「ナフサ不足」は氷山の一角だろう
北海道の水産加工業者が、包装資材の品薄や価格高騰などを理由に事業継続を断念した、という記事を読んだ。
コメント欄では「ナフサ不足を強調しすぎた偏向報道だ」という批判も多いように見える。これはこれで分からなくはない。
会社が事業を止める理由は、ひとつではない。原材料費、燃料費、人件費、物流費、販売価格、借入金、後継者問題。そこには多くの要素が絡む。
だから、すべてを「ナフサ不足」の一語で説明するなら、それは確かに乱暴だろう。
ただ、私が気になったのはそこではない。
問題の本質は、水産加工のような、一見すると“食べ物の商売”に見える業態でさえ、実は石油化学由来の包装資材に深く依存していることではないか。
魚を加工する。
それを詰める。
包む。
冷やす。
送る。
店頭に並べる。
消費者が買って帰る。
その流れの中に、袋、トレー、ラップ、発泡スチロール、フィルム、保冷材、段ボール内の緩衝材など、さまざまな包装資材が入り込んでいる。
つまり、現代社会は“食料”ですら、“石油化学の薄い膜”に包まれて流通している。
それでいいのだろうか。
このままでいいのだろうか。
もちろん、衛生管理や保存性、流通効率を考えれば、プラスチック包装には大きな意味があった。それを単純に悪者扱いする気はない。
プラスチック包装があるからこそ、生鮮品は遠くまで運ばれ、一定の品質で並び、消費者は季節や地域を越えて食べ物を選べるようになった。
ただ、その便利さは、本当に永続する前提で考えてよいものだったのか。
この数十年、私たちは包装資材を「空気のようにあるもの」として扱ってきた。安く清潔で、軽く透明で丈夫で、捨てられる。しかも大量にある。
しかし、それは人類史の中では、ほんの一時期の特殊な状態だったのではないか。
生鮮品が全国どこでも、ある程度均質に、当たり前のように流通できるようになったのは、せいぜいこの30年から40年ほどの話だと思う。
それ以前、包装資材の「プラ」は、今ほど日常のすみずみまで行き渡っていなかった。
八百屋では、野菜をそのまま並べ、必要に応じて新聞紙で包んだ。
肉屋では、経木や紙で肉を包んだ。
魚屋でもビニール袋はすでに使われていた気がするが、現在のように、トレー、ラップ、ラベル、フィルム、保冷材までが当たり前のように組み合わされた包装ではなかった。
昔が清潔で、今が悪いという話ではない。
昔に戻れという話でもない。
ただ、包装の密度が明らかに変わった。
食べ物のまわりにある「薄い膜」が、紙や木や新聞紙から、石油化学由来の透明な素材へと置き換わっていった。そして私たちは、それをほとんど意識しないまま、便利さとして受け入れてきた。
最近では、青果販売の一部で、昔のように新聞紙などで野菜を包んで渡す動きも始まっているらしい。単なる懐古趣味にも見える。だが私は、むしろ未来への小さな予告のように感じる。
「昔に戻れ」という話ではない。戻れるはずもない。
ただ、すべてを新品の袋に入れ、透明なフィルムで包み、見栄えよく整え、少しでも傷があれば売れなくなるという消費の形は、そろそろ限界に近づいているのではないか。
ここで考えるべきなのは、包装だけではない。
衛生管理の考え方そのものでもある。
もちろん、衛生面の管理は重要だ。
包装を減らせばよい、昔のようにすればよい、という単純な話ではない。
売り手には売り手の責任がある。
食品を扱う以上、安全性を確保する責任は当然ある。
だが、清潔さや衛生管理は、本来、売り手だけにすべてを委ねるものではなかったはずだ。
買ったものをどう持ち帰るか。
どこに置くか。
どれくらいの時間で食べるか。
洗うべきものを洗うか。
冷やすべきものを冷やすか。
自分の身体の健康を守る最終的な意識は、当然、消費者側にもある。
これは昔もそうだったし、今でも同じことだと思う。
ところが、買った瞬間から食べる瞬間までのすべてを、店頭の包装だけで保証しようとすれば、包装はどんどん厚く、複雑に、過剰になっていく。
その結果、私たちは「安心」を買いながら、大量の使い捨て資源を同時に買うことになった。
包装は、売り手が消費者の不安をすべて肩代わりするためのものなのか。
それとも、必要な安全性と流通性を確保しながら、消費者自身の扱い方も含めて成り立つものなのか。
この違いは大きい。
今は、包装の位置づけを見直すいい機会なのではないだろうか。
資源を節約する。
温存する。
再利用する。
過剰包装を減らす。
多少の不便を受け入れる。
そして、消費者も自分の手元に来た食品をどう扱うかを考える。
そういう時代に、私たちはもう入り始めている。
それなのに、話が「この報道は偏向だ」「本当の原因は経営問題だ」というところだけで止まってしまうのは、少し不思議だ。
報道批判は必要な場合もある。
だが、報道の言い方を批判するだけで、資源制約そのものを見ないなら、それは別の意味で現実逃避ではないか。
「ナフサ不足」は、たぶん氷山の一角だ。
その下には、石油化学に依存した食品流通があり、過剰包装に慣れた消費者がいて、安さと清潔さと便利さを同時に求める社会がある。
私たちは、食べ物そのものを買っているつもりで、実はその周辺にある大量の資源も一緒に消費している。
魚を買う。
野菜を買う。
弁当を買う。
惣菜を買う。
そのたびに、食品だけでなく、包装という名の石油化学も買っている。
そして多くの場合、それは数分から数十分でゴミになる。
スター・ウォーズ神話が始まった頃、現実の世界は別の神話を始めたのではないかと私は思う。
宇宙の彼方では、ライトセーバーとフォースの神話が始まった。
一方、こちらの現実世界では、石油化学と大量包装の神話が始まった。
何でも包める。
何でも運べる。
何でも保存できる。
何でも清潔に見せられる。
そして、使い終われば捨てればいい。
その神話は、とても便利だった。
だが、神話はいつか終わる。
終わるというより、神話だったことに気づく時が来る。
「ナフサ不足」という言葉だけを見れば、どこか遠い産業ニュースに見える。
しかし、その先にあるのは、私たちの食卓であり、買い物であり、冷蔵庫であり、ゴミ箱である。
これは水産加工業者だけの問題ではない。
安い使い捨てが社会の土台だったこと。
その土台が、少しずつ揺らぎ始めていること。
そこに気づくためのニュースなのだと思う。
だから私は、この話を単なる「ナフサ不足報道」として読みたくない。
これは、便利さの後始末についての話だ。
そして、資源を無限に使えると思っていた時代が、静かに終わり始めているという話だ。
もっとも、ここにも小さな皮肉がある。昔のように新聞紙で包めばよいと言っても、その新聞紙自体が、今ではもう家庭から消えつつある。
