ミシュナ『Eruvin』の法理研究 第2回:『Eruvin』1章3節〜7節における横木・柱の構造的寸法規定と「生きている境界(gollel)」をめぐるハラハー的論争およびタルムードのテクスト批評
*本稿は口伝律法ミシュナ第2部『Moed(モエド)』に属する『Eruvin(エルーヴィン)』の第2回目の解説である。
今回は『Eruvin』1章3節〜7節の法理を徹底考察する。標準レンガ(ariach)の寸法から導かれる横木の幅・強度規定(1章3節〜4節)、公道との境界をなす柱の高さ・幅のハラハー的要件(1章6節)、さらに動物を擬似的な壁(柱)や墓の覆い(gollel)として用いる場合について詳解する。
ラビ・メイル(Rabbi Meir)、ラビ・ヨセ(Rabbi Yose)、ラシ(Rashi)、マイモニデス(Maimonides)らの解釈対立およびタルムード(ゲマラ)のテクスト異同を踏まえ、手加減抜きの厳密さで解明する。
前回の振り返り:空間境界の法理とmavoi(路地)の構造的調整
前回は『Eruvin』1章1節を取り上げ、「空間境界の法理」と、安息日(Shabbat)における運搬禁令を回避するための手続きについて解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】空間概念の定義:中庭(chatzer)と路地(mavoi)
①chatzer(ハツェル)
複数の家が共有し、それらの家々が面している「中庭」を指す。
②mavoi(マヴォイ)
複数の中庭が通じており、最終的に公道へと出るための「路地」を指す。
【2】路地の調整措置と制限(ミシュナ1章1節)
安息日に物を運搬できるようにするため、路地の入り口には「しるし」となる調整措置が必要である。
①高さ制限
路地の入り口に渡される横木(crossbeam)は、地面から20キュビット(約10メートル)以下でなければならない。これは、高すぎると人々の目に留まらず「しるし」としての機能を果たさない為である。
②幅の制限
開口部の幅は10キュビット以下である必要がある。これを超える幅は「入り口」とは見なされず、壁が崩壊していると判断されるため、柵などで狭める必要がある。
③例外規定(門の形)
2本の垂直な柱と1本の横木で「門の形(Tzurat ha-Petach:ツーラット・ハペタフ)」、いわゆる鳥居のような形を形成している場合は、高さ20キュビットや幅10キュビットを超えていても例外的に有効な境界と見なされる。
【3】学派による調整要件の相違(ミシュナ1章2節)
三方が壁で囲まれた路地の4番目の側面をどのように調整すべきかについて、諸学派の議論が紹介されている。
①Beit Shammai(シャマイ学派)
「1本の柱と横木」の両方が必要であると主張する。
②Beit Hillel(ヒレル学派)
「1本の柱か横木」のどちらか一方で十分であるとする。
③ラビ・エリエゼル
2本の柱が必要であると述べている。横木を要するのかは明らかではない。
【4】空間法理の微細な規定
①路地の幅に関する論争
ラビ・メイル(ラビ・イシュマエルの名において)は、幅が4キュビット未満の狭い路地については、各派に異論はないと主張した。
ラビ・アキバはどのような幅であっても、学派間の意見の相違は存在すると反論した。
②ラヴド(lavud)の原理
ハラハー上の規定として、3手幅(約24〜30センチ)未満の間隔は法的に「連結している」と見なされる。
従って、開口部がこの幅未満であれば、柱や横木による調整は一切不要となる。この点について、諸派の間で争いはない。
3~4手幅の間隔である場合、意見の相違が存在する。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Eruvin』の法理研究 第1回:『Eruvin』1章1節~2節における空間境界の法理──mavoi(路地)の構造的調整措置とTzurat ha-Petach(門の形)、lavud(連結)のハラハー的考察
https://note.com/mishnah/n/n12bf20e2fc2c
『Eruvin』1章3節:横木の寸法規定とariach(レンガ基準)の測定法
今回はその続きで「Eruvin」1章3節である。まずは本文を引用する。
彼らが話している横木は-ariach 1つ分の幅がなくてはならない。ariachは3手幅の半分である。横木は1手幅があれば、1つのariachを載せるのに十分である。
ariach(アリアフ、アリアハとも表記される)とは、レンガ2分の1の大きさである。「横木は-ariach 1つ分の幅がなくてはならない」とは、横木には、上にariachが載せられるだけの条件が満たされなくてはならないことを言っている。もしariachが載せられないなら、それは適法な横木ではない。
レンガ一つがどの程度の大きさであるのかは、ミシュナ本文に記載されている。それは「3手幅×3手幅」の正方形である。1手幅は8~10センチであるので、まとめると以下のようになる。
レンガの大きさ:3手幅(24~30センチ)×3手幅(24~30センチ)
ariachはその半分の幅であるので、1.5手幅(12~15センチ)となる。よって横木は1.5手幅(12~15センチ)を受け止める強度がなくてはならない。
タルムードによると、ミシュナ本文でレンガの大きさが特定されているのは、当時標準的なレンガには2つのサイズがあった為である。誤解のないように、ミシュナは大きさを記載したことになる。もう1つの規格は、これより小さいものである。従って、ミシュナに書かれた3手幅が「大きい方の規格」となる。
1手幅(8〜10センチ)の適法性と漆喰による補強の論理
次に「横木は1手幅があれば、1つのariachを載せるのに十分である」と書かれている。
ariachの幅は1.5手幅であるが、ミシュナは、横木の幅は1手幅あれば十分であると語る。ariachの縦を横木と平行に置くと、余分な幅である0.5手幅について、左右に0.25手幅ずつはみ出すことになるが、その程度であるなら漆喰や泥で固定することが出来るからである。そのため、実際の横木の幅は1手幅(8〜10センチ)で適法となる。
以上で「Eruvin」1章3節の解説を終えた。
『Eruvin』1章4節:境界としての横木における「幅」と「強度」の要件論争
次に「Eruvin」1章4節に入る。まずは本文を引用する。
1つのariachを載せるのに十分広く、強い幅がなくてはならない。ラビ・ユダは言う、「たとえ強くなくても、広いなら。」
本節では前節の内容を更に詳しく論じたものである。Tanna Kammaは横木について「1つのariachを載せるのに十分広く、強い幅がなくてはならない」と述べている。横木には幅と強度の双方が求められるという事である。
ラビ・ユダ(Rabbi Judah)はこれに対して、たとえ強度がなくても、十分な幅があれば有効であると述べる。
実際にレンガ半分を支えられるほどの強度がなくても、路地の境界を示すことが出来、横木としての法的な役割は果たされる。ラビ・ユダは、規定は幅にのみ関するものであり、強度を求めているわけではないと主張する。
しかしハラハーは、ラビ・ユダの見解には従っていない。
『Eruvin』1章6節:仕切りの最低限の高さ(10手幅)と壁の代替としての柱の幅
次に「Eruvin」1章6節に進む。まずは本文を引用する。
彼らが話している柱について-高さは10手幅で、幅と厚みは如何なるサイズでもよい。ラビ・ヨセは言う、「幅は3手幅である。」
Tanna Kammaは公道と区別する為の柱について、少なくとも10手幅(80~100センチ)の高さがなくてはならないとしている。
ハラハーにおいて、仕切りの最低限の高さは10手幅とされている。路地(mavoi)の壁の高さの要件も同じである。それに合わせて柱の高さも10手幅要するとしたものである。
ただし路地の壁の高さが10手幅を超えるものであったとしても、柱の高さは10手幅あれば足りる。
柱の幅については「幅と厚みは如何なるサイズでもよい」と書かれている。律法上はたとえ糸のように細いものであっても、柱として有効であることになる。
これに対してラビ・ヨセ(Rabbi Yose)は「幅は3手幅である」と述べている。3手幅(24~30センチ)求めたというのは、柱は単なる目印であるにとどまらず、壁の代わりをするべきであるという考えに基づいている。
『Eruvin』1章7節:生きている動物を「柱」および「墓の覆い(gollel)」とするハラハー
次は「Eruvin」1章7節である。
私たちは何であれ、柱に使ってよい、生きているものであっても。しかしラビ・ヨセはこれを禁止した。
本箇所でTanna Kammaは、動物を柱として用いることが出来ることを述べている。その条件は動物がその場所から動いたり、横たわったりできないように縛り付けられている場合である。
もし動物が横たわってしまうと、その高さが10手幅未満に減少してしまい、柱としての有効性が失われる。
これに対して、ラビ・ヨセは生き物を柱にすることを禁じている。それは動物が死ぬ可能性があるからである。
ラビ・ヨセは動物が死ぬと、縛られていても体が垂れ下がり、高さが10手幅を下回る可能性があると主張する。この点Tanna Kammaは、突然死という起こりそうにない事態を心配する必要はないという立場をとっている。ハラハーはTanna Kammaに従っている。
死者の汚れ(av hatumah)の遮断・伝播に関する中世諸学匠(Rav、Rashi、Maimonides)の解釈対立
続きには次のように書かれている。
墓の覆いと同じく、それは汚れを受ける。
「墓の覆い」とは墓の穴や入り口を塞ぐために使われる蓋(主に大きな石)である。「墓の覆い」はgollel(ゴーレル)と呼ばれる。
この箇所では動物がgollelとして使われた話がされている。これまで柱として動物を使うことが出来るのかどうかというテーマであったのが、突然墓の蓋(gollel)の話になり、面食らう方もいると思う。
柱として動物を縛り、固定してよいかという問題は、生き物で擬似的な壁を作っていいかという問題もある。それに続いてgollelの話が出たのは、gollelが死者の汚れを遮断する擬似的な蓋であるからである。つまり生き物をgollelとしていいのかという問題である。
ミシュナは「口伝律法」であるので、連想によって本題からそれるような展開が続くことが、往々にして起こる。
話を戻すと、生きている動物をgollelとして使った場合、その動物が汚れるかどうかが問題になっている。物を用いた場合、gollelはav hatumahになる。
av hatumahは極めて重い汚れであり、死体の持っている汚れ(avi avot hatumah)に次ぐ重い汚れになる。
このあたりの重さの階層秩序について不安な方は、下の記事から復習して欲しい。
◉ミシュナ『Oholot』の法理 第1回――死者の汚れの伝播法則:avi avot hatumahからrevii l'tumahまでの6段階減衰
https://note.com/mishnah/n/n9dfd81d6aa03
RavやRashiは一端gollelとして用いるなら、その動物は永久的にav hatumahになると主張する。
これに対してMaimonidesは、gollelとしての役割を続けている間のみav hatumahであるとする。
タルムード(ゲマラ)におけるテクスト異同と生きている動物の「敷居認定」の否定
続きには次のように書かれている。
しかしラビ・メイルは汚れないと考えている。
ラビ・メイルは、生きている動物はgollelとして法的な位置付けを得ることはないと主張する。生きている動物は原則として汚れないので、物理的に動物を墓の蓋のように用いても、それは汚れないとする。
ラビ・メイルによると、動物は柱としても使うことは出来ない。
なおミシュナ本文では、動物を柱として使えないという見解はラビ・ヨセの名前で書かれていたが、タルムードにおいては多くの現存のテクストで、ラビ・メイルの名前で書かれている。
タルムードのテクストに従うなら、生きている動物を柱に使えないのは突然死ぬ可能性を考えたものではなく、生きている動物を一種の敷居として用いることは出来ないという判断による。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Eruvin』法理研究
https://note.com/mishnah/n/ncb2fc95494d1
全記事の目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
