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ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第10回:本来の目的に必要でない仕事と安息日の生命優先原則

*本稿は口伝律法ミシュナ第2部『Moed(モエド)』に属する『Shabbat(シャバット)』の第10回目の解説である。

 今回は『Shabbat』2章5節を取り上げ、安息日における「本来の目的に必要でない仕事」の定義を巡るラビたちの壮絶な法理的論争を網羅する。さらに、新約聖書マタイによる福音書12章の記述をユダヤ教ハラハー(法原則)の視点から批判的に検証し、キリスト教側が単純化した「安息日規定」の真実の姿を、一切の手加減なしで解明する。


前回の振り返り:消火のmelachahと「1つの器」の定義(2章4節)


 前回は、ミシュナ『Shabbat』2章4節に基づき、安息日に禁止される39の仕事(melachah:メラハー)の36番目にあたる「消火」の定義と、補助的な油供給システム(油つぼ)をめぐる法理を解説した。

 主な内容は以下の4点である。

【1】「消火」の定義と法理的論争

 タルムードの解釈によれば、安息日に燃えているランプから少量の油を取り出すだけでも「消火」の責任を問われる。その理由について、中世の注釈書やラビの間で以下の意見の相違があります。

①Tosafotの見解

 油を減らすことは即座に炎の勢いを弱めるため、「直接的な消火」にあたると考える。

②Rosh(ロシュ)の見解

 油を抜くことで本来より早くランプが消える原因を作るため、たとえ即座に変化がなくても「消火」と見なす。

【2】補助的な油つぼの使用制限

 Tanna Kammaは、ランプの上に「卵の殻」や「土器」を置いて穴から油を滴らせたり、隣に「ボウル」を置いて芯を浸したりする行為を禁じている。

 理由は、人々が無意識にその補助容器から油を抜き取ってしまい、上述の「消火のmelachah」を犯すリスク(過失)を防ぐ為である。

 また、ランプと別体であると「ここからなら油を抜いても大丈夫だ」という誤解を招く恐れもある。

 これに対してラビ・ユダは、これらの使用を許可した。油が滴っている状況を見ればランプの一部であることは明白であり、誤って油を抜くことはないと主張した。

【3】「1つの器(1単位)」の法理

 多数派のラビであっても、次の条件が満たされた場合は使用を許可している。

①条件

 陶器師が最初から火皿と補助的な油つぼを一体のものとして作った場合、または所有者がセメントなどで恒久的に結合させた場合。

②理由

 物理的・専門的な方法で結合されていれば「一つの器」と見なされるため、火皿から油を抜かないのと同様に、補助容器からも油を抜くことはないと判断されるから。

【4】3つの具体例(卵の殻・土器・ボウル)が挙げられる意図

 ミシュナがこれらを並列して挙げているのには、論理的な必然性がある。

 「清潔な卵の殻」と「不潔な土器」の両方を挙げることで、材料の清潔さに関わらず規制が適用されることを示している。

 「吊り下げ型」と「隣置きのボウル型」の両方を挙げることで、物理的な配置によらず、油の抜き取りリスクがある構成すべてが対象であることを明確にしている。

 前回扱った内容において、安息日の禁止事項である「消火」を、単に火を消す行為だけでなく「燃焼時間を短縮させる行為」にまで広げて定義していることが示されている。

 またランプの火皿と補助的な油つぼが「1つの器と見なせるか否か」を基準にしており、もし1つの器と見なせないなら、安息日における使用が多数派では許可されないことを示している。

 以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。

◉ミシュナ『Shabbat(シャバット)』の法理研究 第9回:消火のmelachah(メラハー)と補助的油つぼをめぐる法理(2章4節)

https://note.com/mishnah/n/ne47d48eacc35


安息日における「本来の目的に必要でない仕事」の法理的背景


 今回はその続きであり、口伝律法ミシュナ「Shabbat」2章5節を扱う。

 ミシュナ本文に入る前に、「本来の目的に必要でない仕事」について触れる。ユダヤ教の参考書には、大体次のような趣旨のことが書かれている。以下は私の要約である。

 ラビ・シモンを始めとするラビたちにあっては、「本来の目的に必要でない仕事」はトーラにおいて禁止されているmelachahに相当しないと解釈されている。彼らは「本来の目的に必要でない仕事」はラビの規定によって禁止されたものであると主張する。
 これに対して、ラビ・ユダを始めとするラビたちにあっては、「本来の目的に必要でない仕事」はトーラにおいて禁止されているmelachahに相当すると解釈されている。それは「計算されたmelachah」である。

「Shabbat」2章5節に関するYad Avrahamの解説の要約

 これだけでは何を言っているのか正確に理解することは出来ない。鍵となるのは「計算されたmelachah」とは何なのかという事である。

幕屋建設に遡る「計算されたmelachah」の定義


 「計算されたmelachah」の概念は、トーラの幕屋建設において、職人たちが知恵と意図を持って行った仕事に由来する。ご存知の通り、「安息日にしてはならない仕事」の中心にあるのは、臨在の幕屋に関わる仕事である。これについては、下の記事で詳しく解説した。

◉安息日に禁じられた39のmelachah(メラハー):ミシュナ「Shabbat(シャバット)」により解明される、幕屋建設に関わる創造的活動

https://note.com/mishnah/n/n3c7de6af9a9c

 この前提に立って、ミシュナの中では直接語られていないが、後年のタルムードにおいて、トーラ自らが明確に禁止している仕事と認められるためには、単に物理的な動作を行うだけでなく、「目的意識を持った、計画的で生産的な労働」でなければならないと定義されている。タルムードの「Chagigah」10bには次のように書かれている。

 トーラは安息日に計画された創造的な労働のみを禁じている。意図しない労働、意図しない結果をもたらす労働、あるいは破壊的な結果をもたらす労働は、この範疇には含まれない。したがって、このような労働を行う者は免責される。

(Chagigah 10b)

 ここで問題になるのが「本来の目的に必要でない仕事」の位置付けである。つまり「元々目的の為に必要でない作業であるが、計画し、計算して行う仕事の位置付けはどうなるのか」という問題である。

 ラビ・シモンを始めとするラビたちにあっては、「本来の目的に必要でない仕事」であるのなら、その行為自体が「意図され、計算して行った仕事」であったとしてもトーラで禁止されるmelachahにはあたらないと解釈される。

 しかしラビ・シモンたちは「本来の目的に必要でない仕事」であっても、その行為自体が明確に計算された仕事であるなら、ラビの規定によって禁止されていると考える。トーラでは禁止されていないが、ラビたちが禁止していると解釈しているのである。

 これに対してラビ・ユダを始めとするラビたちにあっては、たとえ「本来の目的に必要でない仕事」であったとしても、それが「意図され、計算して行った仕事」であるのなら、トーラで禁止されるmelachahに相当すると解釈する。

 以上が「本来の目的に必要でない仕事」に関する論理である。「Shabbat」2章5節はこの原則に基づき、具体的な事例を挙げて検証している。

「本来の目的に必要でない仕事」における3つの定義と分類


 しかしミシュナ本文に入る前に、「本来の目的に必要でない仕事」を確認する。「本来の目的ではない仕事」の定義について3つの意見がある。

①目的の不一致

 幕屋で行われていた仕事の目的とは、異なる目的で行われる行為。

例)「火を消すこと」は安息日に禁止されるmelachahの1つである。

 幕屋では祭儀の為に炭を用いる。安息日に禁止される「火を消すこと」の本来的な内容は、炭を作る為に火を消すことである。

 この点、油の節約やランプの破損防止のために消すのは、本来の目的ではない仕事に分類される。

②受動的な反応

 「本来の目的ではない仕事」とは、望ましくない状況を回避・修正するために行われる行為とする見解。

 炭作りには消火行為が不可欠だが、油を節約するための消火は積極的・創造的な行為ではない。単に「望ましくない状況を回避する」為だけのものである。

③別の対象への利益

 「本来の目的ではない仕事」とは、その物自体のために行うのではなく、別の物のために行う行為とする見方である。

 例えば灯火の火を消す場合、行為の対象は芯であるが、その目的は油の節約である場合、「本来の目的ではない仕事」と定義される。

 これに対して、同じく灯火の火を消す場合、行為の対象は芯であり、その目的が芯の節約である場合、「行為の対象」と「行為によって利益を得るもの」が一致することになる。

 つまりこの見方によると、「本来の目的ではない仕事」とは、その物自体のために行うのではなく、別の物のために行う行為である。

 以上を前提に、「Shabbat」2章5節を確認する。

ミシュナ『Shabbat』2章5節の本文と4つの免責事案

 偶像崇拝者、強盗、憂鬱、病気の者が眠る為、これらの理由の為に火を消しても有責ではない。しかしランプ、油、灯芯の為にそうするなら、彼は有責である。

(Shabbat 2:5)

 本節では安息日にランプを消しても責任を問われない事案について扱っている。

(1)偶像崇拝者

 ペルシャのある種の宗教においては、祭日に礼拝する場所以外でランプを灯すことが禁止されている。彼らは火を礼拝する者たちである。

 「偶像崇拝者の為に火を消す」とは、偶像崇拝する権力者たちに強いられて消灯することを言っている。

(2)強盗

 「強盗の為に火を消す」とは、家に強盗が入った場合、見付からないように消灯することを言っている。

(3)憂鬱

 「憂鬱の為に火を消す」とは、精神的な安定の為に消灯することを言っている。

(4)病気の者が眠る為

 「病気の者が眠る為に火を消す」とは、病人が休息をとれるように消灯することを言っている。

 本節のミシュナは「これらの理由の為に火を消しても有責ではない」とする。

 さて、この中で、偶像崇拝者や強盗を恐れて火を消しても安息日の規定違反に問われないことにおいて、重要な原則が根拠になっている。

 これらの行為が許容されるのは、「死の危険を回避する為」という目的があるからである。生命の危機が問題になる場合、それは安息日規定の遵守よりも優先される。

ユダヤ法(ハラハー)と新約聖書(マタイ福音書)の安息日論争


 しかしこの点新約聖書の福音書、例えばマタイによる福音書には次のように書かれている。

 9イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。 10すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。 11イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。 12人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。 13そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。 14パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。

(マタ12:9~14)

 福音書のこの箇所を読む限り、安息日の禁止は如何なる状況においても厳しく運用され、免責事項が無いかのように受け取られる。しかしそれは事実ではなく、福音書では単純化して書かれている。

 この点教会側は「福音の真理を伝える為」とメッセージの意図を示すことが出来る。しかしユダヤ教の立場からすると、偽りを喧伝していると批判することになる。

 実際、新約聖書においてはあまり厳密さを求めていない。この点ユダヤ教にとって聖書は法典であり、厳密であることは核心的な要件であるから、両者の主張は噛み合わないことになる。

話を戻すが、そのような彼らにあっても、生命の危機に直面した場合、安息日の禁止事項よりも人の生命が優先される。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Shabbat』法理研究

https://note.com/mishnah/n/n96f434acde54


 全記事の目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)

https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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