『犬神家の一族の吾輩は猫である』
湖畔の館で、ひとつだけ決定的に間違っている事がある。
——犯人ではない。
——遺産でもない。
吾輩が、猫であるという事だ。
犬神家の者たちは、なぜか皆、私を「うちの犬」と信じて疑わない。
どれだけ爪を研いでも、肉球で静かに歩いても、喉をゴロゴロ鳴らしても、
「うむ、賢い犬だ」と褒めてくる。
(どこをどう鑑定したら犬になるのか、毛も耳も尾も違うのだが……。)
おまけに湖からは、いつも一本だけ尻尾が生えているように見える。
あれは当然、私ではない。
猫は水に入らぬし、逆立ちもしない。
しかしこの家の最大の謎は別にあった。
犬神家の遺産をめぐる争い——
その“家系図”の端っこに、なぜか私の名前が書いてあるのだ。
吾輩、正式に相続人らしい。
もちろん断るつもりだ。
猫に財産などあっても、缶詰と陽だまり以外に使い道がない。
だが家中のものたちは騒ぎ始める。
「猫殿、こちらへ!」
「いや、犬殿はこちらの血筋を!」
「いっそ、どちらでもよいのでは……?」
——こうして吾輩は、生まれて初めて “身に覚えのない身分争い” に巻き込まれる事となった。
最後にひとつだけ記しておく。
この一族の中で、もっとも賢いのは吾輩ではない。
湖に浮かぶ、あの逆さの尻尾だ。
あれだけは、何もかも分かっている顔をして、
今日も静かに……水面から覗いているのだから。
