本能寺の変1582 重要 ◎第58話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第58話①
9光秀という男 3土岐氏 4/4
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*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
第三代将軍足利義満の時代。
在職期間 1369~1395年
生没年 1358~1408年 享年51
【参照】◎第56話②
義満の略歴。
1358 正平十三年/延文三年 義詮の子として生まれる。
1368 正平二十三年/応安元年 征夷大将軍に就任。
1378 天授四年/永和四年 花の御所に移る。
1379 天授五年/康暦元年 康暦の政変(管領細川頼之を罷免)。
1388 元中五年/嘉慶二年 富士遊覧。
1389 元中六年/康応元年 厳島神社参詣。
〃 〃 〃 土岐康行の乱 (1389~90) 。
1391 元中八年/明徳二年 明徳の乱(山名氏を討伐)。
1392 元中九年/明徳三年 南北朝合一。
1394 応永元年 将軍職を嫡男義持に譲る。
1395 応永二年 九州探題今川貞世を罷免。
1399 応永六年 応永の乱(大内義弘を討伐)。
1401 応永八年 日明国交の樹立(日本国王)。
1404 応永十一年 勘合貿易が始まる(朝貢貿易)。
1408 応永十五年 急病により死去(享年五十一)。
義満は、将軍専制政治を目指した。
すなわち、将軍権力の強化。
しかし、そこには、解決せねばならぬ三つの大きな問題があった。
一、鎌倉公方の事。
一、有力守護の事。
一、南朝勢力の事。
義満は、富士を遊覧した。
嘉慶二年1388 (元中五年) 。
単なる物見遊山にあらず。
これには、理由があった。
鎌倉公方、第二代足利氏満 (1359~1398) を牽制するため、である。
第六代将軍足利義教も、富士を遊覧している。
義教 (1394~1441) は、義満の子である。
兄は、第四代将軍足利義持 (1386~1428) 。
永享四年1432。
義教もまた、富士遊覧を行っている。
時の鎌倉公方は、第四代足利持氏 (1398~1439) 。
同様の理由から、である。
義教は、信長と比されることが多い。
性格・施策・行動等、似ていると思わせる部分が幾つかある。
一、義教は、専制政治を行った。
一、永享四年1432、富士遊覧。
一、永享六年1434~七年35。
義教は、比叡山を攻撃し、これを屈服させた。
根本中堂、自焼炎上。
一、「万人恐怖」
義教は、苛烈な性格の持主だった。
山門(比叡山)の事、是非の沙汰すべからざるの由、仰せらる、
而(しかれど)も、
煎物(せんじもの)商人(茶売り)、路頭に於いて、此の事申す間、
召し捕る、
忽(たちま)ち、首を刎ねらると云々、
万人恐怖、言う莫(なか)れ、言う莫れ、
【 重史 011 】(「看聞日記」*永享七年二月八日条)
*「看聞日記」は、この時代を生きた伏見宮貞成親王の日記で
ある。
親王は、崇光天皇の孫。
子が、後花園天皇。
すなわち、同日記は、天皇の父によって書かれた記録である。
末尾の一行。
義教への恐怖感が伝わって来る。
一、嘉吉元年1441。
義教は、赤松邸に「御成」したところを同氏に襲われ、斬殺された。
実に、呆気ない最期であった。
享年、48。
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