飯にかける。全部を一緒に口に入れる」
Mirim
「油多すぎると、ご飯、重くなるもんね」
Keigo
「そう。日本人には、油を食べる習慣がない。
だから、日本のカレーは軽く仕上げる。
たとえ、無水でも完全に油だけにはしない。
必ず、水分を残す。
海外は香りの最大化と保存、
日本は生活への適応だ。
どっちが正しい、じゃない。目的が違う。」
カレーはまたコトコトと煮込まれていく。
♦️第8章|日本のカレーは、外に出られる形をしていた
—— なぜ「Japanese Curry」は、翻訳されずに通じ始めたのか
ルーが完全に溶けた鍋は、
もう強く主張しない。
とろみはあるけれど、重すぎない。
油は見えるけれど、前には出てこない。
ご飯を待つ料理の顔をしている。
Mirim
「ねぇ、Keigoくん?
日本のカレーってさ、海外に出ても
そのまま“カレー”って呼ばれてるよね」
Keigo
「そうだな。
正確には、“Japanese Curry”だけど、
インドカレーでもない。タイカレーでもない。
わざわざ、国名が付く」
Mirim
「それって、ちょっと不思議じゃない?」
Keigo
「普通は、元の国の名前が残るからな。
ナンと一緒に出てくるもの。
ココナッツミルクが効いたもの。
スパイスが前に出るもの。
それらとは、明らかに別枠で扱われている。
日本のカレーはな、
説明しなくても“どう食べるか”が分かる」
Mirim
「……あ」
Keigo
「皿に盛られたご飯。
横にかかったルー入りのソース。
スプーンで、全部すくう」
Mirim
「迷わないね。ナンをちぎるか。
混ぜるのか。残すのか。
そういう作法の説明すら必要がない」
Keigo
「完成形が、見た目で伝わる料理なんだ」
鍋の縁を、木べらで軽くこそぐ。
音は、もう落ち着いている。
スパイシーな香りが辺りを包む。
Mirim
「それってさ、
“家庭料理として完成してる”ってこと?」
Keigo
「そう。店の料理じゃない。誰かの生活の延長だ」
だから、海外に持っていっても、
文化ごと壊れない。
Keigo
「味が安定してる。作り方も、再現できる。
材料も、代替がきく」
Mirim
「……外に出られる条件、揃ってるね」
Keigo
「結果的にな」
火を止める。
皿にご飯をよそう。
白い湯気の上に、
ゆっくりとカレーをかける。
Mirim
「じゃあ、食べよう」
Keigo
「あぁ。いただきます!」
スプーンですくう。
ご飯とルーが、
自然に一緒に口に入る。
♦️第9章|増え続けるカレー
—— 日本だけが止めなかった理由
カレーを食べながら、
わたしはふと、どうでもいいようで、
どうでもよくないことを考えていた。
——今、日本には、
いったい何種類のカレーがあるんだろう。
スーパーの棚を思い出す。
甘口、中辛、辛口。
バーモント、ジャワ、ゴールデン。
欧風、インド風、スパイス系。
無水向け、炒め用、煮込み用。
一社だけでも、数えきれない。
メーカーを横断すれば、
もはや全体像は誰にも分からない。
それでも、
全部ひっくるめて「カレー」だ。
レトルトも同じだ。
コンビニ限定。
地方限定。
名店監修。
期間限定。
高級路線、ワンコイン、非常食。
棚は毎年入れ替わり、
終売と新作が静かに繰り返されている。
——減らない。
——整理されない。
——統一されない。
Mirim
「ねぇ、Keigoくん。
ここまで揃ったらさ、
普通、どこかで止まらない?」
Keigo
「止まるな。普通は。完成形が決まれば、
あとはそれを守るだけになる」
Mirim
「でも、日本のカレーは違うよね」
Keigo
「あぁ。
定番の型はある。でも、固定はしない。
正解はある。でも、決めない」
Mirim
「ルーってさ、日本以外でも作られてるのかな」
Keigo
「作られてはいる。でも、
ここまで“家庭前提”で
細かく枝分かれしてるのは、日本だけだな」
Mirim
「じゃあ、日本だけが……」
Keigo
「増やすことをやめなかった」
完成させる代わりに、
更新を選んだ。
揃える代わりに、
増やす方を選んだ。
誰かが決める正解より、
各家庭の都合を優先した。
Mirim
「これさ……完成させなかったんじゃなくて、
完成を“許さなかった”んだよね」
Keigo
「まぁ、そういうことだな」
日本のカレーは、
もう十分に出来上がっている。
それでも、
終わらせない。
まだ増える。
まだ分かれる。
まだ更新される。
——そして、誰も困らない。
♦️第10章|まだ途中の料理
—— 日本のカレーは、完成を急がない
カレーを食べながら、わたしは考えていた。
日本のカレーは、ここまで完成しているのに
なぜか、どこか完成を避けている料理だ。
味を固定しすぎない。
形を縛らない。正解を決めない。
同じ名前なのに、家ごとに違う。
海外に出た料理は、普通、形を固める。
でも、日本のカレーは、
今でもまだ揺れている。
揺れたまま、
生活の中に存在している。
「今日はカレーだよ」
その一言が、
これからどこまで通じるのかは分からない。
でも、この料理は、いつもそうだったから。
鍋の底に残ったカレーを、
少しだけ見てから、わたしはスプーンを置いた。
fin
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