温故知新(67)豊城入彦命 元島名将軍塚古墳 スカラ・ブレイ 彦狭島王 太田天神山古墳 スサ 鹿我別命 桜井古墳 姫塚古墳 ローマ
豊城入彦命と元島名将軍塚古墳
古代に関東地方にあった香取海に注ぐ毛野川(鬼怒川)流域には、大和から派遣された、第10代崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祖とし、出雲神を祀る豪族が毛野国(けののくに)(現在の群馬県と栃木県)を治めていましたが、この一族は祭祀や習俗などから、三輪氏や吉備氏と同族と見られています。
群馬県前橋市にある赤城神社(図1)は赤城山を神体山として祀る神社ですが、上毛野氏は、氏神として豊城入彦命を赤城神社に祀ったといわれています。下毛野氏は宇都宮市にある豊城入彦命を祀る二荒山神社を奉斎してきたとされます。二荒山神社も鹿島神宮とオリンポス山を結ぶラインの近くにあります(図1)。

『日本書紀』には紀伊の荒河戸畔の娘と崇神天皇の間に生まれたのが豊城入彦命と記し、紀伊との関係の深さが指摘されています。また、丹生大明神告門(のりと)によると、丹生都比売神一族は、崇神天皇の朝に大和より紀伊国伊都郡に移り住み、丹生直族は、紀伊国造と同等の丹生直(あたい)、丹生祝(ほふり)、丹生神奴の姓(かばね)を与えられて地位や身分を明らかにしていたようです1)。丹生氏の系図に、神奴君(垂仁天皇と推定)の兄で、「紀直(紀君)十代国造」と記された「豊布流」が、豊城入彦命と推定されます。子孫は、日前国懸両神宮神職家となったようです。第10代天皇である崇神天皇(豊耳命)の皇子が第10代の紀国造(豊布流)なので、丹生氏の系図にある初代紀国造(天道根命)は、神武天皇の皇子の神八井耳命かもしれません。
群馬県高崎市元島名町に4世紀後半に造られたと推定されている前方後方墳の元島名将軍塚古墳(写真トップ、1)があります。前方部にある島名神社(写真2、3)の祭神には、彦狭島王(ひこさしまおう)の名前がありますが、『先代旧事本紀』「国造本紀」では、崇神天皇の御世に豊城入彦命の孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時に上毛野国造に封ぜられたと記載されています。



元島名将軍塚古墳は、大国主命と少彦名命を祀る大洗磯前神社と穂高神社を結ぶラインと孝元天皇と関係があると推定される建御名方神を祀る諏訪大社 上社 本宮と大国主命、須勢理姫命、少彦名命を祀る國魂神社(いわき市)を結ぶラインの交点付近にあります(図2)。元島名将軍塚古墳の被葬者は、大国主命(孝元天皇と推定)や少彦名命(少彦男心命と推定)と関係があると推定され、崇神天皇皇子の豊城入彦命の墓と推定されることと整合します。

元島名将軍塚古墳の被葬者は、姫塚古墳の被葬者と推定される少彦男心命と近い関係にあると推定されることから、第8代孝元天皇の子と推定される第10代崇神天皇の皇子で、上毛野君や下毛野君の始祖とされる豊城入彦命と推定されます。下記のブログによると、元島名将軍塚古墳の後方部東側裾部では石田川式土器が見つかっていて、濃尾の「S字状口縁台付甕」に似ているようです。古墳の築造時期を3世紀第三四半期と推定しています。
石田川式の甕を見ると、濃尾の「S字状口縁台付甕」、通称「S字甕」とそっくりで、古墳時代の幕開けとともに濃尾からやってきた集団が利根川あるいは渡良瀬川をさかのぼって現在の群馬県域に侵入し、石田川式土器を作り、石田川式文化圏を形成したことが分かります。
崇神天皇の陵墓と推定される、3世紀末に築造されたと考えられている浦間茶臼山古墳と元島名将軍塚古墳を結ぶラインは、崇神天皇の宮(支城)があったと推定される西賀茂水垣町とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。このラインは、元島名将軍塚古墳が崇神天皇皇子の豊城入彦命の墓と推定されることと整合します。水垣町とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには、鴨川の水源地に位置し、天長6年(829年)空海によって創建されたと伝わる志明院(京都市北区)があります(図3)。志明院に祀られている本尊不動明王は空海の直作といわれ、日本最古の不動明王像といわれています。

彦狭島王と太田天神山古墳
群馬県太田市内ケ島町にある太田天神山古墳は、5世紀前半築造と推定される関東地方最大の前方後円墳です。ヤマト王権のもとに上毛野地域全体に及ぶ支配を確立して築造した古墳と位置づけられています。元島名将軍塚古墳と豊城入彦命を祀る赤城神社(群馬県前橋市富士見町)を結ぶラインは、太田天神山古墳とスサを結ぶラインとほぼ直角に交差し、太田天神山古墳とスサを結ぶラインの近くには、豊城入彦命が創建したと伝わる小泉稲荷神社(群馬県伊勢崎市)があります(図4)。これらのことから、元島名将軍塚古墳は豊城入彦命の墓で、太田天神山古墳は、豊城入彦命の孫で初代上毛野国造の、景行天皇に仕えた彦狭島王の墓と推定されます。

鹿我別命と桜井古墳
桜井古墳(福島県南相馬市)と元島名将軍塚古墳を結ぶラインは、姫塚古墳とローマを結ぶラインとほぼ直角に交差し、ヤマトタケルノミコトを祀る古峯神社(栃木県鹿沼市)の近くを通ります(図5)。桜井古墳は、古墳時代前期の築造(4世紀後半から5世紀初頭)と推定され、被葬者は、新田川流域を治めていた浮田国造の初祖・鹿我別命と考えられています。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務天皇(倭建命と推定)の時代に、崇神天皇の五世孫の賀我別王を国造に定めたとされます。姫塚古墳とローマを結ぶラインの近くには、阿波山(茨城県東茨城郡城里町)、那須 乃木神社(栃木県那須塩原市)、塩ノ倉峠(福島県大沼郡金山町)があります(図5)。また、元島名将軍塚古墳と姫塚古墳を結ぶラインの近くには、伊勢崎神社(群馬県伊勢崎市)や最勝寺(茨城県筑西市)があります(図5)。

上毛野宿奈麻呂は、729年に長屋王の変に連座して流罪になり、750年には渡来系氏族の田辺氏が上毛野姓を名乗っています2)。田辺史氏は、百済系の渡来人で、昆支(雄略天皇と推定)が渡来した際に知識集団として一緒に渡来したのではないかともいわれています。
文献
1)丹生廣良 1977 「丹生神社と丹生氏の研究」 きのくに古代史研究会
2)瀧音能之(監修) 2023 「TJMOOK 日本の古代豪族 発掘・研究最前線」 宝島社
