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AIベオウルフ|更新履歴 第4章

第4章|怪物を救うと、英雄が免罪される

――『ベオウルフ』BEOWULF & GRENDEL(2005)

この2005年版『ベオウルフ』は、
これまでとは逆の方向から
原作に近づこうとした作品である。

この作品が選んだ道は明確だ。
怪物の側に立つ

グレンデルは、
理由もなく人を襲う存在ではない。
彼には過去があり、
失われた家族があり、
復讐の動機がある。

つまりこの映画は、
怪物を「理解できる存在」にしようとする。


成功点|怪物を「意味のある存在」にした

この試み自体は、
誠実である。

怪物を単なる悪として処理せず、
暴力の連鎖として描き直すことで、
物語は倫理的な厚みを得る。

グレンデルは、
排除されるべき異物ではなく、
共同体の過去が生んだ存在になる。

観客は、
彼の行動を完全には否定できなくなる。

ここで映画は、
神話的単純化を一つ解体している。


失敗点|その瞬間、英雄が無傷になる

だが、この選択には
避けられない副作用がある。

怪物が理解されるほど、
英雄の側は
相対的に正当化されてしまう。

ベオウルフは、
暴力的な制度の担い手ではなく、
「やむを得ず立ち向かった者」になる。

怪物は救われ、
英雄もまた救われる。

だが原作『ベオウルフ』は、
このどちらも救っていない。


原作は、誰も弁護しない

原作において、
グレンデルの内面は語られない。
同時に、
ベオウルフの心理も語られない。

そこにあるのは、
行為と結果だけだ。

誰かが悪いのか、
誰かが正しいのか、
判断は読者に委ねられない。

物語は、
ただ進む。

この冷たさこそが、
『ベオウルフ』を
神話ではなく古典にしている。


「理解」は、物語を安定させてしまう

怪物を理解すると、
物語は安定する。

理由が分かり、
因果が整理され、
暴力は説明可能になる。

だがその安定は、
原作があえて避けたものだ。

『ベオウルフ』の世界では、
暴力は説明しきれない。
だからこそ、
英雄という制度が必要になり、
そして疲弊する。

怪物を救うと、
英雄を疑う理由が消えてしまう。


なぜ原作は、怪物を沈黙させたのか

原作が怪物を語らないのは、
残酷さのためではない。

それは、
物語を倫理で閉じないためだ。

誰かの事情を説明し始めた瞬間、
物語は
「納得できる話」になる。

『ベオウルフ』は、
納得させることを拒む。

この拒否によって、
英雄という存在は
常に宙づりにされる。

正義でもなく、
悪でもなく、
ただ必要とされ、
消費される存在として。


次の章では、
英雄を一人に集約しなかった映画群を見る。

そこでは初めて、
原作の最終章――
老年のベオウルフが持つ意味が、
現代的な形で見えてくる。


次章:第5章|英雄を分散させた映画は、原作に近づいた を読む
(『エイリアン』『13ウォリアーズ』ほか)

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