ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第26回:織物の最小単位をめぐる法理、最低基準量「sit」の解釈、および「捕獲(罠にかけること)」の成立要件
*本稿は口伝律法ミシュナ第2部『Moed(モエド)』に属する『Shabbat(シャバット)』の第26回目の解説である。
今回は『Shabbat』第13章1節、4節、5節のハラハー(ユダヤ法)を詳細に検証する。前章(第12章)の「書くこと(コテヴ)」から、あえて順序を逸脱して展開する「織ること」の有責基準(2本か3本か)を解説し、さらに漂白・梳く・染める・紡ぐの尺度である「sit(シット)」の定義をめぐるラシ(Rashi)とマイモニデス(Rambam)の学説対立に迫る。
後半では、安息日の禁止作業である「罠にかけること」について、鳥と鹿の生態的特徴に応じた捕獲の成立要件、およびラッバン・シモン・ベン・ガマリエルによる「更なる捕獲作業」の法理的帰結を厳密に解き明かす。
前回の振り返り:ミシュナ『Shabbat』第12章3節の「書くこと(kotev)」の有責基準
前回は『Shabbat』第12章3節に基づき、安息日の禁止作業(melachah)の32番目である「2つの文字を書くこと(kotev:コテヴ)」の有責基準について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】「文字を書くこと」の基本規定と有責基準
安息日に「2つの文字」を書く行為は、以下の条件に関わらず有責(贖罪の献げ物の義務)となる。
①書体・言語
同じ文字か別の文字か、あるいはどのような言語(ヘブライ語以外も含む)であっても有責である。
②インク
同じ色か異なる色のインクか(例:黒と赤など)を問わない。
③数としての文字
ヘブライ文字は数字も表すが、2文字以上で有責である。
【2】「通常とは異なる方法(shinui:シヌイ)」の原則
書く際の手の使用についても、日常的な動作かどうかが判定基準となる。
①利き腕
原則として有責になるのは利き腕で書いた場合である。
②利き腕でない手
右利きの人が左手で書く(またはその逆)ことは、「通常とは異なる方法(shinui:シヌイ)」と見なされ、chatatについて有責とはならない。ただし、ラビ規定では禁止されている。
③両利き
両利きの人の場合は、どちらの手で書いても有責となる。
【3】文字の意味をめぐる解釈(Maimonidesの説)
単に2文字書けばよいのか、それとも意味が成立していることが必要かについて解釈が分かれている。
①Tanna Kamma(多数派)
どのような2文字でも有責となる。
②Maimonides(Rambam)
書かれた2文字が「意味のある単語(または数字)」を構成する場合のみ有責であると説ている。例えば、「gg(屋根)」や「ss(数字の6)」は有責であるが、無意味な「aa」は有責ではないとされる。
【4】ラビ・ヨセによる「印(マーク)」の法理
ラビ・ヨセは、安息日に「書くこと」の禁止の起源を幕屋(Mishkan)の建設作業に求め、独自の定義を示した。
①由来
移動式の幕屋を組み立てる際、板の順番を間違えないように付けられた「目印」がルーツであると主張する。
②拡張
この見解によれば、社会的な「文字」でなくても、職人が作業の目印として付ける「ひっかき傷」や「任意の記号」であっても、2つあれば文字を書くのと同様に有責となる。
【5】ラビ・ユダ・ハナシの説
長い名前を書いていて、途中で止めた場合について言及している。
「本人が意図した作業を完了したか」ではなく、「客観的な最小単位(2文字)を達成したか」が重視される。
①短い名前の成立
長い名前(例:シモン[ShiMoN])を書こうとして、2文字目(SHとM)で安息日であることに気づいて止めた場合、その2文字がそれ自体で別の意味(例:SHeM=名前)を成している場合、有責となる。
②法理
意図した全体(シモン)が未完成であっても、法的な最小単位(意味のある2文字)が成立した時点で、禁止事項に抵触したと見なされる。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第25回:「文字を書くこと(kotev:コテヴ)」の有責基準、および通常とは異なる方法(shinui:シヌイ)
https://note.com/mishnah/n/n21ca5bc2338c
ミシュナ『Shabbat』第13章の構造的概論:39の禁止作業(melachah)における順序逸脱の謎
今回はその続きである。口伝律法ミシュナ「Shabbat」13章に入る。まずは概論から述べる。
以前の記事で述べたように、ミシュナの編集者たちは「Shabbat」7章2節以降において、7章2節で列挙されたmelachahを詳しく解説しているが、その順序は逆順になっている。
すなわち7章2節でmelachahは39個列挙されているが、39番目のものを最初に検証し、若い番号に戻って来る仕方でテーマを移してきている。
前の章(第12章)で「書くこと(コテヴ)」を扱ったが「書くこと」は32番目のmelachahである。通常であれば、次は書くための羊皮紙(紙)作りに直結する「皮の加工工程」(25番目の「罠にかけること」から31番目の「切ること」まで)へと遡り、本章(13章)でこれらを扱うことが予想される。
しかし実際には、本章は19番目のmelachahである「織ること」及び織物工程に関連する他のmelachah(13〜18番)から始めている。
17世紀の口伝律法の注釈書である「Tosafot Yom Tov(トサフォート・ヨム・トーヴ)」によると、この明らかな順序の逸脱は、「書くこと」と「織ること」の有責性の共通点であると解説される。
「書くこと」は2文字書くことで有責になる。「織ること」は2本の糸を織ることで有責になるのである。
この後すぐに「Shabbat」13章1節の冒頭で見るように、ラビ・エリエゼル(Rabbi Eliezer)は「織ること」に関する有責性の基準は「3本の糸を織ること」であると主張している。
しかしそのラビ・エリエゼルでさえ、糸が太くて目立つ場合には、2本を織っただけで責任を負うと宣言し、Tanna Kammaに同意している。
なお織る過程に関連するmelachahとして、17番目の「経糸を張ること」や18番目の「2つの綜絖(そうこう)をセットすること」など、機織り機の使用に密接したmelachahも存在する。
しかし機織り機は現代では馴染みの薄いものであり、かつ機織り機の使用については、その構造の視覚的な理解が不可欠なため、今回は全体像の理解を優先し、構造の詳細はビジュアルを交えて別記事で改めて取り上げる。
以上を概論として、「Shabbat」13章1節の本文に入ることにする。
ミシュナ『Shabbat』13章1節:「織ること」の最小単位と有責(chayav:ハヤヴ)基準の法理
ラビ・エリエゼルは言う。最初に3つの糸を織る者、もしくは既に織られているものに1本の糸を加える者は、有責である。しかしラビたちは言う。「最初であろうと終わりであろうと、2本の糸である。」
ラビ・エリエゼルは、安息日に新しく布を織り始める者について、3本の糸を織った場合に有責になるとしている。また、すでに織られた布に1本の糸を付け加えた場合も責任を負うと主張する。
既に織られている布に1本加えることは、大きな意味を持つと考えるからである。
ところで「Shabbat」12章5節において、「書くこと」のmelachahを扱ったが、既に書かれている文字に1文字追加することは、有責になると見なされていない。
従ってここでのラビ・エリエゼルの考え方は、「書くこと」において採用されていないことになる。
これに対して、ラビたちは「最初であろうと終わりであろうと、2本の糸である」と述べている。
新しく織り始める場合も、既存の布に付け加える場合も、2本の糸を織らなければ責任は生じないという事である。
ただし、1本の糸を織ることで衣類全体が完成する場合は、その1本で有責となる。「書くこと」のmelachahについても、その1文字で本が完成する場合、1文字書いただけでも有責になる。
ミシュナ『Shabbat』13章4節:加工工程(漂白・梳く・染める・紡ぐ)の最小限度「sit(シット)」の解釈学
次に「Shabbat」13章4節に進む。
脱色すること、梳くこと、染めること、紡ぐことに関する最小限度は、sitの幅の2倍である。
ここでは4つのmelachahが挙げられている。すなわち13番目の「脱色すること」、14番目の「梳くこと」、15番目の「染めること」、16番目の「紡ぐこと」である。
この4つのmelachahについて、有責となる最小単位は「sitの2倍の長さ」と書かれている。
sit(シット)」とは人差し指と中指を(無理にではなく)最大限に広げた時の指先の間の距離を指す。
この長さの分だけ羊毛を加工(漂白、梳く等)した場合、有責になる。これはRav、Rashiの説である。
これに対して、Rambamは「sit」と「sitの幅」を区別する。本節では「sitの幅」と書かれているが、Rambamによると、これは親指と人差し指の間の最大幅と定義する。他方で「sit」を人差し指と中指の間の間隔とするが、広げた時の指先の間の距離ではない。
Rambamによる「sitの幅」の2倍とは、4手幅(32~40センチ)である。
次節に進む。次節では「罠にかけること」のmelachahについて検証される。上に述べたように、本来であれば前章で扱われた「書くこと(コテヴ)」に続き、羊皮紙作りに直結するmelachahが続く筈であった。
しかし、「書くこと」と「織ること」の規定量(2単位)が似ているという理由で先に織物の解説が行われ、それを終えた今、再び本来の順序に戻り、「罠にかけること」のmelachahに戻って来ている。
ミシュナ『Shabbat』13章5節:「罠にかけること(捕獲)」のハラハー的定義と成立要件
まずは「Shabbat」13章5節の本文を引用する。
ラビ・ユダは言う、「誰であれ鳥をクローゼットの中に追い込むなら、あるいは鹿を家の中に追い込むなら有責である。」しかしラビたちは言う、「誰であれ鳥をクローゼットに追い込んで、あるいは鹿を捕まえ、家、中庭、飼育場に追い込むなら有責である。」
動物の種類(鳥と鹿)に応じた空間的制限(クローゼット、家、中庭、飼育場)
「罠にかけること」のハラハーにおける定義は、罠にかかった動物の自由な動きが制限され、更なる努力をほとんど、あるいは全く必要とせずに、人間がその動物を手に入れることが出来る状態を指す。
当然ながら、この制限が達成される具体的な基準は動物の種類によって異なる。本節では鳥と鹿という2種類の動物において具体例が示されている。
まずラビ・ユダ(Rabbi Judah)の見解が示される。鳥については「クローゼットの中に追い込むなら」有責であるとされている。家の中では自由に飛び回る空間があるため、鳥は捕獲されたとは見なされない。
これに対して鹿の場合、「家の中に追い込むなら」有責であるとされている。ドアは閉められている状況である。もし中庭に逃げられるような状態なら、捕獲されたとは見なされない。
以上のラビ・ユダの見解に対して、ラビたちは「誰であれ鳥をクローゼットに追い込んで、あるいは鹿を捕まえ、家、中庭、飼育場に追い込む者は有責である」と述べる。
ラビたちは次の点でラビ・ユダと共通の認識を持っている。
①鳥をクローゼットの中に追い込むなら、有責である。
②鹿を家の中に追い込むなら、有責である。
他方でラビたちの見解は、次の点でラビ・ユダの見解と相違する。すなわちラビたちは、鹿を「庭」や「中庭」に追い込んで扉を閉めた場合も、捕獲が成立すると見なすのである。
ラッバン・シモン・ベン・ガマリエル(Rabban Shimon ben Gamliel)の大原則:「更なる罠(作業)」の要不要
続く「Shabbat」13章5節の最後には、次のように書かれている。
ラッバン・シモン・ベン・ガマリエルは言う、「あらゆる飼育場は同じではない。これがルールである。もしそれが更なる罠を要求するなら、免責である。そうでないなら有責である。」
ラッバン・シモン・ベン・ガマリエル(Rabban Shimon ben Gamliel)はより具体的な基準を示している。すなわち「飼育場」に追い込んだら、全て「捕獲済み」と見なされるのではなく、その状況に拠るとする。
もし、その動物を捕まえるために更なる捕獲作業が必要なら、捕獲されたとは見なされない。従って、chatatについて有責ではない。
他方でその動物を捕まえるために更なる捕獲作業を必要としないなら、chatatについて有責である。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Shabbat』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n96f434acde54
全記事の目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
