ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第22回:『Shabbat』第7章4節における領域間移動の最小基準量と合算の法理
*本稿は口伝律法ミシュナ第2部『Moed(モエド)』に属する『Shabbat(シャバット)』の第22回目の解説である。
今回は、安息日(Shabbat:シャバット)における禁止行為の一つである「領域間の移動(運搬)」について、有責(chatat)の対象となる最小基準量のハラハー(律法)を徹底的に検証する。
家畜の飼料から人間の食物にいたるまで、品目ごとに厳密に規定された体積基準と、それらが交錯した際の「合算の法理」について、伝統的な注釈を基に手加減抜きで解説する。
前回の振り返り:過失(不注意)によるchatatの罪数計算ハラハーと、領域間移動における主観的・客観的価値の法理
前回はミシュナ『Shabbat』第7章1節の続きと、3節の導入部分を取り上げ、不注意(過失)による「贖罪の献げ物(chatat)」の具体的な算定基準の体系化と、39番目のmelachahである「領域間の移動」における有責性の判定基準について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】不注意(過失)の3パターンとchatatの罪数計算(7章1節)
過失の内容によって「何に対して責任を負うか」、それに基づき「幾つのchatatを献げるか」が判断される。
①安息日の概念自体の無知(根本的誤り)
安息日の存在や基本的律法を知らない場合、何週間にわたり、何種類の禁止行為(melachah)を犯したとしても、それは「安息日の概念を知らなかった」という1つの継続した誤りと見なされる。
従って献げるべきchatatは全体で1つのみである。
②特定の禁止事項の無知(個別的無知)
安息日は知っているが、特定の仕事(例:種まき、焼くなど)が禁じられていることを知らない場合、その「無知」は仕事の種類ごとに独立していると見なされる。
従って、犯したmelachahの種類(カテゴリー)の数だけchatatを献げる義務がある。ただし、同じ種類のmelachahを何度繰り返しても、そのカテゴリーについては1つのchatatで足りる。
③曜日の忘却(時系列的誤り)
律法は知っているが、曜日を忘れて安息日に仕事をした場合、それぞれの安息日が個別の誤りを構成する。
1週間のうちに正しい曜日を確認する機会があったと法的に推定されるので、違反した安息日の日数(週の数)と同じ数のchatatが求められる。
【2】「領域間の移動」における最小基準量(7章3節)
39の禁止行為のうち、最後(39番目)に挙げられている「ある領域から別の領域への運搬行為」についての詳細な検証がされている。
chatatについての有責性を判断する以下の2つの基準がある。すなわち運んだ物に「保管する価値」があり、かつその「価値を生むだけの分量」があることである。
①保管する価値について
例として、偶像崇拝(アシェラの木)に使うものから、ユダヤ教徒には利益を得てはならない「保管する価値のないもの」であるので、運んでもchatatの対象にはない。
②価値を生むだけの分量
微量なものの移動もトーラで禁じられているが、chatatなどの刑罰の対象となるのは、その行為によって「実質的な結果」が得られる最小量以上を運んだ場合に限られる。
基準量に満たないものは、法的に「無意味なもの」と見なされるので、chatatを献げる義務はない(ただし、ラビ規定による禁止の対象にはなり得る)。
【3】主観的価値と客観的価値の法理
一般的・客観的な価値基準だけでなく、個人の主観的な行動も法的な責任に影響する。
一般的には「保管する価値がない量」であっても、特定の個人がそれを価値あるものとして保管していた場合、その本人が安息日に運べば有責となる。
他方で、その人以外の一般人が同じ物を運んだとしても、一般人にとっては無価値であるため、有責にはならない。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第21回:無知と忘却を巡る罪数計算ハラハーと、「領域間移動」における主観的・客観的価値の法理(7章1節、3節)
https://note.com/mishnah/n/nce9e18a709cd
ミシュナ『Shabbat』7章4節:領域間移動における具体的な最小基準量
「Shabbat」7章3節ではchatatを献げることが要求されるのは、一定分量以上のものを運んだ場合に限られることを扱っていた。
「Shabbat」7章4節では、この最低限の分量がどのくらいの量であるのか、具体的に示される。まずは本文を引用する。
雌牛が口いっぱいになるくらいの藁を運んだら、ラクダの口いっぱいになるくらいの豆の藁を運んだら、子羊の口いっぱいになるくらいの穀物のもみ殻を運んだら、子山羊の口いっぱいになるくらいの草を運んだら、ガーリックや玉ねぎの葉で、もし新鮮なものであれば、干しいちじくくらいの量を運んだら、もし乾燥したものであれば、子山羊の口いっぱいになるくらいを運んだら、有責になる。
家畜の飼料に関する基準(藁・もみ殻・草)
列挙された物を順番に確認する。
最初の「藁」とは穀物の茎から取られた藁であり、茎の上部の部分である。根元の「切り株(stubble)」の部分とは区別される。
「雌牛が口いっぱいになるくらいの藁」とあるのは、藁は通常、雌牛が食べるものであるので、たとえ本人がラクダ(雌牛より多くの量を食べる動物)に与えるために運び出したとしても、雌牛にとって意味のあるこの量が基準となる。
「豆の藁」とは、豆の茎から取られた藁である。「ラクダの口いっぱいになるくらいの豆の藁」と書かれているのは、豆の藁は硬いので通常は牛の食用には適さず、ラクダの飼料となる。従って牛の口いっぱいの量よりも多い「ラクダの口いっぱいの量」が基準となる。
次の「穀物のもみ殻」は本節の冒頭の「藁」とは異なる。「穀物のもみ殻」は柔らかく、小さな動物の食用に適したものを指している。
「子羊の口いっぱいになるくらいの穀物のもみ殻」について、子羊の口いっぱいの量は、子山羊の口いっぱいの量よりも多い。「穀物のもみ殻」は子山羊にはまだ硬すぎるため、「子羊の口いっぱいの量」が基準になる。
「草」は子羊も子山羊も食べる。「子山羊の口いっぱいになるくらいの草」とあるのは、より少量となる子山羊の食べる分量でも、意味のある分量であることを示している。
人間の食物に関する基準(新鮮なものと乾燥したもの)
次に「ガーリックや玉ねぎの葉」について、ガーリックや玉ねぎの葉で新鮮なものは、人間が食用にするものである。人間が食べるもので、運ぶ際に有責になる一般的な基準は干しイチジク1個分である。「ガーリックや玉ねぎの葉」で「新鮮なもの」も例外ではなく、干しイチジク1個分でchatatについて有責になる。
「もし乾燥したものであれば、子山羊の口いっぱいになるくらいを運んだら、有責になる」とは、「ガーリックや玉ねぎの葉」で「新鮮なもの」は人間の食用に供されるが、乾燥したものなら、人間は食べない。そこで子山羊の口いっぱいが有責性の基準になることを言っている。
続きには次のように書かれている。
異なる品目における「合算」の法理
それらは合算して考慮されない。なぜならそれらは互いに同一の基準で計らないから。
この箇所は、上述の異なる項目を合算して、有責性は判断されないことを言っている。
例えば、牛の口いっぱいの量の半分にあたる「穀物の藁」と、ラクダの口いっぱいの量の半分にあたる「豆の藁」を運び出したとしても、それらを合わせて、chatatについての有責性は判断されない。
豆の藁はより多くの分量で有責となる。穀物の藁は少ない分量で有責となるので、厳格な基準である。基準の異なるものを混ぜて一つの義務を構成することは出来ない。
ただし、ハラハーにおいてはより緩い基準(多い量が必要なもの:豆の藁)を運び出している最中に、より厳しい基準(少ない量で有責になるもの:穀物の藁)を加えて基準量に達した場合は、責任が生じることがある。
具体的には豆の藁(多い量が必要なもの)をほぼ基準に満ちている分量(ラクダの口いっぱいの基準)で運んでいて、そこに穀物の藁(少ない量で済むもの)を加えて完全にを満たした場合、chatatについて有責になる。
続きには次のように書かれている。
同一基準(干しイチジク)の品目の合算(Halachah LeMoshe MiSinai:ハラハー・レモーシェ・ミシナイ)
干しイチジクと同程度の食べ物を運ぶ者は有責になる。それらは合算して考慮される。なぜならそれらは互いに同一の基準で計るから。
上にも述べたように、人が食べるものに関しては、干しイチジク1個分が基準になる。この分量はトーラには書かれていないが、シナイ山におけるモーセの伝承(Halachah LeMoshe MiSinai:ハラハー・レモーシェ・ミシナイ)である。
人間が消費に適したあらゆる食品は、種類が異なっていても、それらを合わせて「干しイチジク1個分」の体積に達すれば、運び出したことについて有責になる。「なぜならそれらは互いに同一の基準で計るから」である。
食用外部分の除外とラビ・ユダの異論
続きには次のように書かれている。
ただし貝殻、種、茎、皮のくずは除く。
ここに列挙されたものは、通常人の食用にならないものである。そこで干しイチジク1個分の体積を構成しない。
ラビ・ユダ(Rabbi Judah)は異論を述べている。
ラビ・ユダは言う、「一緒に調理される豆の皮は含まれる。」
皮は除外されるという原則に反対を表明しないが、豆の皮は一緒に調理されるものである場合、干しイチジク1個分の分量を構成するものと見なすという主張である。
なぜなら豆の皮が一緒に調理された場合、人が食べるからである。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Shabbat』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n96f434acde54
全記事の目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
