彼岸花
彼岸花と椿。開花時期的に同居しないはずのこの二種の花を同時に咲かせる物語。読み進めれば内容のこじつけ感も甚だしい。
ため息をつき、頁をめくる指を止める。それで察してくれることを期待したが、目の前の彼女は微笑みを浮かべて、
「秋に咲く椿もあるそうよ。」
そう言って手に持った紅茶をすすった。押しつけがましいアールグレイの香りが鼻をついてくる。早咲きの椿とやらもこれと同じくらい鬱陶しい香りに違いない。
「品種の説明を入れるなんて無粋ですよ……」
言いながら腕時計を見て、もう時間だという仕草を見せて立ち上がる。今日はこのまま直帰できるのだ。これ以上この駄作のために長居はしたくない。
「一度持ち帰り検討をさせていただきます。」
実際は一晩寝かすだけだが。検討したふりをして突き返せばいい。こんなものが通るとは彼女も思っていないだろう。
かつての彼女は、甘やかでありながらねっとりとした呪いのような文章を書く人だった。その言葉に魅了された人間は数知れず、いわゆる売れっ子作家というやつだ。
そんな彼女の筆がぴたりと止まったのは数年前のこと。ここ最近は過去の短編を加筆修正した短編集などでなんとか繋いでいたが、それももう限界に近付いていた。
「終わった作家だ。」
そんな彼女の、おそらく最期になるだろう作品に編集者として一応目を通しておくとする。帰宅後の一服を終えてから鞄を開いた。
すると、むわり、花のような香りが広がる。身に覚えのない香りだ。彼女の香水か何かが原稿に染み込んでいたのだろうか。さっきは別のにおいで気付かなかったが。
「紅茶といい香水といい、癇に障るキツいにおいがお好みらしい。」
打ち消すためにまた新しい煙草に火を点ける。
と、その瞬間に玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時間に宅配便?しかしインターホンの画面には誰も映っていない。仕方なく玄関に向かう。
「……なんだこれ。置き配なんか頼んでいないし。」
扉を開けると小さな箱が置いてあった。あて先も何も書かれていない段ボール箱だ。普段ならこんな気味の悪いものに触れたりはしないが、即座に持ち上げたのには理由がある。
(これ……彼女の原稿と同じ展開だ。)
稚拙な文章に気を取られてわからなかったが、実際に起こるとおぞましい展開であることに気付かされる。突然送り付けられる不審な荷物。あの小説の筋をなぞるなら、この箱の中身は、
「やはり……彼岸花。」
敷き詰められた紅い花弁に目が眩む。本来は吉兆を運ぶ華だというが、不吉に感じるのはこの鮮血を思わせるような紅のせいだろうか。少なくとも彼女の小説の中では呪物のような存在だったはず。
しかしこの後はどうなるんだろう。冗長且つこじつけの展開に頁送りを止めたのがこの辺りだった。
花の中を探ってみると、文庫サイズの薄い冊子が出てくる。
「これは……」
手書きらしい小説。開き読み進めればそれがあの原稿の改稿であることがわかった。しかしながら比べものにならないくらい美しく絡みついてくる文章である。彼岸花は仏教では天から降ってくる花だが、この物語では足元から花弁を伸ばし心臓まで絡め取っていくようだ。
全盛期の彼女を思わせる文章に夢中で頁をめくっていると、作中の男と同じタイミングであることに気付く。
(そうだ、煙草……)
男はチェーンスモーカーで右手で煙草を吸いながら左手で次の煙草に火を点けるような人間だ。自分はそれほどではないが、玄関に来る前に吸おうとして火を点けていたはずである。あれはどうした?
焦って振り返ると部屋の奥からは花の香りに混じって焦げ臭いにおいが漂ってきていた。
(……まずい!)
急いで部屋に戻る。煙草は灰皿の淵から落下し、鞄の上に落ちて化繊の生地を焦がしている。
危ないところだった。安堵のため息をつき消火を試みようと手を伸ばした、その時
ぼうっ
開いた鞄の内側から大きな炎が立ち上がる。化繊は燃えやすいというが、ここまで強く燃えるだろうか。
(まるで油を撒いたみたいな……)
油。
そのキーワードとアールグレイのキツい香り、それによって隠されていた花の香りが脳内に一気に広がる。そして彼女の物語の中に咲く満開の椿。
(椿油……!)
原稿に染み込んでいたのか鞄の中に撒かれていたのかはわからない。だが、煙草の火で燃え融けた化学繊維がそこに引火したのだ。
消すか逃げるか、迷っているうちにあっというまに広がる炎。鞄を立てかけていた安手のソファは燃えやすく、火の回りを速めて気付けば四方を囲まれていた。
逃げ場がない。そんな状況なのに、熱を帯びた頭の中はある思考で支配されている。
(これは彼女の書いた物語そのものだ。その中に俺がいる。)
持っていた冊子を開く。
『燃え上がる炎は五指を開いて天を仰ぎ、煌々と降り立つ死を迎え入れている。彼岸の花が送るは喝采。その嬉々とした切っ先で椿の首を落としていく。』
(なるほど……ぼたぼたと燃え崩れる家財はまるで断首された椿だ。)
俺の首も落とされるのだろうか。
彼女が書けなくなったのは、ふたりの関係が作家と編集者の境界を越えた頃だった。
けれど、執筆できない彼女と過ごすうちに気付いてしまったのだ。俺は彼女ではなく彼女の物語を愛していたのだと。耽美で狂おしいあの言葉の連なりを渇望しているのだと。
だからくだらない関係を絶った。彼女だけが主人公の物語なんかいらない。彼女にもう一度筆を執ってもらわなければ。もう一度彼女の作品をこの世に生み出さなければ。
(俺はやっと……手に入れたんだ。)
『そこにはむせ返るように咲き乱れる彼岸花の群れに囲まれている男がいた。
彼が手折り、持ち帰り、枯らしてしまった華の燃え滓が肺を満たしていく。それは紫煙よりも甘く苦く……熱く、熱く、熱い。
求めるように天に伸ばした指が燃える。高みに届いて燃え尽きる。
朽ちて倒れた暁には、落ちてなお咲き続ける椿となれるだろうか。』
焦げゆく眼にはもう何も映らなかったが、これだけはわかる。
これは彼女がくれた呪いだ。この物語を殺人を軸にしたサスペンスとするなら、彼岸花は本来必要ない。椿油と煙草さえあれば男を殺すことはできたのだから。
【彼岸花】
怨念の籠められたその言葉が記された原稿を持ち帰らせること。それこそが彼女の真の目的だったのだ。
「ねえ、知ってる?彼岸花を摘んで持ち帰ると火事になるんですって。」
迷信を利用したおぞましい呪い。サスペンスに見せかけたホラー。
その物語の中心に立っている。主人公として立っている!これ以上の幸福があるだろうか。
(そしてこの手の中の原稿が燃え尽きれば……)
『これは俺だけの物語だ。
灼けただれた声帯で最期にそう呟くと、男はとうとう事切れた。
憎しみか、愛か。あるいはその両方か。何を持って彼岸へと向かったのだろう。』
知る由もない秋晴れの空に、舞い落ちる吉兆の徴の如く、彼岸花の灰が降り注いでいた。
