温故知新(85)安閑天皇 河内大塚山古墳 宣化天皇 雲部車塚古墳 廣瀬大社 クサール・ヌアイラ 出雲大神宮 アルテミス神殿 網野銚子山古墳 讃王 城山城跡 天日槍 弟彦王 神宮寺山古墳 倭彦王 千歳車塚古墳
第26代継体天皇は『古事記』では、527年に逝去したとし、『日本書紀』では、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位し、即位と同日に崩御したとされています。「百済本記」は、531年頃に天皇のみならず太子皇子がともに亡くなったと伝えています。『上宮聖徳法王帝説』では、第29代欽明天皇の治世期間を41年間とし、継体天皇の亡くなった辛亥の年に即位したとしていることから、蘇我氏などの欽明天皇を擁立した勢力と、安閑・宣化両天皇を支持した勢力の対立があったとする説があります1)。『日本書紀』の記載によると安閑・宣化両天皇は、当時の倭人の習俗に逆らって妃との同墓合葬が行なわれたとされ、その後、欽明陵には血縁関係のない蘇我稲目の娘堅塩媛が合葬されています2)。
辛亥の変の年の531年に、北魏僧の善正と、豊後国日田郡(大分県日田市)の狩人藤原恒雄は、九州の霊山である英彦山を開いたとされます。善正は中国北魏の孝武帝の子で、孝武帝が殺される3年前に日本に渡来し、藤原恒雄に会い殺生戒をおしえ、藤原恒雄は出家して名を忍辱とあらためたとされます。加藤咄堂の研究によると、用明天皇二年に勅を受けて宮に入った豊国法師は、藤原恒雄(忍辱)のようです。蔵王権現は、奈良時代に役小角(役行者)によって初めて祭られたとされ、藤原惺窩の門弟の林羅山の著した『本朝神社考』には、安閑天皇の御霊は修験道の蔵王権現と同じと記されているようです。
第26代継体天皇の長子の第27代安閑天皇の真陵に比定する説もある河内大塚山古墳(大阪府羽曳野市・松原市)とメンフィス博物館を結ぶラインは、継体天皇の真の陵とする説が有力とされている今城塚古墳(大阪府高槻市)と日前神宮・國懸神宮(和歌山市)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、摩耶山天上寺(神戸市)の近くを通ります(図1)。

穴穂部皇子と宅部皇子の両親は、第29代欽明天皇と第28代宣化天皇の稚綾姫皇女と推定されますが、廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町)とクサール・ヌアイラを結ぶラインの近くに穴穂部皇子と宅部皇子の墓と推定される藤ノ木古墳(奈良県生駒郡斑鳩町)(図2)や雲部車塚古墳(兵庫県丹波篠山市)(図3)があります。このラインは、崇神天皇と関係があると推定される法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)と龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町)を結ぶライン(図2)や、開化天皇の陵墓と推定される椿井大塚山古墳と仁徳天皇陵(大仙陵古墳)を結ぶライン(図3)とほぼ直角に交差します。廣瀬大社の神紋は橘紋ですが、宣化天皇の后は橘仲皇女です。

大社とクサール・ヌアイラを結ぶラインと藤ノ木古墳

今城塚古墳とパレルモを結ぶラインは、雲部車塚古墳の近くを通ります(図4)。このラインは、摩耶山と岩戸落葉神社(京都市北区小野岩戸)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。「源氏物語」の登場人物の一人である女二の宮の別名「落葉の宮」の名前は、岩戸落葉神社のある地を閑居としたことにちなんでいるといわれています。図2、3、4のレイラインから、雲部車塚古墳の被葬者は、宣化天皇と推定されます。

椿井大塚山古墳とアルテミス神殿を結ぶラインの近くに雲部車塚古墳があり、このラインは、出雲大神宮(京都府亀岡市)と能勢妙見山 本瀧寺(大阪府豊能郡能勢町)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。このラインは、孝元天皇や倭迹迹日百襲姫命とレイラインでつながっているアルテミス神殿と、開化天皇や宣化天皇も関係付けていると推定されます。

河内大塚山古墳とスカラ・ブレイを結ぶラインは雲部車塚古墳の近くを通ります(図6)。アレクサンドリアと河内大塚山古墳を結ぶラインは、淡路国一宮 伊弉諾神宮(淡路市)と雲部車塚古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。図1や図6のラインから、河内大塚山古墳は第27代安閑天皇の陵墓と推定されます。

下記の雲部車塚古墳の資料から、雲部車塚古墳の被葬者と推定される宣化天皇は、佐紀陵山古墳の被葬者と推定される仲哀天皇とつながりのある豪族と対立していたと推定されます。
考古学的には、南側石室の被葬者は副葬品の多様な武具の存在から男性と推測される。本古墳が5世紀中頃に突如出現する大型古墳である点や、畿内大王墓に見られる長持形石棺を使用するなど大王墓と共通する画一性を持つ点から、ヤマト王権と密接な関係を持ち王権から派遣された人物の可能性が推定される。
雲部車塚古墳の築造以前の4世紀頃、丹波・丹後全域での盟主墳は「丹後三大古墳」と称される蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町)・網野銚子山古墳(京都府京丹後市)・神明山古墳(京都府京丹後市)が築造された丹後半島にあった。しかし丹後の古墳は5世紀前半に規模を2分の1程度まで縮小し、代わって篠山盆地に雲部車塚古墳が出現する。前記の網野銚子山古墳は佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と相似形をなし佐紀政権とのつながりを示すことから、この盟主墳の移動を4世紀末におけるヤマト王権中枢の変遷(佐紀政権から河内政権への移動:内乱か)と対応付ける説がある。
4世紀末-5世紀初頭の築造とされる網野銚子山古墳(京都府京丹後市)から後円部方向にラインを延長すると、天太玉命と天児屋命を祀る布杜神社(布森神社)(京都府京丹後市)や、天日槍を祀る出石神社(兵庫県豊岡市)の近くを通り、讃王(仲哀天皇と推定)が治めたとされる讃岐国の城山城(香川県坂出市)に到達します(図7、8)。このラインから、仲哀天皇や網野銚子山古墳の被葬者は、中臣氏や藤原氏の祖神である天児屋命や、渡来人(渡来神)の天日槍と関係があると推定されます。


岡山市北区にある4世紀後半-5世紀初頭の築造とされる神宮寺山古墳は、被葬者として『日本書紀』応神天皇22年条に見える「三野県」を「御野」と見て、三野県に封じられたという弟彦(吉備弟彦、三野臣祖)に比定する説があります。神宮寺山古墳とシチリア島南東部にあるシラクサを結ぶラインの近くには、孝霊天皇を祀る高岡神社(岡山県真庭市)や素戔嗚命を祀る石見神社(鳥取県日野郡日南町)があります(図9)。

和気神社(岡山県和気郡和気町)と神宮寺山古墳とを結ぶラインは、由加神社(和気町)とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図10)。和気神社や由加神社と神宮寺山古墳を結ぶラインは、応神天皇の宮があったと推定される御野(岡山市北区北方)を通ります(図11)。


神宮寺山古墳の被葬者は、孝霊天皇(須佐之男命)や和気氏と関係があると推定されることから、和気神社に祀られている、忍熊皇子の反乱を播磨・吉備の堺山で打ち破った、鐸石別命の曾孫の弟彦王の墓と推定されます。和気氏は、佐伯氏とともに、戦国時代頃までは天皇即位の際などに氏爵を受ける氏族とされていました。
丹波道主命の墓とする伝承がある黒部銚子山古墳(京都府京丹後市)は、5世紀前半の築造とされ、佐紀陵山古墳(仲哀天皇陵と推定)と相似形の網野銚子山古墳(4世紀後半)より新しいとされています。弟彦王の墓と推定される神宮寺山古墳と黒部銚子山古墳を結ぶラインは、京都府八幡市の和氣神社や大阪府和泉市の和氣神社とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図12、13)。このラインは、和泉市の和氣神社に、和気氏の弟彦王が祀られていたと推定されることと整合します。


継体天皇が選ばれる前に、丹波国桑田郡にいたという仲哀天皇の5代目の子孫である倭彦王が皇位継承候補に挙がったとされています。京都府亀岡市千歳町にある千歳車塚古墳が、倭彦王の墓という説があります。
千歳車塚古墳の復元図から千歳車塚古墳の中心線を推定すると、千歳車塚古墳の中心と仲哀天皇の陵墓と推定される佐紀陵山古墳を結ぶラインとほぼ重なります(図14)。神明山古墳と佐紀陵山古墳を結ぶラインは、千歳車塚古墳の近くを通ります(図15)。これらのラインから、千歳車塚古墳は、仲哀天皇の子孫の倭彦王の墓と推定されます。


文献
1)上田正昭 2012 「私の日本古代史(下)」 新潮選書
2)白石太一郎 2013 「古墳からみた倭国の形成と展開(日本歴史 私の最新講義)」 敬文舎
