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線を引き直す変態──希望とは、世界には無限の「更新余白」があると信じられることである

はじめに──私たちは、いつ絶望するのか

人は、制約があるから絶望するのではない。

「この制約は、もう変わらない」と思った瞬間に絶望する。

「自分はこういう人間だから。」
「この会社はこういう会社だから。」
「この業界はこういうものだから。」
「社会とはこういうものだから。」

そんな言葉を耳にするたびに、私は違和感を覚える。

それらは自然法則ではない。
誰かが、ある時代に引いた一本の線である。

もちろん、その線には意味がある。
先人たちが試行錯誤を重ね、無数の失敗の果てに見出した、美しい線だ。

私も、その線をなぞる楽しさを知っている。
だからこそ、まずは学べばいい。
なぞればいい。

しかし、人類はそこで終わらなかった。
その線を少しずつ引き直し続けてきた。

文明とは、その積み重ねなのである。



■人生は、線をなぞることではなく、線を引き直すこと

世界的人類学者のティム・インゴルドは書籍『Lines』の中で、人間を「線を生きる存在」として描いた。

人生とは、点から点へ移動することではない。

歩き、迷い、出会い、関係を結びながら、一筆書きのように線を描いていく営みである。

私は、この考え方に強く共感している。

しかし、そこにもう一歩だけ付け加えたい。人は線を描くだけではない。
線そのものを引き直す存在でもある。

人生という一本の線を歩きながら、「ここまでしか行けない」と思われていた境界線を書き換えていく。

人類の歴史とは、その繰り返しだったのではないだろうか。


■子どもは遊びながら世界のラインを学ぶ

子どもは遊びの天才だ。

木に登る。
虫を触る。
高いところから飛び降りる。
水たまりに飛び込む。

彼らは遊んでいるように見える。

しかし実際には、世界の境界条件を学習している。

「ここまでは大丈夫。」
「思ったより平気だった。」
「やっぱり痛かった。」

遊びとは、世界のラインを身体で更新し続ける営みなのである。

ところが大人になると、その更新は止まる。

怒られる。
失敗する。
評価される。
合理的ではない。

そうして、自分で一本の線を引く。

「ここまでにしておこう」
「もう大人なんだから」
「自分の行動に責任を持たないと」

しかし、その線は本当に世界の限界なのだろうか。

それとも、自分が勝手に引いてしまった線なのだろうか。


■DIYとは、身体で世界を確かめることである

私はDIYという言葉をよく使う。

DIYとは、自分で何でもやることではない。
頭で考えた限界ではなく、身体で世界を確かめることである。

「部署は越境できない。」
「会社員は起業できない。」
「こんな肩書きは作れない。」
「社内新規事業なんて無理だ。」

そう思っていたラインを、小さく越えてみる。

これがDIYの「でろ、いけ、やれ」である。

一次情報を、自分の身体で取りに行く。

すると、多くの場合、

「あれ? 思ったほど大したことなかった。」

となる。

もちろん、「やっぱり超えちゃダメだった」ということもある。
しかし、それもまた学習である。

DIYとは、安全にラインを更新する身体知なのである。


■バランスではなく、復元力を育てる

人生とは、バランスを取り続けることなのだろうか。

私はそうは思わない。
バランスボールの上で揺れ続けることが人生ではない。

本当に学んでいるのは、
「どこまで崩しても戻ってこられるか」
というラインである。

子どもは遊びながら、それを身体で覚える。

転ぶ。
笑う。
また挑戦する。

だから怖くなくなる。

学んでいるのは、バランスではない。

復元力である。

これがレジリエンスの本質だと思う。


■左手、右手、そして両手

この復元力はどの様な要素で構成されるのだろうか。

私は以前から、「右手と左手」という比喩で様々なことを説明してきた。

左手とは、

愛されること。
存在承認。
安心。
居場所。

右手とは、

役立つこと。
能力。
挑戦。
価値創造。

左手だけでは、「この居場所を失ったらどうしよう」という不安から逃れられない。

右手だけでは、「能力が陳腐化したら終わりだ」という恐怖から自由になれない。

だから人には両手が必要になる。

左手で自分を支え、
右手で世界に働きかける。

安心を得ては挑戦し、
挑戦してはまた帰ってくる。

この両手を絶えず動かしながら、自らの境界線を少しずつ更新し続ける。

私は、その変容(メタモルフォーゼ)そのものを楽しめる人を、「変態」と呼びたい。


■秘密基地とは、安全に更新できる場所である

両手はどのようにして発達するのだろうか。

子どもの頃、誰もが秘密基地をつくった。

実は大人になってからも、サークルや勉強会、スナックや有志活動など、有形無形の「秘密基地」を私たちは持っている。

そこは、安心して失敗できる場所だ。

しかし、ここでいう秘密基地とは、単なる安全地帯ではない。
安全に更新できる場所である。

安全に崩れられる場所。
安全にラインを越えられる場所。

だから、「来てくれてありがとう」が成立する。

成果ではなく、存在そのものが歓迎される。

だから遊べる。
だから試せる。
だから更新できる。

世の中は、ファーストペンギンという「勇者」を称賛する。
しかし、本当のファーストペンギンは勇者だったとは限らない。

群れから押し出されたのかもしれない。
空腹だったのかもしれない。
好奇心だったのかもしれない。

そして、その多くは歴史に名を残さない。

たまたま安全な航路を見つけ、生き残ったからこそ、後から「勇者だった」という物語になっただけなのかもしれない。

だから私は、ファーストペンギンを増やしたいのではない。

勇者を必要としない社会をつくりたい。

シャチのいる大海原へ飛び込む前に、
仲間と一緒に泳ぎ方を試せる入り江。

少しだけラインを越えてみて、
「思ったより大丈夫だったね。」
と笑い合える場所。

それが秘密基地なのである。


■変態とは、ライン更新そのものを報酬として生きる人

私は「史上初」という言葉が好きだ。

世界史に残るような話でなくてもいい。
バカバカしいことでも構わない。

会社史上初。
自分史上初。

なにかしら、昨日まで存在しなかった一本の線が引かれた。

その瞬間が、たまらなく嬉しい。

そこで気づいた。

私は成果に報酬を感じているのではない。
評価に報酬を感じているのでもない。
ラインが更新されたこと自体に快感を覚えているのである。

これが、私にとっての変態性なのだと思う。

変態とは、ライン更新そのものを報酬として生きる人である。

それは、他の人が見向きもしない場所に一本の線を書き加えることかもしれない。

あるいは、先人が描いた美しい線を敬意をもって受け継ぎながら、誰も思いつかなかった曲線へと描き直すことかもしれない。

称賛されればもちろん嬉しい。

しかし、それがなくても、一人でニヤニヤできる。

だから変態は幸せなのである。


■疎外から、更新へ──変態経済学

こうした変態的な営みは、なぜ現代社会、とりわけ職場から失われつつあるのだろうか。

かのカール・マルクスは、分業によって人は労働から疎外されると論じた。

自分の仕事が誰の役に立っているのか分からない。
成果は数字になり、喜びは切り分けられる。

だから人は、一次産業などの手触り感の充実した仕事、
場合によって複業や起業、社内新規事業に惹かれる。
それは、役立ちの感触を取り戻したいからである。

しかし私は、そのさらに先に、
更新する喜びがあるのではないかと思っている。

従来の経済学は、成果や利潤を最大化する仕組みを考えてきた。

言い換えれば、既に引かれた線を、いかに効率よくなぞるかを考えてきたとも言える。

しかし、イノベーションはそこからは生まれない。
世界は、誰かが一本の線を引き直した瞬間に変わる。

私は、この循環を「変態経済学」と名付けた。

変態経済学とは、「楽しみ」を基軸通貨とする経済である。

楽しみは、誰かの課題解決へと変態する。
挑戦への勇気へと変態する。
商品やサービスへと変態する。
仲間との信頼へと変態する。
ときには貨幣へと変態する。

しかし、貨幣はその一つの姿に過ぎない。

楽しみは、わらしべ長者のように思いもよらない価値へと姿を変えながら、新たな楽しみを生み続ける。

その更新そのものに価値を感じる人。
その更新を支援する仲間。
その更新を試せる秘密基地。

その循環こそが、私の描きたい変態経済なのである。


■希望とは、「更新余白」への信頼である

変態経済学とは、旧来の経済学を「変態」させる希望の経済学でもある。

希望とは、未来が保証されていることではない。
出口が見えていることでもない。

世界には、まだ更新できる余白がある。

組織にも。
仕事にも。
家族にも。
自分にも。
社会にも。

その余白を信じられること。

私は、その力を希望リテラシーと呼んでいる

希望とは、楽観主義ではない。

世界は更新可能であるという、根源的な信頼なのである。


おわりに──人類は、線を引き直してきた

誰かが引いた線は、美しい。

だから私は、その線を大切にしたい。

しかし、その線は完成形ではない。

人類とは、その線を少しずつ引き直しながら生き延びてきた存在だからである。

ホモ・サピエンスの拡散も。
大航海時代も。
科学も。
芸術も。
インターネットも。

すべては、誰かが一本の線を引き直した結果である。

だから私は思う。

希望とは、「正しい線」を信じることではない。

この世界には、まだ引き直せる線があると信じられること。

誰かが引いた線を尊敬しながら、
自分でも一本、線を引いてみる。

その一本は、明日には誰かの道になるかもしれない。

そして変態とは、その一本を、心から楽しそうに引き直してしまう人なのである。

最後までお読み頂きありがとうございました☆

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