ミシュナ『Niddah』の法理研究 第6回:クティ人(サマリア人)女性のniddahと、夫の律法上の地位、及び改宗論争(4章1節)
*本稿は、古代ユダヤ教『Niddah』における不浄論の歴史的・法理学的分析を目的とした純学術的な論考であり、文中の身体現象や性的禁忌に関する言及は、すべて宗教法学的文献の正確な読解に基づくものである。性的な関心を喚起する目的、あるいは公序良俗に反する意図は一切含まれていない。
本稿は口伝律法ミシュナ第6部『Tohorot(トホロット)』に属する『Niddah(ニッダー)』の第6回目の解説である。
今回は『Niddah(ニッダー)』4章1節を精読し、サマリア人(学術的には「クティ人」)の女性に適用される月経不浄規定と、それに伴う夫たち、器物に及ぶ不浄伝播の法理である。
クティ人の改宗の有効性をめぐるタルムードの神学的論争を前提としつつ、書かれた律法(トーラ)と口伝律法(ハラハー)の解釈の齟齬が、いかにして「無効な清め」と「重度な不浄(av hatumah)」の連鎖を引き起こすのかを、数理的・論理的な視座から厳密に解剖する。
前回の振り返り:『Niddah』3章5節における境界線上の法理
前回は『Niddah』3章5節を取り上げ、性別不確定児(tumtum/androgyne)の出産・流産に伴う不浄規定と、出生を判定する物理的基準について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】性別不確定者(tumtum / androgyne)の定義
ユダヤ法(ハラーハー)における、性別が判別しにくい身体的状態が定義されている。
①tumtum(トゥムトゥム)
生殖器が厚い膜で覆われており、性別が不明な状態。
②androgyne(アンドロギノス)
男女両方の生殖器を持つ状態(半陰陽)。
【2】性別不確定児出産時の「重複計算ルール」
子供の性別が不明な場合、母親は男児規定と女児規定のうち、より厳格な制限を組み合わせて適用しなければならない。
①不浄(tamei)期間(14日間)
女児出産の規定(14日間)が男児(7日間)より厳格であるため、最初の14日間は不浄と見なされる。
②toharの血の期間(26日間)
男児出産の全規定サイクル(40日間)から、既に経過した不浄期間(14日間)を引いた「40 - 14 = 26日間」のみが、出血しても清いとされる期間になる。
【3】双子出産における規定の優先順位
①男児と性別不確定児の双子
上記の「重複計算ルール(14日間の不浄+26日間の清浄)」が適用される。
②女児と性別不確定児の双子
片方が確実に女児であるため、女児出産の規定(14日間の不浄+66日間の清浄=計80日間)のみに従う。これは女児規定の方が期間が長く、包括的である為である。
【4】出生の判定基準とその重要性
いつを「出生」と見なすかについて、具体的な身体的基準が定められている。
①判定基準
逆子やバラバラの状態であれば「体の大部分」が出た時、通常の頭位分娩であれば「頭の大部分(額)」が出た瞬間を出自と見なす。
②実務上の重要性
ユダヤ暦では日没で日付が変わるため、この基準は不浄期間の終了日や、安息日における割礼(生後8日目)の可否を決定する極めて重要な法的根拠となる。
『Niddah』3章5節により、性別が確定しないという極限事例においても、数学的・論理的な計算(40日から14日を引くなど)を用いて、祭儀的な清浄・不浄を厳密に管理しようとするミシュナの法理的性格が示されている。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Niddah』の法理研究 第5回:性別不確定者(tumtum/androgyne)の不浄期間と、胎児の出生判定をめぐる境界線上の法理(3章5節)
https://note.com/mishnah/n/nf9b0e7c3ce70
『Niddah』4章1節の文献学的・歴史的前提:サマリア人(クティ人)の改宗論争
今回はその続きで、口伝律法ミシュナ「Niddah」4章1節に入るが、その前にサマリア人について語られるので、簡単に復習する。
ユダヤ教の伝統的注釈では、サマリア人はクティ人と呼ばれることが多い。彼らは「アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした」(列下17:24)とある通り、イスラエル10部族の代わりにサマリアへ移住させられた異教徒たちである。
「クティ人」と呼ばれるのは、上記引用の列王記下の箇所にあるように、その出身地の1つの町「クト」から来ていると思われる。ヘブライ語ではKuthim(クティーム)と呼ばれる。
今回は日本語では馴染み深い「サマリア人」ではなく、学術的にはより一般的である「クティ人」という表記で統一したいと思う。
タルムードにおける改宗の有効性(誠実性)をめぐる二大見解
クティ人たちは入植後、ライオンに襲われる災難に見舞われたため、その地の神(イスラエルの神)を鎮めるためにユダヤ教に改宗した。しかし改宗後も異教の習慣に従ったので、彼らの改宗は誠実で有効なものであるのかが、タルムードで問題になっている。
この点について肯定的な見解では、改宗した当時は誠実であったが、後になって異教の習慣に戻ったとする。従ってクティ人たちの改宗は有効である。
否定的な見解では、クティ人たちの改宗は、ライオンへの恐怖からした形式的なものに過ぎない。律法を心から受け入れたというプロセスを欠いているので、ユダヤ人とは見なさない。
『Niddah』4章1節におけるクティ人女性のniddah擬制
以上を前提に「Niddah」4章1節の本文を引用する。
クティ人の娘たちはゆりかごからniddahと見なされる。
クティ人たちは「書かれた律法」であるトーラの権威を受け入れているが、口伝律法の権威は受け入れない。彼らはトーラを字義的に解釈するだけである。
ラビたちは、もしも新生児が出血したならば、niddahとして見なすと裁定している。クティ人たちはこれを受け入れていないので、出血した女児が聖別したものに触るのを妨げないし、清めの手続きも踏ませない。
そこでラビたちは、クティ人の娘たちは生まれた時からniddahと見なすと規定した。
ほとんどの出生児は性器から出血することはないが、絶無ではない。ハラハーの原則では一般的な多数の事例に従い、例外的な少数事例は排除されるが、ラビ・メイル(Rabbi Meir)は例外的な少数事例をも法的根拠として考慮する。
本節で新生児の出血という極めて稀な事例を全クティ人女性に擬制する裁定は、このラビ・メイルの法理的帰結である。
後年、結果的にクティ人の改宗は無効とされたが、本節のミシュナは彼らの改宗は不完全かもしれないが、有効なものであるという判断に基づいている。なぜなら異邦人の女性には、niddahの掟は適用されないからである。
不浄伝播の極限事例:midras(体重圧迫)によるav hatumahの連鎖
続きには次のように書かれている。
クティ人の男子は、マットレスに汚れを移す、niddahと性行為したと見なされるので。なぜならクティ人女性は如何なる出血においてもniddahの期間を守るから。
上に述べた通り、クティ人の女性は一律に「niddah」と見なされる。niddahは体重をかけたものをav hatumahとして汚す。これをmidras(ミドラス)と呼ぶことは以前の記事で述べた。
クティ人妻の夫は彼女と性行為する者として、midrasによって物を汚すav hatumahと見なされる。
彼が自分の体重を支えるために使用したもの(椅子、ベッド、マットなど)は、midrasによってav hatumahとして汚れる。
繰り返すが、一般的にある物からある物へ汚れが移る場合、通常は1段階弱くなって移る。しかし体重をかけることによって汚れが移る場合(midras)、汚れは1段階弱くならない。
クティ人の夫からmidras(体重による圧迫)によって不浄を伝播されたベッドや椅子は、一段階減衰することなくav hatumahの汚れを維持する。 律法の規定上、av hatumahに接触した人間や器物は、さらに一段階減衰したrishon l'tumah(リッション・レトゥマ)へと汚されるので、これらの寝具に触れるすべての者が祭儀的不浄の連鎖に巻き込まれることになる。
逆転する清め(mikveh)の有効性と、夫へのniddah接触不浄の擬制
夫がniddahと性行為した者として見なされるのには、クティ人女性の律法遵守のあり方が関係している。
クティ人の女性は、niddahの律法を多くの面で非常に厳格に守っていた。その為彼女たちは「排出される血の色」を区別していなかったものである。彼女たちは性器から血が出た場合、それが如何なる色であろうとも、niddahの掟を遵守した。
ところがハラハーでは、tameiとなる血の色は赤のみであると定められている。この点での認識のずれがあるので、クティ人のniddahの期間遵守のあり方が、ハラハーから逸脱した部分が生じてしまうことになる。
例えば下のような具合である。
①クティ人女性が黄色の血を性器から出血する。
②クティ人女性は直ちに7日間のniddah期間を遵守し始める。
③7日間の間の3日目に、クティ人女性が赤の血を出血する。ハラハーではこの時点からniddahの7日間が始まる。
④クティ人女性は黄色の血を出血してから7日目の夜にmikvehに入る。しかしこの日はまだ、ハラハーではniddahの7日間の最中である。その清めは無効である。
⑤夫と性行為する。
以上の通り、夫は妻がniddahの期間中に性行為をしたことになる。
レビ記15章24節の具現化:減衰なき midras 規定の構造的伝播
niddahと性行為した場合は、niddahとほぼ同じ程度に汚れ、体重をかけたものを汚す。トーラには次のように書かれている。
もし、男が女と寝て月経の汚れを受けたならば、七日間汚れる。またその男が使った寝床はすべて汚れる。
なおmidras(ミドラス)の規定では、10枚のマットが積み重なっており、一番上にniddahが座った場合、直接触れていない下のすべてのマットがav hatumahとしてtameiになる。
また、av hatumahが擬制されるのは、結婚しているクティ人の男性のみである。独身のクティ人男性がniddahと交わっているという懸念は、法的には考慮されない。
今回は汚れの軽重の知識が前提になっている。少しでもあやふやな方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Oholot』の法理 第1回――死者の汚れの伝播法則:avi avot hatumahからrevii l'tumahまでの6段階減衰
https://note.com/mishnah/n/n9dfd81d6aa03
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Niddah』法理研究
https://note.com/mishnah/n/nb46479539fed
全記事の目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.2】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.201〜No.300)
https://note.com/mishnah/n/na80e65fb273e
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
