ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第23回:『Shabbat』第12章1節における「建設すること」の最小有責基準と「最後の仕上げをすること」のtoladot検証
*本稿は口伝律法ミシュナ第2部『Moed(モエド)』に属する『Shabbat(シャバット)』の第23回目の解説である。
前回の「Shabbat」第7章4節における領域間移動(運搬)の最小基準量と「シナイ山でのモーセへの伝承(Halachah LeMoshe MiSinai:ハラハー・レモーシェ・ミシナイ)」に基づく合算の法理を踏まえ、本節からは安息日に禁止される39の主要作業(avot melachot)のうち「建てること」の核心に迫る。
「どの程度でも有責」とされる石切り、ハンマー・斧・錐による打撃行為の最小限度を検証し、ラシ(Rashi)、ランバム(Rambam)、トサフォート(Tosafot)ら中世注釈家による議論を検証。
さらに、作業の重要性を決定づける客観的基準としての「仕事の永続性」の定義、およびラッバン・シモン・ベン・ガマリエルによる金床を叩く行為のハラハー上の位置づけを厳密に構造化して解説する。
前回の振り返り:ミシュナ『Shabbat』第7章4節における領域間移動の最小基準量と合算の法理
前回は、ミシュナ『Shabbat』第7章4節を中心に、安息日における「領域間の移動(運搬)」で有責(chatatの義務)となる最小基準量と、異なる品目を合算する際の法理を解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】家畜の飼料に関する最小基準量
安息日に家畜の餌を運搬して有責となる分量は、その餌を通常食べる動物の「口いっぱい」の量が基準となる。
①藁(穀物の茎)
通常は雌牛が食べるため、雌牛の口いっぱいの量が基準である。
②豆の藁
硬くて牛には適さないため、通常それを食べるラクダの口いっぱいの量が基準となる。
③穀物の殻(もみ殻)
柔らかいため、子羊の口いっぱいの量が基準である(子山羊にはまだ硬いため、より多くを食べる子羊が基準となる)。
④草
非常に柔らかく子山羊も食べるため、子山羊の口いっぱいの量という、より少ない分量でも有責になる。
【2】人間の食物に関する最小基準量
人間が食べるものを運ぶ際の一般的な基準は、「干しイチジク1個分」の体積である。
①新鮮な葉(ガーリックや玉ねぎ)
人間の食用となるため、基準は干しイチジク1個分である。
②乾燥した葉
人間は食べず家畜の餌になるため、基準は子山羊の口いっぱいの量となる。
③食用部分以外の部分
貝殻、種、茎、皮などの食べられない部分は、基準の体積に含まれない。ただし、ラビ・ユダは「一緒に調理される豆の皮」などは食用になるため、基準に含めるべきだと主張している。
【3】合算の法理(異なる品目を合わせて基準量とするか)
複数の品目を同時に運んだ際、それらを足し合わせて有責性を判断するかどうかは、「基準(計り方)」が同一か否かによる。
①合算されないケース
基準が異なるもの(例:雌牛の口いっぱいの量と、ラクダの口いっぱいの量)は、合計して基準量に達しても有責にはならない。
②合算されるケース
基準が同じもの(例:異なる種類の人間用食物。すべて「干しイチジク」が基準)は、種類が違っても合算して基準量に達すれば有責となる。これは「Halachah LeMoshe MiSinai(ハラハー・レモーシェ・ミシナイ(シナイ山でのモーセへの伝承)」に基づいている。
③特殊な合算
基準の緩いもの(豆の藁など)を運んでいる最中に、基準の厳しいもの(穀物の藁など)を加えて、緩い方の基準を満たした場合には有責となることがある。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第22回:『Shabbat』第7章4節における領域間移動の最小基準量と合算の法理
https://note.com/mishnah/n/n3f4b0027e4d2
『Shabbat』第12章における主要禁止作業(avot melachot:アヴォット・メラハー)の編集構造と「建てること」の配置
「Shabbat」11章までは「ある領域から別の領域への運搬行為」がテーマとなっているので、今回は「Shabbat」12章に入る。
まずは概論から述べる。
ミシュナは「ある領域から別の領域への移動(運搬)」に関する詳細な規定を終えた後、他のavot(主要な禁止作業)とそのtoladot(派生的な作業)の規定へと進む。
ミシュナが「建てること(building)」から始める理由は以下の通りである。
「Shabbat」7章2節に列挙された39のmelachahの最後が「運搬」であったので、ミシュナの編纂者たちはその直前の作業、つまり38番目のmelachahである「最後の仕上げをすること」について議論を続けようとしたものである。
しかし「建てること」はこの「最後の仕上げをすること」と本質的に関連し、かつより一般的な作業であるため、編集者たちは「最後の仕上げをすること」を念頭に置きつつ、「建てること」に関連する作業から議論を始めている。
以上を前提に「Shabbat」12章1節の本文から開始する。
ミシュナ『Shabbat』第12章1節本文
建物を建てる者は、どの程度で有責であるのだろうか?どの程度でも。石を刻むこと、ハンマー、斧、または錐で打つこと、このようなことをする者は、どの程度でも有責である。
各種作業における最小基準量と「最後の仕上げをすること」の派生(toladot:トラドット)
「建てること」は安息日に禁止される39個のmelachahの内、「Shabbat」7章2節において34番目に挙げられている。
それぞれの禁止されたmelachahに関して、トーラでは如何なる程度の仕事も禁止されている。しかし一定程度以上でない限り、刑罰に関して有責とならない。「一定程度以上」とは重要性を持つ最小限度である。
順番に検証する。
「石を刻むこと」とは、石を四角く切ったり、滑らかにしたり、地域の習慣に従って石を準備することを指す。RashiはRambamによると、38番目に禁止される「最後の仕上げをすること」のtoladotであると見なされる。
「ハンマーで打つこと」とは、採石における最終段階の作業である。山から切り出されそうになっている石に最後の一撃を加え、完全に切り離す行為を指す。これは「最後の仕上げをすること」のtoladotに該当する。
RavやRashiはこのように考えているが、中世の注釈であるTosafotによると、幕屋の建設において採石作業は行われていなかったので、ミシュナにおいて「採石すること」を「最後の仕上げをすること」のtoladotとして挙げているのは、不適切であると論じている。
これに対して、別の注釈書においては、編集者たちが幕屋で直接行われた作業そのものではなく、より一般的な日常生活の例を選んで説明しているので、必ずしも誤った例証ではないと注解している。
次の「斧で打つこと」とは、Ravによれば「小さな斧」であり、Rashiによれば「大鎚」である。
「錐で穴を開けること」とは、穴を掘り進める行為であるが、これも「最後の仕上げをすること」のtoladotと見なされる。
Rambamと呼ばれるMaimonidesは、穴を開ける行為は「建設すること」と「最後の仕上げをすること」双方の禁止に触れると主張している。
ただし2重の有責性を問われるのは、建物に対して穴を開けた場合で、それ以外の物に穴を開けた場合については、「最後の仕上げをすること」のみ有責性を問われるとしている。
「どの程度でも有責である」とは、今列挙した作業、すなわち石を削ること、ハンマーで打つこと、斧で打つこと、錐で穴を開けることは、わずかな程度行っただけでも、有責となることを言っている。
「仕事の永続性」に関する客観的需要の判定基準
しかし続きには次のように書かれている。
これがルールである。働く者は誰であれ、その仕事が永続するなら、安息日において有責である。
この文章はそのまま読んでも意味を取りづらい。そこで語順を変えて次のように解釈されている。すなわち「安息日に働いて、その仕事が永続するなら有責である」。
上に「どの程度でも有責である」と書かれていた。それは「建設すること」の最低限の重要性はその量に関わらないからである。では「建設すること」の最も小さい重要性はどのように判断されるのだろうか?
ミシュナの「仕事が永続するなら有責である」がその答えである。
「建設すること」に関わる活動であるなら、「その効果が永続する」という要件が決定的になる。
もしその作業がより大きな工程の始まりに過ぎず、有用になるためにはさらに拡張が必要であるなら、それ単体では有意義とは見なされず、禁止作業としてmelachahを行ったことにはならない。まだその作業には重要性が全く認められないからである。
ここで「仕事が永続的である」と見なされる具体的な基準が問題になる。
「仕事が永続的である」と見なされる基準は、その対象について、それ以上手を加えることなく、現在の形のままで保持しようとする人が少しでも存在することである。
従って、たとえ作業者本人が更に作業を継続する意図を持っていたとしても、一部の人にとってその状態で永続的な価値があるならば、既に行われた部分に対して有責となる。
例えば材木に5センチの穴を開けた場合を考える。作業者本人が後に穴を広げるつもりであっても、世の中にはその深さの穴のまま利用する人がいるので、既に行った作業に対して有責となる。
しかしこの点については異論もある。ミシュナの元々の本文は「働く者は誰であれ、その仕事が永続するなら、安息日において有責である」と書かれていた。これを文字通りに受け取って、仕事が永続的と見なされる基準は「安息日に一定の目的に達すること」であると解釈する。
この見解によるなら、作業者本人が更に仕事を拡張しようとしている過程のものなら、安息日に行っても有責にならない。
この点については他にも異論があるが、これ以上は立ち入らない。
少数意見とハラハーの結論:金床を叩く行為とラッバン・シモン・ベン・ガマリエルの見解
続きには次のように書かれている。
ラッバン・シモン・ベン・ガマリエルは言う。「仕事中に鉄床にハンマーを打つ者も有責である。なぜなら彼は仕事の改善をしているから。」
ラッバン・シモン・ベン・ガマリエル(Rabban Shimon ben Gamliel)によると、鍛冶屋が加工対象ではなく、金床を叩いた場合であっても、それが作業の一環であれば、その一打だけで有責となる。
幕屋の建設において、金属を薄い板に延ばす職人たちは、金属を数回叩くごとに金床を叩く習慣があった。これは、金属を叩くことで金槌の面に生じた凹凸を平らにし、滑らかにするためらしい。
RashiもRambamもこの習慣の事実について証言しているが、この行為がmelachahにあたるとは考えていない。halachahもラッバン・シモン・ベン・ガマリエルの見解を取っていない。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Shabbat』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n96f434acde54
全記事の目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
