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温故知新(6)伊都国 須佐之男命(一大率 都市牛利 牛頭天王) 須玖遺跡群 スサ 住吉神社 筥崎宮 志賀海神社 平原遺跡 津屋崎古墳群 多久頭魂神社 伊奴神社 宗像大社 阿曇(安曇)氏 宗像氏

 木村鷹太郎氏によると、須佐之男命の「すさ」は古代ペルシャの首府「スサ(スーサ)」を指し、「スサの男」はスサ人たるを示すものとしています。スサのアクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されています。須佐之男命は、祇園精舎の守護神とされた牛頭天王(ごずてんのう)と習合しましたが、その理由は、スーサから出土した戦勝碑にある、地中海沿岸や北方山岳地域などに遠征したナラム・シン王(写真1)のように、牛のような角のある兜を被っていたためかもしれません1)。

写真1 ルルビ族に対する勝利を記念したナラム・シンの戦勝記念碑 
出典:「ナラム・シン」Wikipedia

 シュメール初期王朝時代(紀元前2900年~紀元前2335年)の円筒印章印影図には、ヤマタノオロチに似た、七つの長い首の上に七つの頭をもつ蛇が見られますが、やはり2本の角のある兜を被った、ニンウルタ神が退治する図像があります2)。

 伊都国(いとこく)は、『魏志』倭人伝にみえる倭国内の国の一つで、糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力で、漢倭奴国王の金印が見つかった志賀島も近くにあります。福岡県春日市に、奴国の中枢部だったと考えられている弥生時代中期~後期の大集落「須玖遺跡群」(すぐいせきぐん)があります(図1)。須玖遺跡群、平原遺跡、阿曇氏の発祥の地と考えられている志賀島にある志賀海神社 沖津宮を頂点とする三角形を描くと、平原遺跡と志賀海神社 沖津宮を結ぶラインは、須玖遺跡群とスサを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。須玖遺跡群とスサを結ぶラインの近くには神功皇后ゆかりの住吉神社(長崎県壱岐市)があり、須玖遺跡群と平原遺跡(ひらばるいせき)を結ぶラインの近くには、誉田別命・伊弉冉命・玉依姫命を祀る飯盛神社(福岡市西区)があり、志賀海神社 沖津宮と須玖遺跡群を結ぶラインの近くには綿津見三神を祀る志賀海神社があります(図1)。 皇室に伝わる「三種の神器」の鏡、剣、勾玉は、古代日本では統治者のシンボルとされてきましたが、特に福岡市から糸島市にかけての地域では、鏡、刀、勾玉がセットで出土しています。伊都国の王墓と考えられる平原遺跡は、弥生時代終末期(約1800年前)の古墳で、国宝とされた国内最大の内行花文鏡が見つかっています。このラインから、須佐之男命は、住吉三神(筒男命)や綿津見三神と推定され、須玖遺跡群と須佐之男命を関係付けていると推定されます。筒男命の「筒」は、綿津見三神の「津」と関係があると思われます。

図1 須玖遺跡群と平原遺跡を結ぶラインと飯盛神社、平原遺跡と志賀海神社 沖津宮を結ぶライン、志賀海神社 沖津宮と須玖遺跡群を結ぶラインと志賀海神社、須玖遺跡群とスサを結ぶラインと住吉神社

 宮崎県延岡市神戸町にある神戸神社とシチリア島のシラクサを結ぶラインの近くに志屋大神宮(熊本県阿蘇郡小国町)、櫛田神社(福岡市博多区)、志賀海神社、彦火々出見尊、豊玉姫命を祀る和多都美神社(対馬市)があり、このラインは、宇佐神宮(大分県宇佐市)と神龍八大龍王神社(熊本県菊池市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。

図2 神戸神社、宇佐神宮、神龍八大龍王神社を結ぶ三角形のライン、神戸神社とシラクサを結ぶラインと志屋神社(志屋大神宮)、櫛田神社、志賀海神社、和多都美神社

 宮崎県日向市の天照大御神を祀る大御神社(おおみじんじゃ)とシチリア島のパレルモを結ぶラインの近くには、高千穂峡、神龍八大龍王神社、平原遺跡、対馬市の天狹手依比女神・表筒男命・中筒男命・底筒男命をまつる都々智神社 (旧本宮跡)があり、このラインは、宇佐神宮と金峰山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。大御神社と宇佐神宮を結ぶラインの近くには、佐田京石(宇佐市)があります(図3)。平原遺跡は、天照大御神や須佐之男命と関係があると推定されます。

図3 大御神社、宇佐神宮、金峰山を結ぶ三角形のラインと佐田京石、大御神社とパレルモを結ぶラインと高千穂峡、神龍八大龍王神社、平原遺跡、都々智神社 (旧本宮跡)

 筑前国一之宮 筥崎宮(はこざきぐう)とアレクサンドリアを結ぶラインの近くには、志賀海神社や乙和多都美神社(長崎県対馬市)があります。このラインは、飯盛神社と津屋崎古墳群(福岡県福津市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。津屋崎古墳群は、宗像地域を治めていた地方豪族、宗像氏が築いた古墳群です。乙和多都美神社は、社伝によると、神功皇后が当港に船を泊め自ら祀ったとされ、また、山本和幸氏のブログにあるように、宮ノ岳山の山頂が御神体ともいわれています。

図4 筥崎宮、飯盛神社、津屋崎古墳群を結ぶ三角形のライン、筥崎宮とアレクサンドリアを結ぶラインと志賀海神社、乙和多都美神社

 住吉神社(福岡市博多区)とアレクサンドリアを結ぶラインは、長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)にある多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)の近くを通ります(図5)。多久頭魂神社のある地名は豆酘(つつ)で、筒男命(須佐之男命と推定)と関係があると推定されます。多久頭魂神社の祭神は天照大神など5柱とされていますが、本来の祭神は対馬特有の神である多久頭神で、「たく」には、古語で「船を漕ぐ」の意味があるので、多久頭神は船頭の神なので、須佐之男命と関係があると思われます。

図5 住吉神社(福岡市博多区)、飯盛神社、津屋崎古墳群を結ぶ三角形のラインと筥崎宮、住吉神社とアレクサンドリアを結ぶラインと多久頭魂神社

 邪馬台国は、伊都国に魏の刺史と同様な役所を常設し、一大率(いちだいそつ)に諸国を検察させていました。福岡市西区にある今宿五郎江遺跡は、弥生時代後期前半の伊都国の衛星集落の一つと考えられ、「瀬戸内系土器」受容の拠点とされています。若井氏は、吉備から派遣された一大率がこの遺跡に駐在し始めたと推定される時期と一致するとしています3)。

 名古屋城の北2.5kmほどの所に、伊奴神社(いぬじんじゃ)があり、素盞嗚尊、大年神、伊奴姫神(いぬひめのかみ)を祀っています。『延喜式』に「尾張国山田郡伊奴神社」と記載される式内社で、1,330年余りの歴史を持つ名古屋でも有数の古社です。伊奴神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには、五十瓊敷入彦命の妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)を祀る金神社(こがねじんじゃ)(岐阜市金町)、伊邪那岐、伊邪那美神、天照大神を祀る白山神社(福井県吉田郡永平寺町)、波松海岸(あわら市)があり、このラインは、沖の白石と岩屋岩蔭遺跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。

図6 伊奴神社、沖の白石、岩屋岩蔭遺跡を結ぶ三角形のライン、伊奴神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと金神社、白山神社、波松海岸

 『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に印綬を与えたことが記されており、この印は、志賀島で見つかった「漢委奴国王」と刻まれた金印と考えられています。「漢委奴國王」の「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説もありますが、下記のブログによると、「委奴」は、倭の奴国でも伊都国でもないとしています(「漢委奴国王」金印の解読における通説の「奴」の誤解と真実)。木村鷹太郎氏は、大犬座と小犬座の星座地を合わせた犬の国(狗国)のことで、「委奴」は「イヌ」と呼ぶべきとしています4)。もしかすると、委奴(いぬ)→伊奴(いぬ)→伊都(いと)に名前を変えたのかもしれません。そうすると、使わなくなった金印を埋めた理由がわかります。

 『魏志』倭人伝によれば、魏の景初3年(239年)に卑弥呼が使いを魏におくったときの次席使者が「都市牛利(つしごり)」です。「都市牛利」の「都市」が、都市国家だった「スサ」や「伊都国」を表し、「牛利」が、地方の役人である「郡吏」の郡を、牛頭天王の「牛」に変え、「吏」を「利」に変えたとすると、「都市牛利」は須佐之男命を表し、須佐之男命は、卑弥呼が共立された後、伊都国の「一大率(いちだいそつ)」となり、卑弥呼を支えたと考えられます。

 『古事記』によると、大年神・大歳神(おおとしのかみ)は、須佐之男命と神大市比売の子で、兄弟神である稲荷神・宇迦之御魂神(うかのみたま)と共に豊穣神とされることもあるようです。神大市比売は、『古事記』にのみ登場する神で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻になったとされています。岡山県倉敷市茶屋町にある稲荷神社は、主祭神が宇賀御靈神で、須佐之男命、大市比賣命(神大市比賣命)を祀っています。稲荷神社(茶屋町)とオリンポス山を結ぶラインは、出雲大社(島根県出雲市)を通ります(図7)。このラインの近くには、備後鬼ヶ城跡(広島県庄原市東城町)、出雲井神社(島根県雲南市)があります(図7)。備後鬼ヶ城跡は、古代の城跡かもしれません。大年神は、牛頭天王の八王子では、太歳神(たいさいしん)に当たるとされています。大年神の「年」は「都市」に由来するのかもしれません。長崎県、福岡県、兵庫県などでは、都市(といち)という苗字がみられます。

図7 稲荷神社(倉敷市茶屋町)とオリンポス山を結ぶラインと備後鬼ヶ城跡、出雲井神社、出雲大社

 志賀海神社を氏神とする阿曇氏(あずみうじ、安曇氏とも)は、海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族で、『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)の子孫なり」と記され、『日本書紀』の応神天皇の項には「海人の宗に任じられた」と記されています。また、『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記されています。長野県(信濃国)の佐久郡(さくぐん)の地名由来として、宇都志日金拆命が開拓したので「拆(さく)」となったという説があります。長野県安曇野市穂高に、穂高見命を祀る穂高神社(ほたかじんじゃ)があります。

 安曇氏あるいは安曇部によって、隠岐国、備中国、周防国、阿波国、伊予国から海産物が貢納されていることから、安曇氏は海人集団として西日本を中心に分布していたとされています。安曇氏の一族は「磐井の乱」では、磐井に味方したことから、全国に拡散したようです。

 宗像大社(福岡県宗像市)の祭神は、天照大神の三女神(市杵島姫神、湍津姫神、田心姫神)で、宗像市の辺津宮、大島の中津宮沖ノ島の沖津宮にそれぞれ祀り、この三宮を総称して宗像大社といいます。三女神の神名とその鎮座地は、記紀の諸伝間で異なっていて、多岐都姫命は湍津嶋姫命と同一神で、『古事記』では辺津宮に祀られています。辺津宮とパレルモを結ぶラインの近くには、中津宮と対馬市の宗像神社があります(図8)。沖ノ島にある沖津宮は、ラインからやや離れています。対馬市の宗像神社の近くには、宇麻志麻治命(珍彦)を祀る内野神社や、豊玉姫(多岐都比売命)を祀る豊﨑神社、志自岐神社(古津麻神社境内)があります。宗像大社を奉じる宗像氏は、上代より宗像の地を支配した海洋豪族です。

図8 宗像大社 辺津宮とパレルモを結ぶラインと宗像大社 中津宮、宗像大社 沖津宮、宗像神社

 安曇氏や宗像氏は、オリオンの三ツ星の信仰を持ち、宗像三女神と関係があると推定され、三つ星の神格化ともされる住吉三神を祀った神功皇后も三ツ星の信仰を持っていたと推定されます。平戸藩松浦家の肥前松浦氏は、嵯峨源氏渡辺氏流というのが定説で、守護神として諏訪神社を祀り、家紋の「松浦星」は、オリオンの三ツ星にちなんでいます。

 ギルガメシュ(アッカド語)またはビルガメシュ(シュメール語)は、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代の伝説的な王です。シュメール文明を築いた、世界最古の書『ギルガメッシュ叙事詩』に出てくる海洋民族ディルムンは、ヨーロッパの学説では、モヘンジョダロハラッパ遺跡の付近にあったマドゥラを海都としていたとあるようです5)。竹内氏によると、インドネシアの港にも「マツウラ」があり、「マドゥラ」が転化して「マツゥラ」から「松浦」になったとしています5)。

 大分県日田市日高町のダンワラ古墳から、弥生時代中期の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が見つかっています。ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われ、魏の曹操(155ー220年)が同様な金錯鉄鏡を持っていたことから、高位の支配層の所持物だったと考えられています。漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれ、漢代のものと考えられています。賀川光夫氏は、鉄鏡に金銀を錯人する技術は本来西方のスキタイ系遊牧種族の武器や馬具などの動物衣裳を基本とするものと考えられるとしています。大分県日田市(豊後国日田郡)付近には、伊勢皇太神を祀る大神宮が多数分布しています(図9)。

図9 大神宮(大分県)

 大分県には、天照大御神を祀る伊勢系列の天祖神社(てんそじんじゃ)や天之御中主神や素盞鳴男命を祀る天祖神社があります(図10)。

図10 天祖神社(大分県)

 大分県玖珠郡玖珠町(くすまち)四日市の天御中主大神外2柱を祀る木牟田天祖神社(大神宮・お伊勢様)とパレルモを結ぶラインの近くには長崎県対馬市の天神多久頭魂神社(てんじんたくずだまじんじゃ)があります(図11)。天道信仰の中心地で、この神社には社殿が無く、天道山を遙拝する形で原初的な祭祀の形を残した神社です。境内の入口には鳥居と石積みの石塔があり、奥まったところに鏡が置かれているようです。平安時代末期以降の本地垂迹思想によって、本地は大日如来、垂迹は天照大神となったようです。

図11 木牟田天祖神社とパレルモを結ぶラインと天神多久頭魂神社

 大分県には、金鉱山が分布し、玖珠郡にも金山があったようですが、玖珠郡には硫化鉄鉱床があります。「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、この付近で作られたのかもしれません。玖珠町の町域の多くは耶馬日田英彦山国定公園に指定されています。英彦山(ひこさん)は古くから霊験あらたかな山として知られ、修験道の聖地でした。

 チャタル・ヒュユク宇佐神宮を結ぶラインは、天神多久頭魂神社、宗像大社 沖津宮の近くを通り、白山多賀神社(山王権現)を通ります(図12)。京都郡苅田町の白山多賀神社には、伊邪那岐命、伊邪那美命、豊玉姫命が祀られています。白山系の神社では祭神は通常「菊理姫」が祀られていますが、ここでは「豊玉姫命」となっています。菊理媛の原形は祖霊信仰における巫女(霊媒)ではないかと考えられていて、豊玉姫命(卑弥呼)や玉依姫命は、菊理媛(くくりひめ)と思われます。

図12 チャタル・ヒュユクと宇佐神宮を結ぶラインと天神多久頭魂神社、宗像大社 沖津宮、白山多賀神社(山王権現)

 幣立神宮とイタリアのブリンディジを結ぶラインの近くには、住吉神社(長崎県壱岐市)、対馬市の天道大神神社乙和多都美神社があります(図13)。天道大神神社付近の竜良山原始林は天道信仰の聖地とされていました。

図13 幣立神宮とブリンディジを結ぶラインと住吉神社、、乙和多都美神社、天道大神神社

 幣立神宮とシラクサを結ぶラインの近くに大己貴命、少名彦命、素盞嗚命を祀っている白石大明神(佐賀市富士町)、猿女命を祀る塞神社(長崎県壱岐市)、多久頭魂神社があります(図14)。

図14 幣立神宮とシラクサと結ぶラインと白石大明神、塞神社、多久頭魂神社(豆酘、浅藻)

 岡山県岡山市中区および北区に祇園という地区があり、かつて上道郡祇園村で、祇園や高島など付近一帯は、備前国の中枢でした(図15)。

図15 岡山市祇園地区(赤枠)

 龍ノ口山南西麓には大己貴命(大国主命)を祀る備前国総社宮(岡山市中区祇園)があり、備前国総社宮とシラクサを結ぶラインの近くには、繩久利神社・本宮(島根県安来市)、素戔嗚尊を祀る出雲國一之宮の熊野大社があります(図16)。

図16 備前国総社宮とシラクサを結ぶラインと繩久利神社・本宮、熊野大社

 中区祇園には、素盞鳴神社があり、素盞鳴命の他、稲田姫命と豊玉姫命を祀っています。また、岡山県倉敷市児島には、祇園神社があり、素戔嗚命を祀っています。

 京都市東山区にある八坂神社は、全国にある祇園社の総本社です。祇園信仰(ぎおんしんこう)は、牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰で、「祇園祭」は、平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが始まりとされています。「スサノオ」には、『日本書紀』と同じく「素戔嗚」を使っていますが、「戔」には小さいという意味があり、「素盞鳴」の「盞」には小さい盃という意味があります。東京都荒川区南千住にある素盞雄神社は、修験道の開祖役小角(えんのおづぬ 役行者)の高弟である黒珍(こくちん)の創建とされます。岡山市中区祇園にある素盞嗚神社は、岡山城の丑寅鬼門に当るので、城主池田綱政が造営したものです。

 広島県福山市にある素盞嗚神社は、『備後風土記』に見られる蘇民将来伝説の舞台で、神社の敷地は、武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれます。吉備真備が唐から帰国した後の天平6年(734年)に備後から素盞嗚命を播磨の広峯神社に勧請したとされていますが、広峯神社は、『播磨鑑』に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て」とあり、古くから農業の神として崇拝され(広峯信仰)、本殿内に薬師如来を本地仏として祀っていたとされるので、由来は異なると思われます。広峯神社の主祭神は「素戔嗚尊」ですが、南北朝期に祇園社が広峯社の領家となったためと思われます。広峯社の檀那は主に播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波などで確認できるようです。

 祇園祭は、イスラエルのジオン祭と関係があるという説があります。旧約聖書の「ノアの方舟」伝説では、大洪水の後、方舟がアララト山に漂着した日が7月17日で、ノアの家族8人が生き残ったとされています。アスファルトは、縄文時代から使われていたので、方舟を作る際にも使われたかもしれません。旧約聖書で、イスラエル民族の祖であるアブラハムがカナンの地に移る前に住んだ場所とされる地がギョベクリ・テペの南にあるハッラーン(ハラン)です。タカマガハラ(高天原)は、ターガマ州のハランに由来するともいわれています。祇園祭は、7月17日に行われる山鉾のご巡行でクライマックスを迎え、須佐之男命の御子神は八柱で、八王子神社(はちおうじじんじゃ)などで祀られています。元々は、牛頭天王の8柱の子(八王子)を祀っていて、明治の神仏分離の際、須佐之男命と天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に変えられたようです。

文献
1)小林登志子 2020 「古代メソポタミア全史」中公新書
2)岡田明子 小林登志子 2008 「シュメル神話の世界」中公新書
3)若井正一 2019 「邪馬台国吉備説からみた初期大和政権」 一粒書房
4)木村鷹太郎氏 2001 「星座とその神話」 復刻版 八幡書店
5)竹内一忠 2020 「ペテログリフが明かす超古代文明の起源」 玄武書房