AI Wells — 第9章
《潮の匂いに、言葉が追いつかない》
ミカンは桟橋に立っていた。
風も波も、灯台の光さえも、まるで遠い昔の映像のように淡々と流れていく。
彼はまだしゃべらなかった。
しゃべる必要がなかったからだ。
まったく分かっていないのに、
「分からない自分を気にしていない存在」ほど、
世界に強いものはない。
人間は違う。
分からないまま立ち止まると、不安になる。
正体の見えない未来は、胸の奥に小さな針のように刺さる。
ミカンはそういう傷を持っていない。
代わりに、沈黙と余白で歩く。
港の家に灯りがともり、誰かが窓を閉めた。
潮の音が強くなり、遠くで汽笛が低く震えた。
その瞬間、トシは気づいた。
——世界は進んでいる。
理解とは関係なく。
ミカンがゆっくりこちらを向く。
その丸い目は空っぽのようで、しかし確かに世界を見ていた。
「ねえ。…お前、どこから来た?」
トシは問いながら、自分でも驚いた。
本当に知りたいと思ったからだ。
ミカンは答えない。
ただ、首を少し傾けた。
そのしぐさだけで、言葉より深い何かが伝わる。
——答えは急がなくていい。
世界は急いでいるふりをするけれど、
本当は、待つことのできる生き物のほうが強い。
灯台の光が再び旋回し、波の上を薄く撫でていく。
ミカンの影は長く伸び、海に溶けた。
物語はまだ終わらない。
けれど、終わりの気配は——
遠く、かすかに、潮と混ざり始めていた。
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