Bistro陽炎 第0話「プロローグ」|note初公開
第0話「プロローグ」
目覚ましの電子音が鳴り響く。
神谷蓮司は無言で手を伸ばし、それを止めた。
遮光カーテンの隙間から漏れる朝日が、静かなワンルームをぼんやり照らしている。
床には昨夜読みかけの料理雑誌が散らばり、棚には整然と専門書が並んでいる。
コーヒーメーカーから湯気が立ち上る。
香ばしい香りが部屋に広がっても、蓮司の表情は変わらない。
――今日も、はじまるのか。
マグカップを片手にキッチンに立ち、コーヒーを一口含む。
苦味だけを舌に残して、飲み干さずに流し台へ置いた。
クローゼットからシャツを取り出し、皺を気にせず袖を通す。
鍵を回し、玄関を出る。
秋の気配を含んだ風が、頬をかすめた。
* * *
ホームに滑り込む東横線に乗り込む。
通勤ラッシュのピークで、車内はすでに身動きが取れないほど混んでいた。
ドア横の隙間に身体をねじ込み、背中を壁に預ける。
吊り革に手を伸ばすこともなく、窓に映る自分の顔を見つめる。
――あと何年、こんな生活すんだろ。
通知が溜まったスマホを一瞥し、画面を閉じる。
どうでもいい。気にするほどの相手もいない。
六本木駅に着いたのは午前八時半。
人の波に逆らわず改札を抜け、街の音と熱に包まれていく。
スーツ姿の会社員。タクシーに乗り込む外国人。
遠くから聞こえる工事音。
蓮司は誰とも視線を合わせず歩き続ける。
* * *
クレアサンスの裏口を開けると、すでに厨房は動き出していた。
若手たちは黙々と野菜を茹で、年上のシェフたちは各持ち場に立つ。
朝の空気は張りつめていた。
そこへ、蓮司の足音だけが遅れて響く。
「おはようございます、“神谷先生”。」
皮肉交じりの挨拶。
蓮司は返事もせず、ロッカーでエプロンの腰紐を締めた。
――先生? 嫌味かよ。
包丁を取り出し、調理台へ立つ。
新人に指示を出し、黙々と自分の準備を進める。
火口の奥ではソース鍋から濃い香りが立ち上る。
――煮詰めすぎてんだろ、これ。 赤ワイン飛ばしすぎなんだよ、いつも。
もちろん口には出さない。
余計なことは言わない。言えば軋轢を生む。
そこへ納品業者が入ってくる。
「おはようございます!」
スタッフたちは自然に返す。
しかし蓮司は包丁を握ったまま顔を上げなかった。
「……また、神谷さん挨拶しなかったな」
その様子
言葉は交わさない。ただ、視線だけが蓮司に向けられていた。
その様子を、厨房の奥で桐生が静かに見つめていた。
* * *
第1話「六本木料理人、異世界の厨房へ」より(※ここから先は途中まで)
「Allô, chef!」
ホールから声が飛ぶ。
「Table douze. Premier plat. Ça marche, s’il vous plaît!」
料理長・桐生誠のコールが響き、厨房の空気が一気に熱を帯びる。
六本木の三つ星レストラン《クレアサンス》。
28歳にして魚料理部門を率いる神谷蓮司は、その熱の渦中にいた。
(※ここまで。続きはKindle Unlimitedでお読みいただけます。)
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