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温故知新(110)物部守屋 別所大塚古墳 四天王寺 石の宝殿 ラス・ダシャン山 石上神宮 ローマ 聖徳太子 丁未の乱 乙巳の変 大化の改新 物部氏 蘇我氏 中臣氏

物部麁鹿火 物部尾輿 物部守屋 継体天皇 安閑天皇 宣化天皇 欽明天皇 敏達天皇 用明天皇 蘇我稲目 蘇我馬子 法起寺 山背大兄王 医王山長安寺 当麻皇子 法隆寺 東大寺 宇治上神社 宇摩志麻遅命 持統天皇 宗我坐宗我比古神社 蘇我倉山田石川麻呂 堅塩媛 白猪屯倉 法興寺 飛鳥寺 善徳 難波吉士日香香 草香 忍熊王 仲哀天皇 讃王 中臣勝海 廃仏毀釈

物部氏
 物部氏は、継体朝に部制が導入されて物部が設置された6世紀代の物部麁鹿火(あらかい)、物部尾輿(おこし)、物部守屋の時代に最盛期を迎えています1)。麁鹿火は大連を務め、武烈天皇の崩御後、第26代継体天皇の擁立を働きかけ、磐井の乱を平定し、その後の第27代安閑天皇・第28代宣化天皇の代にも大連を務めています。尾輿は、安閑・欽明両天皇の頃の大連で、第29代欽明天皇の時代に蘇我稲目と対立しています。尾輿の子の守屋は、第30代敏達天皇の即位に伴い大連に任じられています。587年の第31代用明天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしましたが、蘇我馬子の命により穴穂部皇子と宅部皇子は誅殺され、馬子によって物部氏の守屋宗家も滅ぼされ、これ以後、物部氏は衰退しました。

別所大塚古墳と四天王寺、「石の宝殿」
 奈良県の旧山辺郡域には、5世紀の第4四半期から7世紀中葉頃に至る物部氏の族長墓と想定される古墳群があります2)。6世紀後半の守屋宗家の滅亡と整合するように、石上古墳群の大型前方後円墳は、6世紀末葉をもって終息します2)。白石太一郎氏は、石上古墳群の3代にわたって営まれた古墳の順番は、石上大塚→ウワナリ塚→別所大塚古墳と推定しています。そうすると、別所大塚古墳が物部守屋の墓である可能性が考えられます。

 6世紀代の築造と推定される別所大塚古墳(奈良県天理市別所)とラス・ダシャン山を結ぶラインは、物部守屋が作ったとも伝わる生石神社の「石の宝殿」や四天王寺の近くを通ります(図1)。法隆寺や四天王寺は、聖徳太子(崇神天皇と推定)が創建したのではないかと思われますが、四天王寺には守屋の祠があります。

図1 別所大塚古墳とラス・ダシャン山を結ぶラインと四天王寺、石の宝殿

 物部氏の祖である宇摩志麻遅命は、第8代孝元天皇と推定されることから、物部守屋と聖徳太子(第10代崇神天皇第31代用明天皇、第32代崇峻天皇と推定)は同祖と考えられます。四天王寺に守屋祠を祀ったのは、用明天皇と推定されます。

別所大塚古墳と四天王寺、法起寺
 四天王寺と別所大塚古墳を結ぶラインは、法起寺(奈良県生駒郡斑鳩町)を通ります(図2)。法起寺は、聖徳太子ゆかりの岡本宮を太子の遺命で、その子、山背大兄王が寺にしたとされます。

図2 四天王寺と別所大塚古墳を結ぶラインと法起寺

別所大塚古墳と石上神宮、医王山長安寺、ローマ
 物部氏の総氏神である石上神宮(奈良県天理市)とローマを結ぶラインの近くに、別所大塚古墳や、用明天皇の皇子である麻呂子親王(当麻皇子)ゆかり医王山 長安寺(京都府福知山市)があります(図3、4)。このラインは、四天王寺と宇治上神社(京都府宇治市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。石上神宮と四天王寺を結ぶラインの近くには法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)があり、宇治上神社と石上神宮を結ぶラインの近くには、東大寺(奈良県奈良市雑司町)があります(図3、4)。これらのラインから、別所大塚古墳の被葬者は、物部氏で聖徳太子(用明天皇)と関係があったと推定される物部守屋と推定されます。

図3 石上神宮、四天王寺、宇治上神社を結ぶ三角形のラインと法隆寺、東大寺、石上神宮とローマを結ぶラインと医王山 長安寺
図4 図3のラインと別所大塚古墳

蘇我氏、中臣氏
 第29代欽明天皇の時代(555年)に、蘇我稲目は、吉備国に大和朝廷の直轄地である白猪屯倉(しらいのみやけ)を置いていますが、白猪屯倉の候補地である岡山県真庭市の五反廃寺跡から出土した瓦は高句麗系のものです。

 戸矢 学氏は、「蘇我」はヤマト言葉の「訓読み」ではなく「音読み」であることから、新たに作られた名としています3)。蘇我氏は、最終的には飛鳥を本拠地としましたが、出身地としては、「今来郡」だった大和国高市郡の「曽我」説などがあります。

 624年に大王家の外戚となった蘇我馬子が、推古天皇に葛城県を本居として請うていますが、直轄領のため許されませんでした。『日本書紀』には、皇極元年(642年)に、「蝦蛦、己が祖の廟(まつりや)を葛城の高宮に立てて、八佾之儛(やつらのまひ)を為(す)」と記されていますが、八佾之儛は、古代中国の雅楽の舞の一形式で、これを行うのは天子だけで、日本でも天皇の特権とされていたようです。

 奈良県橿原市曽我町(大和国高市郡曽我)には第41代持統天皇が蘇我氏滅亡をあわれんで創祀させたとされる宗我坐宗我比古神社(奈良県橿原市曽我町)があります。持統天皇の母方の祖父は、蘇我入鹿と従兄弟の蘇我倉山田石川麻呂です。

 596年に蘇我馬子が創建した法興寺(飛鳥寺)のある真神原(まかみのはら)は、雄略期に渡来人である今来漢人(いまきのあやひと)が住みついて開発された土地でした。588年に、新漢人の飛鳥衣縫樹葉(あすかきのきぬいのこの)の邸宅を壊して法興寺の造営が行なわれ、馬子の子の善徳(ぜんとこ)が寺司となっています。恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)が住み始め、当初は、馬子が所持していた弥勒石像が中金堂本尊であったという説があります。

 「蘇我」は、訓読みすれば「我蘇り(われよみがえり)」なので3)、安康天皇(倭興 蓋鹵王と推定)に討たれた高句麗系の難波吉士日香香と関係があると思われます。『日本書紀』雄略紀に、難波吉士日香香の子孫に「大草香部吉士」が賜姓されたとあるので、「蘇我」は「草香(日下)」に由来するのではないかと思われます。『古事記』によると、難波吉師部の祖は忍熊王の将軍だったので、仲哀天皇(讃王と推定)と関係があったと考えられます。上田正昭氏は、著書で「国譲りと天孫降臨の物語自体が、高句麗の降臨と国ゆずりの話をもとにして構想された」とする説を紹介しています4)。

 小野妹子と共に使者となった鞍作福利(くらつくりのふくり)の父とされる鞍作止利は、祖父が司馬達等で、425年に倭讃が宋(南朝)に送った官吏が司馬曹達なので、鞍作福利を送ったのは、蘇我馬子と思われます。『日本書紀』によると裴世清の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成(きしのおなり)が出迎え、中臣宮地烏摩呂(なかとみのみやどころのおまろ)らが接待役をつとめたとされています。中臣宮地烏摩呂は、天神系氏族で讃岐国山田郡宮所郷を発祥とする説もあり、讃王仲哀天皇)と関係があるかもしれません。東漢氏が、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当したのは、孝文帝の時代は、北魏と高句麗が同盟関係にあったためと推定されます。遣隋使の際に、東漢氏の東漢直福因(倭漢直福因)が留学生として同行しています。東漢駒は、蘇我馬子の指図で崇峻天皇(厩戸皇子と推定)を暗殺しましたが、後に馬子に殺害されています。

 587年に起こった「丁未の乱」は、仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされたとされていますが、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは排仏派ではなかったという説もあり、最近では、仏教とは無関係の政争だった可能性が指摘されています。排仏派とされる中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は、舎人迹見赤檮に殺されていますが、『聖徳太子伝暦』には、馬子の命を受けていたとあるようです。この頃から、中臣氏と蘇我氏の対立は深まっていたと考えられ、645年に中臣鎌足らが蘇我入鹿を倒した「乙巳の変」につながったと考えられます。

 乙巳の変の際、第34代舒明天皇の第一皇子で、蘇我氏の母をもつ古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は私宮へ逃げ帰り、「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」と述べたとされます。「韓人」とは、古代において朝鮮半島南部を中心として紀元前後に定住していた民族諸集団を指します。蘇我稲目との崇仏論争で物部尾輿(もののべおこし)とともに排仏を主張したとされる中臣鎌子(かまこ)が知られています。『日本書紀』には、忌部氏の祖神太玉命とともに、祭具として玉・鏡・幣(ぬさ)を掛けた聖木を用意したのが、中臣氏の祖神天児屋根命としています。中臣氏が排仏派だったとすると、幕末から明治初期に特に廃仏毀釈が行われた理由がわかります。

 中国では古くから吉凶を占うために、亀の甲や牛の肩胛骨を用いた卜占(ぼくせん)が行われていましたが、中臣氏の前身は卜部(うらべ)氏だったとする説があります5)。対馬国卜部氏は、対馬県主家の対馬県氏(対馬県直)の一族で、祖神の候補としては建比良鳥命や天児屋根命が挙げられています。常陸国の鹿島神宮の卜部は、上古より鹿島神宮に仕え、太占(ふとまに)に携わった家系で、鹿島神宮の周辺には卜部氏が居住していたといわれ、天平18年(746年)に、常陸国鹿嶋郡の卜部5戸が中臣鹿島連姓を賜姓されています。『懐風藻』(751)大津皇子伝に「時有二新羅僧行心一、解二天文卜筮一」 (易経‐繋辞上)とあるようです。

 室町時代(16世紀)に描かれた「大織冠像」には、新羅系の僧侶が創建したといわれる広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に似た半跏姿の藤原鎌足が描かれています。「王者のハプログループ」によると、皇室のY染色体ハプログループはD1系統で、中臣氏、藤原氏は、新羅・朴氏王統と同じハプログループO1b2a1aです。O1b2a1a1系統は日本人集団の25%が属しているようです。

 中大兄皇子は、D1系統と推定されるので、実際に入鹿を討ったのは「韓人」と推定される中臣鎌足だったと思われます。中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠の場で出会う話は、新羅の史書にも同じような内容の説話的文章があり、史実とはみなしがたいとされています6)。

 乙巳の変ののち、皇極天皇の弟の第36代孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治がおこなわれました。孝徳天皇は、中大兄を皇太子とし、阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にし、中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣としました。この改革によって、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされています。大化の改新で打ち出した諸政策の一つに、民意を重んじる目安箱のような鐘櫃の制(かねひつのせい、しょうきのせい)と呼ばれる施策がありました。雅子皇后の実家の小和田氏(おわだし)は、孝徳天皇の皇孫で日下部表米(但遅麻国造)の末裔が小和田を名乗ったのがルーツといわれます。

文献
1)篠川 賢 2022 「物部氏 古代氏族の起源と盛衰」 吉川弘文館  
2)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
3)戸矢 学 2021 「「新撰姓氏録」から解き明かす日本人の血脈 神々の子孫」 方丈社
4)上田正昭 2012 「私の日本古代史(上)」 新潮選書
5)古川順弘 2021 「古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎」 宝島社新書
6)松本一夫 2021 「史料で解き明かす日本史」 ベレ出版