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バブルの手鏡で時代を見る

古い物差しで今を測る。

それだけなら、まだ分かる。

物差しは一応、外にあるものを測る道具だから。

でも古い手鏡で今を見るとなると話が違う。

手鏡に映るのは世界ではない。自分。
それも角度を選び、光を選び、見たい範囲だけを映した自分だ。

バブルの手鏡で時代を見る人たちがいる。

今の社会を見ているつもりで、実際は景気がよかった頃の自分を見ている。

日本はまだ強い。
強い言葉を使えば、もっと強く見える。
大きな計画を掲げれば、前に進んでいるように見える。
厳しい顔で国家を語れば、自分まで国家的な人物に見える。

そんな感覚が、どこかに残っている。

バブルの時代を生きたことが悪いわけではない。

その時代に踊っていたことも、成功したことも、失敗したことも、それぞれ人生の一部である。

問題は、その時代が終わっても頭の中で、まだ音楽が鳴っていることだ。

人口は減った。
家族の形も変わった。
産業構造も変わった。
国際社会の力関係も変わった。
若い世代の働き方も、結婚観も、国に対する距離感も変わった。

皇室を支える制度の前提も、明治とも昭和とも違う。

それでも、昔の手鏡を掲げて、

「日本はこういう国だった」
「本来はこうあるべきだ」
「昔の形を守れば大丈夫だ」
と語る人がいる。

しかし、その鏡に映っているのは、日本の現在ではない。
昔の自分。今より若く、勢いがあり、世の中の中心にいた頃の姿。

手鏡は便利だ。
見たくないものを映さなくて済む。
若い世代の不安、地方の疲弊、制度の限界、角度を少し変えれば消せる。

周囲に同じ鏡を覗き込む人がいれば、なお都合がいい。

「まだいける」
「昔のやり方で大丈夫だ」
「強く出れば相手は引く」

そう言い合っているうちに、鏡の外にある現実は、ますます見えなくなる。

一人だけの問題ではない。

その人の周囲で、同じ角度から鏡を覗き込み、同じ昔話にうなずいている人たちもいる。

長く政治や行政や経済の中心にいた人ほど、自分が見てきた日本を、日本そのものだと思いやすい。

だが、自分が活躍した時代は、国家の永久保存版ではない。

その時代に有効だった価値観や制度や成功体験も、すべてが今に通用するわけではない。

伝統も同じこと。

伝統とは、昔の形を一切変えずに残すことではない。時代ごとに、何を残し、何を変えるかを考え、その選択を積み重ねることでもある。

明治の制度は、明治の国家を映していた。
戦後の制度は、戦後の社会を映していた。

ならば令和には、令和の現実を映す鏡が必要になる。

昔の手鏡を捨てろ、ではない。
人生の記念品として、大切に持っていればいい。
ただし、それを窓だと思わないでほしい。

自分の顔が映っているだけのものを、時代の全景だと思わないでほしい。

バブルの手鏡で時代を見ると、見えるのは今ではない。

昔、光の中にいた自分である。

その姿にもう一度うっとりするのは自由だ。

ただ、その鏡に映った景色を、国民全体の進路だと思わないでほしい。

と、

バブルの片隅にいたし、少し踊りもした一庶民である私は思ったりする。

【▲ヘザー落合のNote案内所】

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