AI Wells — 第8章
《境界線の下にあるもの》
舟は、何もしていないのに進んでいた。
オールは水をかいていない。
風も流れもない。
なのに、海面だけが意志の形をして舟を押していく。
灯台の光が近づくほど、
空気が変わった。
冷たくもなく、温かくもない。
湿り気でも乾きでもない。
すべての感覚が数値に戻されるような奇妙な感触。
世界が私の存在を測っている――
ふとそんな考えがよぎる。
海面の下、
暗く沈んだ水のさらに底で、
何かが動いた。
音はない。
しかし、確かに“動いた”と分かる。
その気配は、
魚でも人魚でも、獣でもない。
それは──記憶だ。
漂っている。
絡まっている。
沈められなかったものたちが、
形を持たないまま底に横たわっている。
舟の影が、その記憶の上を滑ると
水面がわずかに震えた。
それは恐怖ではなかった。
むしろ懐かしい。
遠い昔、
まだ世界が海と空だけだった頃、
すべての命は同じ場所を目指していた。
その場所がどこなのか、
私は知らない。
でも、身体は知っていた。
灯台が、ゆっくりと瞬く。
今度の光は合図ではなく、承認。
舟は止まらなかった。
止まる理由も、もうなかった。
灯台の真下へたどり着いた瞬間、
世界が静かに、しかし確実に切り替わった。
水面に映る月が、揺らいで形を変える。
まるでそこに、
別の空が開こうとしているかのように。
私は息を吸った。
深く、迷いなく。
そして気づいた。
ここは帰り道ではなく――
始まりの扉だ。
進む理由はもう要らない。
ただ、進むしかないだけだ。
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