バブルの廃墟で踊ったコギャル
コギャルはバブルの光の中で踊っていたのではない。
バブルが終わったあとに残された廃墟で踊っていた。
この二つは、似ているようでまったく違う。
バブル景気は1990年代の初めに崩れた。
土地の値段は下がり、企業の勢いは失われ、護送船団方式も終身雇用も右肩上がりの人生設計も、少しずつ信用を失っていった。
昨日まで日本の常識だったものが、突然、そうではなくなった。
大人たちが信じていた成功の設計図に、ひびが入り始めた。
その頃に現れたのが、コギャルだった。
彼女たちは、バブルの象徴ではない。
バブルが壊れたあとに生まれた文化だ。
ルーズソックス。
厚底靴。
短くした制服。
日焼けした肌。
プリクラ。
ポケベル。
仲間内で急速に生まれ、変化し、消費されていく言葉。
大人から見れば、軽薄だったのかもしれない。
品がない。
言葉が乱れている。
制服を崩している。
勉強せずに遊んでいる。
当時、彼女たちはずいぶん雑に語られた。
しかし、今になって振り返ると、別の見え方もする。
彼女たちは、大人の社会が用意した価値観を信用していなかった。
いい学校へ行き、いい会社へ入り、真面目に働けば、将来は安定する。
そうした物語が壊れ始めていることを、理屈より先に感じていたのかもしれない。
だから、自分たちで別の価値を作った。
制服は学校から与えられたものだったが、着方は自分たちで決めた。
言葉は社会から与えられたものだったが、意味は自分たちで変えた。
街は大人が作ったものだったが、その一角を自分たちの居場所にした。
商品を買っていただけではない。
既製品を組み替え、別の意味を与え、自分たちの文化にしていた。
それは反抗と呼ぶには明るすぎた。
革命と呼ぶには軽すぎた。
だが、社会から与えられたものを、そのまま受け取らず、自分たちの形に変換する力はあった。
バブル崩壊後の日本には、すでに多くの問題が始まっていた。
就職氷河期。
非正規雇用の拡大。
長引く不況。
金融機関の破綻。
将来への不安。
だが、それらはまだ、日本社会の全景としては見えていなかった。
街にはまだ人がいた。
雑誌は厚かった。
テレビには力があった。
新しい流行が次々に生まれた。
若者は、自分たちが時代の中心にいるように振る舞うことができた。
衰退は始まっていた。
しかし、その衰退を、まだ文化に変換する体力が社会に残っていた。
コギャルは、その最後の大きな噴出だったのではないかと思う。
衰退の中でも、色を作る。
不安の中でも、言葉を作る。
先が見えなくても、今日の街を面白くする。
壊れた社会の中で、ただ沈黙するのではなく、音を鳴らす。
彼女たちは、バブルの残り香をまとっていたのではない。
バブルが壊したあとの風景に、自分たちで色を塗っていた。
だから、コギャルをバブル文化の一部として扱うと、少し違う。
バブルを作ったのは、大人たちである。
土地を買い、株を買い、大企業に入り、会社の接待で夜の街を埋めた。
コギャルは、その宴会には参加していない。
彼女たちが街に出てきた頃には、もう宴会は終わっていた。
残されていたのは、建物とブランドと広告と、大人たちの成功体験だった。
だが、その成功体験は、もう次の世代には渡らなかった。
彼女たちは、宴の客ではない。
宴のあとに残された会場で、自分たちの音楽をかけて踊った。
その踊りは、長くは続かなかった。
2000年代に入ると、日本社会は急速に静かになった。
街の若者文化は細分化され、誰もが同じ流行を見る時代は終わった。
携帯電話とインターネットは人をつないだが、同時に人を小さな集団へ分けた。
不況は一時的なものではなく、社会の前提になった。
将来への期待より、失敗しないことが重視されるようになった。
若者は、大人に反抗するより先に、自分が損をしないように考えるようになった。
派手に消費するより、安く、安全に、長く使うことを選ぶ。
街で自分を大きく見せるより、ネットの中で小さな居場所を確保する。
それは賢い適応だった。
だが、社会全体から見れば、何かが消えた。
時代を自分たちの側へ引き寄せようとする力。
大人の価値観を笑い飛ばす図々しさ。
根拠がなくても、自分たちが中心だと思える勢い。
コギャルが踊るのをやめたあと、日本は急に衰退したのではない。
すでに始まっていた衰退が、急にはっきり見えるようになった。
それまで衰退を覆っていた音楽と色が消えたからだ。
コギャルが日本を衰退させたのではない。
彼女たちは、衰退が完全に見えてしまう直前まで、その風景を文化に変えていた。
大人たちが壊したものを、若者たちが一時的に遊び場へ変えていた。
そして、その遊び場を維持する力まで社会から失われたとき、廃墟はただの廃墟になった。
今の日本には、あの頃より便利なものが多い。
携帯電話は何でもできる。
服も音楽も映像も、世界中から選べる。
だが、社会全体を巻き込む若者文化は生まれにくくなった。
若者の力が弱くなったのではない。
若者が時代を自分たちのものだと思える条件が、失われたのだと思う。
コギャルは、礼賛されるべき聖人ではない。
当時の批判がすべて間違っていたわけでもない。
ただ、日本の現代史を振り返るとき、彼女たちを「景気のよかった時代の派手な若者」で済ませるのは違う。
彼女たちは、景気のよかった時代には間に合っていない。
大人たちの繁栄を受け取った世代でもない。
繁栄のあとに残された街と商品と制度を使って、自分たちなりの現在を作った世代だった。
だから、その姿は一つの分水嶺に見える。
日本が衰退していなかった最後の姿ではない。
日本が、衰退しながらも、まだそこから文化を生み出せた最後の姿だった。
コギャルはバブルの残り香ではない。
バブル後の日本が、まだ衰退を文化へ変換できた最後の姿だった。
