温故知新(74)始皇帝 夏姫(夏太后) 羌族 関聖帝君(関羽) 孝霊天皇(須佐之男命) スサ 二里頭遺跡(夏王朝) モヘンジョダロ 高麗王 阿蘇神社 豊玉姫神社 邪馬嘉国
始皇帝と聖ミカエルの山、武当山、スサ、馬家窯遺跡
始皇帝(紀元前259年- 紀元前210年)は、秦王に即位した後、勢力を拡大し、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たしました。呂不韋や、燕の昭王や秦始皇帝は、道教の理論的中核となる神仙信仰を興隆させました。秦の始皇帝(嬴政)は呂不韋の実子で、呂不韋には羌族(チャン族)の血が流れているともいわれています。
豊玉姫命と関係があると推定される武当山と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くに秦始皇帝陵があります(図1)。

スサと秦始皇帝陵を結ぶラインの近くに馬家窯遺跡(紀元前3,100年頃- 紀元前2,700年頃)があります(図2)。兵馬俑坑で多くの青銅製兵器が発掘されていますが1)、高度な冶金術は、馬家窯遺跡から伝わったと思われます。

夏姫(夏太后)と二里頭遺跡(夏王朝)
秦始皇帝の祖母夏姫(夏太后)の陵墓は、2006年に発見された陝西省西安市長安区南郊にある神禾塬大墓(秦始皇祖母陵)と推定されています。二里頭遺跡とロータル遺跡にあるロータル博物館を結ぶラインは、神禾塬(Shenheyuan)を通ることから、二里頭遺跡(紀元前1,800年- 紀元前1,500年頃)は夏王朝の都で、夏姫(夏太后)は夏王朝と関係があると思われます(図3)。夏王朝の人々はもともと中国古代の西部にいた羌族といわれています。

関羽とスサ、夏王朝、モヘンジョダロ
三国志の英雄、中国後漢末期の武将の関羽(?ー220年)は、弱い立場の人々の味方で、関聖帝君として崇拝されるようになりましたが、古代中国で広く使われた「デジタル計算機」に属する算盤の発明者でもあったようです。関聖帝君は西暦160年、河東郡解良県常平村(現・山西省解県)で生まれたといわれています。関羽の故郷の解州(県)にある解州関帝廟とタイのチョンブリー県シーラーチャー郡(Chon Buri, Si Racha District, Tambon Si Racha, Sukhumvit Rd)にある関聖帝君(関帝廟)を結ぶラインは、台湾の高雄関帝廟とスサ(Susa)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。「シーラーチャー」はサンスクリット語の「シュリー・ラージャー (Śrīrājā) 」のタイ語化したもので「吉祥なる王」を意味します。関羽も羌族だったのかもしれません。

スサ(Susa)と関聖帝君(関帝廟)(タイ)を結ぶラインの近くにインダス文明最大級の都市遺跡のモヘンジョダロ(紀元前2,500年- 紀元前1,800年)
があります(図5)。もしかすると、関聖帝君(関羽)は、孝霊天皇(須佐之男命)と同様に「スサの王」と同一視されたのかもしれません。

解州関帝廟は、二里頭遺跡と馬家窯遺跡を結ぶラインの近くにあり、馬家窯遺跡と三星堆遺跡を結ぶラインは、二里頭遺跡と青銅器時代の古代都市、モヘンジョダロを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。関羽は、孝元天皇(大国主命)と同様に二里頭遺跡(夏王朝)と関係があったと思われます。

孝霊天皇(須佐之男命)と夏王朝、モヘンジョダロ
孝霊天皇(須佐之男命)も関聖帝君(関羽)と同様にモヘンジョダロとつながりがあると推定されます。モヘンジョダロと二里頭遺跡を結ぶラインの延長線付近には、孝霊天皇の時代の創建と伝わる阿蘇神社(熊本県阿蘇市)があります(図7)。モヘンジョダロから見つかった神官王像は、三つ葉模様のマントを着ていますが、メソポタミアのウル出土の円筒形印章にも「三つ葉」の図柄があるようです。

阿蘇神社の宮司職を世襲する阿蘇氏は、中世には武士化して肥後国を代表する豪族になりました。山崎菅原神社(阿蘇市)は、1070年に当地に来た初代の菊池肥後守則隆(藤原氏)が菅原道真を祀った神社です。図7のラインの近くには、山崎菅原神社(妙見宮)(熊本県菊池市)や弘法大師の創祀になる岩屋権現(長崎県東彼杵郡川棚町)があり、先住の菊池氏は須佐之男命と関係があったと推定されます(図8)。このラインから、孝霊天皇(須佐之男命)は、夏王朝やモヘンジョダロとも関係があると推定されます。

高麗王と済州島
また、図7のラインは、韓国の済州島(チェジュ島)の缸坡頭里(ハンパドゥリ)抗蒙遺跡の近くを通ります(図8)。ハンパドゥリ抗蒙遺跡地は、蒙古が侵入した時、国を守るため立ち上がった三別抄(高宋(第23代高麗王 在位:1213年 - 1259年)の時代に作られた軍部隊の名称)が最後まで抗戦した所です。高麗の人々は王室を龍の一族と信じていました。高麗王の翼善冠は、明の皇帝や王の被り物に由来するもので、耳のように見える飾りは角のようです。
倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命、卑弥呼)と夏王朝
二里頭遺跡と阿蘇神社を結ぶラインは、豊玉姫神社(佐賀県嬉野市)や菊池神社(熊本県菊池市)の近くを通ります(図9)。二里頭遺跡が夏王朝の都だったとすると、龍神と推定される豊玉姫命も夏王朝と関係があると推定され、『広志』によると伊都国(糸島市付近と推定)の南にあったとされる「邪馬嘉国(やまかこく)」の「嘉」は、「夏王朝」の「夏」と関係があるかもしれません。図9のラインは、山鹿市(やまがし)を通るので、ブログ(邪馬台国と邪馬国と八女 以久遠氏)にあるように、「山鹿市」には「山鹿国(やまかこく)」があり「邪馬嘉国」だったのかもしれません。

二里頭遺跡と熊野権現 熊野神社(大分県豊後高田市)を結ぶラインは、天照皇大神、大幡主大神(櫛田宮)、須佐之男命を祀る櫛田神社(福岡市博多区上川端町)、射手引神社(嘉麻市)、長谷寺(大分県中津市)、鷹栖観音堂(宇佐市)、大元神社(宇佐神宮奥宮)(宇佐市御許山)の近くを通ります(図10、11)。大元神社には、三柱の比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)が御許山に降臨されたとする伝承があるので、夏王朝と須佐之男命(孝霊天皇)や豊玉姫命(多岐都比売命、倭迹迹日百襲姫命)が関係があると推定されることと整合します。


中国の春秋戦国時代(紀元前700年~前221年)には、各地の豪族の均衡を保つために周王朝を高位の存在としてまつりあげていた時期があったといわれます2)。伝説上の周王朝の姫姓の祖先は、中国の農業の神として信仰されている后稷(こうしょく)で、一族は夏王朝に仕えていました。夏王朝は、紀元前1600年頃に殷に滅ぼされていますが、神武天皇の推定崩御年は65年です。中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した燕国(紀元前11世紀頃 - 紀元前222年)は、夏王朝とつながりがあり、古くから日本とも関係がありました。三種の神器の一つである「八咫鏡」は、周尺で作られていると推定され、また、倭国は周の「大夫」という官制を用いていました(周王朝から邪馬壹国そして現代へ)。第7代孝霊天皇や皇女の倭迹迹日百襲姫命が、夏王朝や周王朝と関係があったとすると、卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命と推定)の共立が、邪馬台国(やまとのくに)の時代の倭国各地の王の均衡を保つ役割を果たしたことが理解できます。
文献
1)志村史夫 2023 「古代世界の超技術」 改訂新版 講談社
2)NHKスペシャル取材班 2025 「新・古代史」 NHK出版
