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ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第25回:「文字を書くこと(kotev:コテヴ)」の有責基準、および通常とは異なる方法(shinui:シヌイ)

*本稿は口伝律法ミシュナ第2部『Moed(モエド)』に属する『Shabbat(シャバット)』の第25回目の解説である。

 今回は『Shabbat』第12章3節を取り上げ、安息日に禁止される仕事(melachah)の第32番目「2つの文字を書くこと(コテヴ)」の最小有責基準を検証する。

 また利き腕でない方の手で書いた場合の例外(shinui[シヌイ]の原則)、意味を成さない文字列の帰属を巡るRambamの独自解釈、ラビ・ヨセとラビ・ユダ・ハナシら賢者たちの法理対立を詳解する。


前回の振り返り:ミシュナ『Shabbat』第12章2節「耕すこと」の法理総括

 前回は、ミシュナ『Shabbat』第12章2節に基づき、安息日の禁止作業のうち2番目の「耕すこと」を中心に、農作業に関する有責基準と、行為者の「意図」による法解釈の違いを解説した。

 主な内容は以下の通りである。

【1】ミシュナの編集意図:なぜ「建てること」の次に「耕すこと」を検証するのか

 第12章1節の「建てること」の次に、12章2節で「耕すこと」が配置されている理由について2つの説が挙げられる。

①反対の性質

 「建てること」が構造物を繋いだり穴を埋めたりする行為であるのに対し、「耕すこと」は穴を掘ったり物を減らしたりする反対の性質を持つため。

②共通の性質

 どちらも「穴を掘る・埋める」という物理的行為を伴う点で共通しているため。

【2】「耕すこと」における最小有責基準

 耕すこと行為は、「どの程度であっても(微量であっても)」有責(贖罪の献げ物の義務)となる。

①理由

 幕屋を建てることにおいて、染料の植物を一株植えるための極めて小さな穴を掘ることも重要な活動と見なされたためである。

②運搬との違い

 1粒の種を運ぶことは無意味とされ有責にならないが、穴を掘る行為は一つ一つが独立して「重要な活動」であるため、最小限の耕作でも有責となる。

【3】行為者の「意図」による作業の分類

 同じ物理的行為であっても、その人の目的によって該当する禁止作業(melachah)のカテゴリーが変わる。

 枝を切り落とす行為を例にすると、次の3つに分類される。

①木の成長(剪定)が目的

 1番目のmelachahである「種を蒔くこと」の派生作業(toladot:トラドット)となる。

②木材の収集(薪)が目的

 3番目のmelachahである「刈り入れること」のtoladotとなる。

③両方が目的

 両方のカテゴリーにおいて有責となる。

【4】目的別の最小基準量

 何を目的とするかによって、有責となる分量が異なる。

①土地や木の改良が目的

 分量を問わず、「いかなる量」でも有責。

②薪(火を点ける)が目的

 「簡単な卵料理(鶏の卵)を作るのに必要な量」、具体的には干しイチジク1個分の分量を調理できる程度の枝の量で有責。

③家畜の餌(秣)が目的

 子山羊の口いっぱいの量で有責。

【5】「psik reishah(プシック・レイシャ:不可避の副次行為)」の原則

 意図していなくても、ある行為の結果として禁止行為が不可避に発生する場合、その責任を問われる。

①自己所有の木

 薪を得るために枝を切れば、必然的に「剪定(木の改良)」という恩恵も受けるため、意図に関わらず「種を蒔くこと」と「刈り入れること」の両方で有責となる。

②他人所有の木

 剪定による利益を本人が得ないため、剪定(種を蒔くこと)の責任は生じない。

【6】Maimonides(Rambam)による独自解釈

 Rambamは12章2節の「木材や雑草を集める行為」について、「すでに地面に落ちているものを集める行為」を指していると解釈している。この場合、4番目のmelachahである「束ねること・集めること」に該当し、付随して土壌が良くなれば「耕すこと」の責任も生じるとしている。

 以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。

◉ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第24回:『Shabbat』第12章2節における「耕すこと」の最小有責基準と、意図(目的)に基づく派生作業(toladot)のハラハー検証

https://note.com/mishnah/n/nfd66af3e6640


ミシュナ『Shabbat』第12章3節「文字を書くこと(コテヴ:kotev)」の法理研究


 今回はその続きで、口伝律法ミシュナ「Shabbat」12章3節である。まずは本文を引用する。

 2つの文字を書く者は、右手にしろ左手にしろ、同じ文字にしろ別の文字にしろ、同じ色のインクにしろ別のインクにしろ、如何なる言語であれ有責である。

(Shabbat 12:3)

 「2つの文字を書くこと」は「Shabbat」7章2節において、安息日で禁止されているmelachahの32番目に列挙されている。

 「2つの文字」は文字、数字、その他のシンボルを含む。

 「右手にしろ左手にしろ」有責になるのは、両利きの人のみである。右利きの人が左手で書くなら、「通常とは異なる方法」でしているので有責ではない。ただし安息日に利き腕と反対の手で書くことは、ラビの規定によって禁止されている。

 同様に左利きの人が右手で書くなら、「通常とは異なる方法」でしているので有責ではない。これをshinui(シヌイ)の原則と呼ぶ。

 「同じ文字にしろ別の文字にしろ」有責になるとは、同じ文字を2回書いたとしても、別の文字を書いたとしても有責になることを指している。

 Tanna Kammaはこのように書いているが、Rambamは同じ文字を2回書いて「単語」になる場合は有責となるが、単語にならない場合は有責ではないと考える。

 たとえば「gg」は屋根を表し、「ss」は6を表す。これらは意味のある単語であるので、これらの文字を書いたら有責となる。「aa」は何の意味をも表さないので、有責ではない。

 「同じ色のインクにしろ別のインクにしろ」有責となるとは、1文字を黒のインクで書き、1文字を赤色のインクで書いても有責であることを指す。

ヘブライ文字のゲマトリア(Gemara)と2文字有責基準の強調


 ヘブライ語には22個のアルファベットがあるが、それぞれのアルファベットは数字を表す為にも使われる。たとえば最初のアルファベット「アレフ」は1を表し、最後のアルファベット「タヴ」は400を表す

 数字の401を表す為に「アレフ」と「タヴ」を並べて書いても有責である。

 アルファベットは1文字だけでも数字を表すので、1文字でも有責になるべきではないかとも考えられる。その誤りを明確に示す為、Tanna Kammaは2文字から有責になることを強調している。

 「如何なる言語であっても」有責であるとは、ヘブライ語に限らないことを言っている。

 安息日であることを忘れ、または安息日に2文字以上書いてはならないことを知らずに、上記のことをしてしまった場合、chatatを献げなくてはならない。

 1文字はchatatを献げる義務はないが、ラビの規定で禁止されている。

ラビ・ヨセによる「文字」および「記号」の定義の拡張と法理対立


 続きには次のように書かれている。

 ラビ・ヨセは言う。「2つの文字を書いたのは、しるしの為である。幕屋においてはボードの上に書き、どの板が組になっているかの目印にした。」

(Shabbat 12:3)

 ラビ・ヨセ(Rabbi Yose)は「2文字を書く」という行為の定義について独自の見解を示している。

 彼は「2つの文字を書いたのは、しるしの為である。幕屋においてはボードの上に書き、どの板が組になっているかの目印にした」と言っている。

 荒野時代、イスラエルの民は移動の度に幕屋(Mishkan)を解体し、組み立てる作業を繰り返していた。そのため、板の元の順番や組み合わせを間違えないように、識別用の文字が書かれていたとされている。

 ラビ・ヨセはこの逸話に基づき、ミシュナが2文字以上書くことで有責と宣言したのは、目印(マーキング)の為であると主張する。

 ラビ・ヨセの見解によると、幕屋の板に書かれた文字は言語的な内容ではなく単なる「印」として使われていたため、任意の記号やひっかき傷であっても、2つの文字を書くのと同様に有責であると考える。

 この点、Tanna Kamma(匿名で示される第一の見解)は、アルファベットや数字、記号など、社会的に認められた象徴体系に属する文字や記号を書く場合にのみ有責となる。職人が作業の目印として付ける単なる「ひっかき傷」や「チョークの跡」などは、このカテゴリーには含まれない。

ラビ・ユダ・ハナシの見解:客観的最小単位の達成と「長い名前の途中で止めた場合」の有責性


 続きには次のように書かれている。

 ラビ・ユダ・ハナシは言った。「私たちは長い名前の短い名を見出す。SHiMoN、もしくはSHMueLからSHeM、NaCHoRからNoaCH、DaNiYeLからDaN、GaDiYeLからGaD。」

(Shabbat 12:3)

 まずラビ・ユダ・ハナシ(Rabbi Judah HaNasi)は「私たちは長い名前の短い名を見出す」と言っている。これは、ある人が長い名前を書こうとしたが、2文字書いた時点で安息日であることを思い出し、書くのを止めた場合を指している。

 もし書かれたその2文字が、それ自体で一つの短い名前を構成していれば、たとえ本人が意図した名前全体を完成させていなくても、その人は安息日の禁止事項に抵触したとして責任を負う。

 これは、20キュビトの長さの衣類を織ろうとして、わずか2本の糸を織っただけで止めた人の例に似ている。自分が意図した分量を達成しなかったからといって、責任がないとすることは出来ない。

 同様に、あらゆるmelachahにおいて、本人が当初意図した作業を最後まで完了したかどうかにかかわらず、そのmelachahの最小単位の量を行えば責任が生じる。

 「SHiMoN、もしくはSHMueLからSHeM、NaCHoRからNoaCH、DaNiYeLからDaN、GaDiYeLからGaD」はヘブライ語の読み書きを知らない前提で説明するのは難しいが、長い名前を書こうとしたが、途中で止めた例を具体的に挙げていると認識していれば足りる。

 しかし興味のある読者の為に、一応の具体例で説明しておく。

ヘブライ語の「子音表記」から見る具体例(シモンとダニエル)


 ヘブライ語は基本的に子音だけで表記する。また「SH」はシンというアルファベット一語で表現する。

 「シモン」(SHiMoN)を書こうとしたとしよう。母音の「i」は表記しない。書くべき文字は「SH」(1文字目)、「M」(2文字目)、「N」(3文字目)である。

 2文字目まで書いて、その日が安息日であることを思い出し、それ以上書かなかったとする。この時点で「SH」、「M」の2文字が書かれていることになる。

 ところで「名前」を表すヘブライ語は「SHeM」(シェム)という。文字にすると「SH」と「M」を書く。

 以上の状況をまとめると、下のようになる。

①「シモン」(SHiMoN)を書こうとして、2文字目で止めた場合

「SH」+「M」

②「名前」(SHeM)という単語を書く場合

「SH」+「M」

 よって「シモン」(SHiMoN)を書こうとして、2文字目で止めた場合でも、既に「短い名前」が完成している。

 もう1つ例を挙げておく。

 「ダニエル」(DaNiYeL)を書こうとした場合、書くべき子音の文字は「D」、「N」、「Y」、「L」の4文字である。

 2文字目までその日が安息日であることを思い出し、それ以上書かなかったとする。この時点で「D」、「N」の2文字が書かれていることになる。

 ヘブライ語で「D」、「N」を書いたなら、それは「ダン族」を表す単語になる。すなわち「長い名前を書こうとしたが、途中で止めて、短い名前になっている」場合に該当する。

 ラビ・ユダ・ハナシはこのような場合に有責であると主張しているのである。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Shabbat』法理研究

https://note.com/mishnah/n/n96f434acde54


全記事の目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)

https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334

(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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