温故知新(108)神功皇后 坐摩神社 坐摩神社行宮 住吉大社 ヴェストラホルン山 目配山 砥上岳 砥上神社(中津屋神社) 松峡八幡宮(栗田八幡宮) 宇美八幡宮 パレルモ 浮羽稲荷神社 美奈宜神社 大己貴神社 高良大社 アレクサンドリア
坐摩神社(いかすりじんじゃ)(大阪市中央区久太郎町)は、神功皇后が新羅からの帰還の際に淀川南岸の大江、田蓑島の渡辺の地に坐摩神を奉祀したのが始まりとされています。天正10年(1582年)の豊臣秀吉の大坂築城に当たり現在地に遷座されました。大阪市中央区石町に坐摩神社行宮があり、「神功皇后の鎮座石」といわれる石が祀られています。
観心寺(大阪府河内長野市寺元)とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインの近くに坐摩神社行宮があり、ヴェストラホルン山と流谷八幡神社(河内長野市天見)を結ぶラインの近くに坐摩神社があります(図1)。これらのラインは、神功皇后の陵墓と推定される富雄丸山古墳と神功皇后ゆかりの住吉大社(大阪市住吉区)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。

流谷八幡神社には、応神天皇、神功皇后、比売大神が祀られています。神社の所在地には、かつて甲斐荘という石清水八幡宮の荘園があり、1039年に石清水八幡宮より八幡神を勧請したことが神社創建の起源とされています。
丸谷憲二氏のブログによると、岡山県瀬戸内市邑久町尾張にある百枝八幡宮は尾張の総氏神として、宝亀2年(772年)には、邑久町にある高砂山系の早稲田の里、休所(山手半田)の正五位下稲戸明神内に鎮座していました。下記の浦上宏氏のブログをみると、貴船神社(邑久町山手)に愛宕神社の祠がある理由がわかります。
山田庄・山手の半田
山田庄の貴船山の東に半田・半田上があり、山手に半田の地名がある。半田は先に書いたようにハタ(秦)が訛ったもので秦氏の居住地である。
貴船神社(邑久町山手)の社記によると、「休所」は、神功皇后が休まれた所なので、高砂山の「休所」の近くにある八幡宮(重高大垣八幡宮)と坐摩神社行宮や坐摩神社をラインで結んでみました(図2)。坐摩神社行宮と八幡宮(邑久町山手)を結ぶラインの近くに家島神社(姫路市)があり、八幡宮と坐摩神社を結ぶラインの近くに瓊瓊杵尊と丹生都比売命の墓があると推定される天王山古墳群(神戸市西区)があります(図2)。このレイラインから、高砂山の磐座は神功皇后と関係があると推定されます。

福岡県朝倉郡筑前町では、神功皇后が新羅征討のために兵士を集めた砥上神社(中津屋神社)や、砥上岳、松峡八幡宮(栗田八幡宮)、大己貴神社、目配山、神功古道など多くの事跡が伝えられています。目配山は、神功皇后が登り、四方に目を配ったことから、山名の由来となったとされ、山頂には、神功皇后が腰を掛けた神功腰掛石があります。目配山とパレルモを結ぶラインの近くに、神功皇后が三韓征討進発の際、武甕槌神を勧請して祈願した砥上岳や、神功皇后ゆかりの宇美八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町)があります(図3)。また、パレルモと松峡八幡宮(栗田八幡宮)を結ぶラインの近くに、砥上神社や神功古道があります(図3)。

大己貴神社(於保奈牟智神社)と高良玉垂命(倭迹迹日百襲姫命と推定)を祀る筑後国一の宮 高良大社(久留米市)を結ぶラインは、浮羽稲荷神社(うきは市)とアレクサンドリアを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。後者のラインの近くには、美奈宜神社(朝倉市林田)や飯盛神社(福岡市)があり、比較的近くには、住吉三神の起源とされる現人神社(那珂川市)があります。このラインは、高良大社の近くにある高良山神籠石は神功皇后が作ったと推定されることと整合します。

これらの神功皇后の伝承は、レイラインと整合性があることから、事実に基づいていると思われます。
下記のブログによると、浮羽稲荷神社の階段は91段で、古代マヤ文明の遺跡であるチチェン・イッツァのピラミッドの階段の数と同じだそうです。
試しに、浮羽稲荷神社とチチェン・イッツァをラインで結ぶと、ラインの近くに、熊野大社元宮 斎場跡(島根県松江市)や恵山(北海道函館市)がありました(図5)。

