本能寺の変1582 その一因 一、土佐の長宗我部 第147話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、土佐の長宗我部 第147話①
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その一因 一、土佐の長宗我部 第147話①
【参照】◎第147話①
【参照】一、土佐の長宗我部
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小50①~⑥
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小79~80
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小82①~②
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小132①~③
【参照】その一因 一、土佐の長宗我部 小146①~③
元親は、土佐を平定した。
これが、天正三年1575の事。
元親は、さらに、四国統一を目指した。
最大の敵は、阿波の三好氏である。
三好氏は、讃岐をも、その勢力下においていた。
同じ頃、信長は、本願寺攻めに苦戦していた。
そもそも、信長と本願寺の戦いは、元亀元年1570に始まった。
これが、世に言う、「石山合戦」である。
信長は、長期戦を覚悟した。
阿波の三好氏は、本願寺に与していた。
本願寺の攻勢がピークに達していた。
以下、その一連の流れの中で、特に、天正四年~六年の三年間が最も
攻勢の激化した時期である。
天正元年1573 朝倉氏、滅亡 。
〃 〃 浅井氏、滅亡。
同 二年1574 長島一向一揆 ( 殲滅 ) 。
同 三年1575 武田勝頼の南下 ( 長篠の戦 ) 。
〃 〃 越前一向一揆 ( 殲滅 ) 。
同 四年1576 波多野秀治の裏切り。
〃 〃 塙直正、討死 ( 天王寺の合戦 ) 。
〃 〃 毛利の東上 ( 第一次木津川沖の海戦 ) 。
同 五年1577 紀州雑賀征伐。
〃 〃 上杉謙信の南下 ( 手取川の戦 ) 。
〃 〃 松永久秀の謀叛。
同 六年1578 毛利の東上 ( 第二次木津川沖海戦 ) 。
〃 〃 別所長治の離反。
〃 〃 荒木村重の謀叛。
阿波の三好氏は、共通の敵。
取るべき戦略は、遠交近攻策。
「一向一揆」
本願寺の力は、あまりにも強大だった。
信長にとっても、好都合。
否やは、ない。
元親は、そう判断した。
これが的中。
元親は、斎藤利三を通じで光秀に近づいた。
斎藤利三は、光秀の家臣。
おそらく、そういうことだろう。
元親は、信長と誼を通じた。
天正六年1578のこと。
その橋渡しをしたのが、光秀である。
光秀は、仲介者。
信長に、元親を取り次いだ。
以後、光秀が元親の取次となる。
このことが追い風となった。
光秀は、出世街道を驀進する。
暫し、良好な関係が続く。
だが、その二年後、・・・・・。
元親は、四国制覇へ向かって突き進んだ。
元親は、阿波にみならず、讃岐・伊予にも手を伸ばした。
土佐は、これら三ヶ国に隣接している。
快進撃がつづく。
そして、確信した。
遠からず、「成る」、と。
本願寺は、次第に力を失っていく。
天正六年1578、三月。
上杉謙信、死す。
同年、十一月。
第二次木津川沖の海戦。
この戦いで、頼みとする毛利の水軍が敗北。
これ以後、本願寺は、次第に力を失っていく。
元親は、信長の本願寺攻めが長引くものと考えていた。
何しろ、我が国、最大・最強の宗教勢力。
「あの本願寺」、である。
「そう、易々と」、屈服するわけがないのである。
元親は、信長の本願寺攻めが長引くものと考えていた。
したがって、時間は十分ある。
「その間に、成すべし」
そう、考えていたものと思う。
光秀、丹波を平定。
これが、天正七年1579。
光秀、絶好調の時期。
全て順調、うまく行くかに思えた・・・・・。
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