年長者が活字と認めない読書がある
若者は本を読まない。
よく聞く話だ。
活字離れ。
読書離れ。
長文が読めない。
スマホばかり見ている。
だから最近の若者は――。
この「だから最近の若者は」の先には、だいたい昔から同じ言葉が続く。
分かっていない。
我慢が足りない。
考える力がない。
文化から離れている。
まあ、私も年長者である。
だから本当は偉そうなことは言えない。
完全に「おまいう」である。
紙の本をありがたがる気持ちは分かる。
新聞を読んでいる人を、少しちゃんとしている人のように感じる古い感覚も、正直まだ少し残っている。
映画は映画館で見るものだ、という気持ちもある。
どうもすみません。
しかし、それでも思う。
若者は本を読んでいないかもしれない。
新聞も読んでいないかもしれない。
雑誌も買っていないかもしれない。
でも、文字を読んでいないわけではない。
スマホで読む。
字幕で読む。
ゲームで読む。
攻略情報で読む。
レビューで読む。
コメント欄で読む。
検索結果で読む。
チャットで読む。
AIとの対話で読む。
ただ、それを年長者が「読書」と認めていないだけではないか。
本を読む。
新聞を読む。
雑誌を読む。
文庫本を持ち歩く。
図書館で借りる。
書店で買う。
このあたりまでは、読書と認める。
しかしスマホで文字を追っていると、急に読書ではないことにされる。
ゲーム内の長い説明を読む。
攻略サイトで条件分岐を確認する。
SNSの長文投稿を読む。
動画の説明欄を読む。
コメント欄の妙に長い議論を読む。
映画や配信動画の字幕を読む。
こういうものは、読書として数えられにくい。
でも、読んでいる。
かなり読んでいる。
しかも時には、紙の本より面倒な文脈を読んでいる。
たとえばゲームの攻略情報などは、登場人物、固有名詞、地名、アイテム名、イベント発生条件、時系列、分岐条件をまとめて追う必要がある。
あれを読める人が「活字離れ」と言われるのは、かなり無理がある。
字幕もそうだ。
字幕は、画面に一瞬だけ出て、すぐ消える。
読者を待ってくれない。
映像を見ながら読む。
音を聞きながら読む。
人物関係を追いながら読む。
前後のセリフを補いながら読む。
紙の本より逃げ足が速い。
活字界のスリである。
それでも人は読む。
映画を見ながら読む。
ドラマを見ながら読む。
配信動画を見ながら読む。
これは読書ではないのか。
私は、かなり読書に近いと思う。
というより、字幕は活字が映画の中に住みついたものだ。
映画の中に住んでいる活字。
音と映像に寄生している活字。
一瞬で消えるくせに、意味だけはちゃんと残していく活字。
これを活字と認めないのは、少しもったいない。
「活字離れ」という言葉は便利だ。
若者を叱れる。
出版不況の説明にも使える。
文化が衰えた気分にもなれる。
昔の自分たちが少し立派だったような気もする。
でも、本当に活字は離れたのか。
活字は本棚から逃げただけではないのか。
逃げた活字は、スマホにいる。
字幕にいる。
検索窓にいる。
ゲームの中にいる。
動画の説明欄にいる。
コメント欄の長い口論にもいる。
AIとの対話にもいる。
活字は死んでいない。
居場所を変えただけだ。
これは映画にも似ている。
昔は、映画といえば映画館だった。
暗闇。
スクリーン。
座席。
予告篇。
本編。
エンドロール。
それが映画体験だった。
もちろん、それは今でも特別だ。
映画館で見る映画には、映画館でしか起きないことがある。
大きな画面。
音響。
暗闇。
他人と同じ時間を共有すること。
それは失われてほしくない。
でも、映画館で見ない映画は映画ではないのか。
配信で見る。
テレビで見る。
スマホで見る。
タブレットで見る。
途中で止めて見る。
翌日に続きを見る。
予告篇だけ見る。
メイキングを見る。
解説を見る。
リアクション動画を見る。
こういうものを、昔ながらの映画好きは「それは映画体験ではない」と言いたくなる。
分かる。
私も言いたくなる側である。
どうもすみません。
しかし、それでも映画はそこにある。
形が変わった。
場所が変わった。
見方が変わった。
それだけだ。
「映画離れ」と言われているものの一部は、実は映画館離れかもしれない。
「活字離れ」と言われているものの一部は、実は紙の本離れかもしれない。
映画が映画館から逃げたように、活字も本棚から逃げた。
だから、昔の住所だけを訪ねて「誰もいない」と言っても仕方がない。
人は別の場所にいる。
活字も別の場所にいる。
映画も別の場所にいる。
町から人が消えたのではない。
自分の知っている店に来なくなっただけだ。
問題は、若者が読んでいないことではない。
若者が見ていないことでもない。
年長者が、若者の読んでいる文字を活字と認めていないこと。
若者の見ている映像を映画体験と認めていないこと。
そこにズレがある。
もちろん、本を読まなくていいと言いたいわけではない。
長い文章を読み通す力は大切だ。
一冊の本に身を預ける時間も、簡単に捨てていいものではない。
映画館で映画を見る体験も大切だ。
配信だけでは届かないものがある。
小さな画面では受け止めきれない映像もある。
それは本当だ。
でも、それを理由に、別の場所で生きている活字や映画を偽物扱いする必要はない。
紙の本は偉い。
映画館は偉い。
それはいい。
しかし、偉いもの以外を存在しないことにしてはいけない。
活字は本だけにいるわけではない。
映画は映画館だけにいるわけではない。
文化は、年長者の認定印を待って生きているわけではない。
勝手に逃げる。
勝手に移動する。
勝手に別の形で生き残る。
そして、あとから年長者が言う。
最近の若者は離れている。
違うかもしれない。
若者が離れたのではない。
文化の方が、先に移動したのかもしれない。
こちらが追いついていないだけかもしれない。
どうもすみません。
でも、たぶん、そういうことだ。
