本能寺の変1582 重要 ◎第58話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第58話②
9光秀という男 3土岐氏 4/4
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*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
信長は、故事に明るい。
信長は、勉強家である。
義満のことを、良く知っていた。
義教のことも、また然り。
これらに、倣った節がある。
信長の富士遊覧。
義満から二百年後。
天正十年1582、信長の富士遊覧。
「歴史は、繰り返す」、のである。
義満は、厳島神社を参詣した。
康応元年1389 (元中六年) 。
これにも、理由があった。
信長と厳島神社。
信長は、甲斐遠征の時、武田氏を滅亡させた後、富士を遊覧しつつ、
駿河・遠江・三河を経由して安土に帰陣した。
信長は、平氏。
中国大遠征の時には、おそらく、毛利氏を滅ぼした後、厳島神社を参詣
するつもりだったのではないか・・・・・。
中国出陣の時、信長は、淡路島に本陣を置くつもりだった。
以下は、天正十年1582、信長が、三男信孝に、四国への出陣を命じた
時の書状である。
この中に、「信長、淡州に至って出馬の刻」とある。
おそらく、信長は、織田水軍を率いて、淡路島から、瀬戸内を、西へ向か
うつもりだったのだろう。
その先にあるのが、安芸の宮島 厳島神社である 。
歴史に残ったであろう、一大デモンストレーション。
華々しい大船団の様子が目に見えるようである。
今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
一、讃岐国の儀、
一円、其方に申し付くべき事、
一、阿波国の儀、
一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
一、其外両国の儀、
信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事
右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、
国人等の忠否を相糺(ただ)し、
立置くべき輩は立置き、追却すべき族は追却し、
政道以下堅く申し付くべし、
万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
忠節たるべく候、
能々(よくよく)、其意を成すべく候也
天正十年五月七日 ( 朱 印 )
三七郎殿
【 重史 012 】(「寺尾菊子氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」)
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