競争戦略としての変態経済学──最強の競争優位を築く「クリティカル・コア」は、座敷わらしが運び込む
はじめに──「なぜ、そんなことをするのか?」
「なぜ、そんなことをやっているんですか?」新しいことを始めると、たいてい聞かれる質問です。
事業なら市場性を問われる。
組織なら目的を問われる。
個人ならキャリア上の意味を問われる。
「誰のためなのか?」
「どんな価値があるのか?」
「成功すると何が得られるのか?」
「ROIはどれくらいなのか?」
もちろん、それらは大切です。
でも、ときどき、こうした問いにうまく答えられない人がいます。
「いや……なんとなく面白そうで」
「なぜか気になるんですよね」
「誰に頼まれたわけでもないんですけど」
「意味があるかは分からないけど、やってみたい」
私は、こういう人を「変態」と呼んでいます。
ここでいう変態とは、単に変わった人という意味ではありません。合理的な動機では説明しきれない偏愛や好奇心に従って、自分の可能性を広げていく人。
そして最近、この「変態」という存在が、競争戦略の観点からも極めて重要なのではないかと思うようになりました。
その鍵になるのが、日本の経営学者・楠木建さんのベストセラー『ストーリーとしての競争戦略』で示された「クリティカル・コア」という考え方です。
■クリティカル・コアという「部分的な非合理」
楠木さんの議論では、強い競争戦略は、単に個々の施策が合理的であることによって生まれるわけではありません。
むしろ、一つひとつを切り離して見ると「なぜ、そんなことをするのか」と思えるような要素が、戦略全体のストーリーの中で重要な役割を果たしている。
それが「クリティカル・コア」です。
クリティカル・コアは、他のさまざまな構成要素と多くのつながりを持ちながら、単独で見ると一見して非合理に見えるという特徴を持ちます。
つまり、部分的には非合理。
しかし、全体としては合理的。
この「部分の非合理を全体の合理性へ転化する」という構造が、模倣困難な競争優位を生み出す。
なぜなら、競合から見ると、「そこまでやる必要ある?」と思えるからです。
そして、合理的な企業ほど、それを真似しない。
「合理的に考えれば、そんなことはすべきでない」と判断する。
結果として、その非合理な要素が、強力な模倣障壁になる。
これは非常に美しい戦略論です。
ただ、ここには一つ、とても難しい問題があります。
■「非合理を戦略に組み込む」と、非合理ではなくなる
では、こう考えればいいのでしょうか。
「競争優位をつくるために、あえて非合理なことを戦略に組み込もう」
たとえば、
「今年はクリティカル・コア候補として、非合理な施策を三つつくろう」
……となった瞬間、ものすごく合理的になってしまうんです(笑)。
つまり、
クリティカル・コアそのものを、意図的に設計することには限界がある。
むしろ、クリティカル・コアを後から振り返ってみると、
「そうせざるを得なかった」
「他に方法がなかった」
「たまたまそうなった」
「なぜか、それをやってしまった」
というものが、かなり多い。
大げさに言えば、強い企業の戦略をたどっていくと、どこかに、
「創業者の謎のこだわり」のようなものが埋め込まれていることがあります。
例えば、スターバックスの直営店方式や、店舗を単なる商品提供の場ではなく「サードプレイス」として捉える発想も、当時の業界の合理性から見れば、必ずしも当然の選択ではありませんでした。
1983年、当時スターバックスのマーケティング責任者だったハワード・シュルツは、イタリア・ミラノのバール文化に強い衝撃を受けます。
そこから「コーヒーを売る店」ではなく、人が集まり、会話し、時間を過ごす場所としてのスターバックスという構想が育っていきました。
もちろん、後から見れば、それは卓越した競争戦略の一部です。
しかし、その起点にあったのは、「この文化を、自分の会社でもやりたい」という、ある意味で極めて個人的な偏愛でした。
つまり、クリティカル・コアの形成には、偶然や逆境、制約、偏愛といった「受動的な非合理」が入り込んでいるように見えるのです。
■クリティカル・コアは「事故」から生まれる
資源がなかった。
競合と同じことができなかった。
市場環境が変わった。
顧客から想定外の要求を受けた。
人が足りなかった。
技術的な制約があった。
あるいは、経営者がどうしても譲れない何かがあった。
そうした「普通なら合理的に選ばない状況」が、別の道を選ばせる。
そして、その道を進んでいるうちに、
別の活動とつながり、
別の顧客と出会い、
別の技術と出会い、
別の人と出会い、
いつの間にか独特の戦略ストーリーができている。
後から見ると、「これが、私たちの競争優位の核だった」と分かる。
つまり、クリティカル・コアは、しばしば「意図した戦略」ではなく、「生き延びた結果」として発見される。
ここに、競争戦略の面白い逆説があります。
■では、偶然をどう戦略にするのか?
ここで、問題を一段上げてみます。
偶然そのものを、意図的につくることはできません。
「明日、偶然を起こしてください」と言っても無理です。
しかし、偶然が起こる条件をつくることはできる。
個人で考えると分かりやすい。
「偶然の出会い」は計画できません。
でも、
普段会わない人と会う。
行ったことのない場所に行く。
本業とは関係のないことを学ぶ。
予定を詰め込みすぎない。
「なんとなく面白そう」という理由だけでイベントに参加する。
そうすると、偶然が起こる確率は上がる。
つまり、
偶然そのものは計画できない。
しかし、偶然が発生する条件は計画できる。
この発想を組織に持ち込むと、面白いことが起こります。
組織における「偶然」の一つが、
変態
なのです。
■変態は、組織における「動機の不在」である
変態の特徴に、「動機の不在」があります。
ただし、正確には、動機がないわけではありません。
本人にも、まだ言語化できない。
これが変態の「動機の不在」です。
「なぜか気になる」
「なぜかやりたい」
「どうしても放っておけない」
「誰に頼まれたわけでもないのに、やってしまう」
これは、既存の合理性から見るとノイズです。
だから、組織では簡単に消されます。
「何の役に立つの?」
「本業に集中してください」
「誰のニーズがあるんですか?」
「KPIは何ですか?」
こうして、まだ意味になっていないものが、意味になる前に消えてしまう。でも、その「意味不明なもの」が、未来のクリティカル・コアになるかもしれない。
だから組織が戦略的にできることは、変態を直接つくることではありません。
まず、
「殺さない」
ことです。
■「変態を生かしておく」という戦略
変態は、意外と生命力があります。
手厚く保護しなくても、
殺さなければ勝手に生きている。(笑)
だから必要なのは、必ずしも「育成」ではありません。
まずは、「意味が分からない」という理由だけで排除しない。
「実害がないなら、もう少しやってみれば?」と言える。
もちろん、何をやってもいいわけではありません。
本業を破壊しない。
他者に過度な損害を与えない。
最低限のルールは守る。
その範囲内で、意味の分からない活動が生き残れる。
これは、一見すると消極的なマネジメントです。
しかし、本質的には非常に能動的な戦略です。
なぜなら、意味がまだ存在していないものを、意味が生まれるまで保持する能力だからです。
これは、未来を予測する能力とは少し違います。
未来の競争優位が何になるのかは、まだ分からない。
だからこそ、未来の競争優位になるかもしれないものを、意味が生まれるまで生存させる。その能力が重要になるのです。
■出島は、なぜ「公家屋敷」になるのか
この観点から見ると、イノベーションのためにつくられた「出島」にも、少し違った景色が見えてきます。
出島は、本体ではできないことを自由に試すための場所です。
ところが、しばらくすると、
予算がつく
組織図に入る
会議体ができる
KPIが設定される
成果報告が求められる
成功モデルが定義される
ということが起こる。
そして、小さな出島は、いつの間にか公家屋敷になる。自由を守るためにつくった場所が、自由を管理する場所になる。
もう一つの罠は、「島流し」です。
「自由にやっていいから、本体は口を出さないよ」
一見すると理想的です。
でも、本体との環流がなくなる。
人も、知識も、顧客も、課題も、資源も、戻ってこない。
それは自由ではなく、孤立です。
そして、変態はそこにいる必要がなくなる。むしろ、自由なのに、窮屈になる。だから、殺される前に自分から出ていってしまう。
変態を守るための「出島」が、変態を追い出す場所になってしまうのです。
■変態は「座敷わらし」である
だから私は、変態を「座敷わらし」のような存在だと考えると、かなり分かりやすいと思っています。
座敷わらしは、何かの成果を出すために家にいるわけではありません。
ただ、いる。
でも、その存在によって、家に何かが起こる。
変態も同じです。
「この人を置いておけば、来年この事業が生まれる」
そんな予測はできません。
むしろ、「なんか、この人がいると変なことが起こる」くらいです(笑)。
その「変なこと」が、
新しい顧客との出会いになり、
新しい技術との接続になり、
新しい仲間との共鳴になり、
新しい事業になり、
後から振り返ったときに、
「これが、私たちの競争優位の核だった」となる。
ただし、ここで大事なのは、
座敷わらしは、家にいるからこそ座敷わらしなのではないかということです。
家から追い出された座敷わらしは、ただの妖怪になってしまう。(笑)
つまり、変態を「自由にする」だけでは足りない。
本体との環流が必要なのです。
秘密基地は、島ではない。そこから人が出ていき、外から人が入ってき、本体にも影響を与え、また別の場所へ出ていく。変態が棲みつきながら、世界とつながり続ける。
だからこそ、その変態は「守り神」になれる。
そして面白いことに、「あの会社は、あんな変態でも生き延びられるらしい」という噂そのものが、競争力になる可能性があります。
変態が集まる。
面白い人が集まる。
面白い人が、さらに面白いことを始める。
そこにまた別の人が惹きつけられる。
つまり、「変態が生きられる」という評判が、次の変態を呼び込む。
これは、人材施策を超えた競争優位です。
変態を一人守ることは、人材施策かもしれない。
しかし、
変態が生きられる文化をつくることは、競争戦略になる。
そして、
「あの会社には変態が集まる」という評判をつくることは、競争優位そのものになりうる。
変態を自認する私としては、むしろこのポジションを積極的に狙いたかったりもします(笑)。
■変態を「増やす」ところから、戦略になる
「変態を生かしておく」と「変態を増やす」は違います。
前者には、余白があればいい。
しかし、後者にはインキュベーションが必要です。
好奇心を発現させる。
「ないもの」への感度を高める。
越境する。
仲間と出会う。
失敗する。
共鳴する。
自分の偏愛を誰かの喜びに変えてみる。
そして、自分自身が変わっていく。
このプロセスを、意図的に支援する。
ここで初めて、「変態経済学」は、
単なる変な人の礼賛ではなく、組織や事業をつくる実践論になります。
■フェリシモに見る「偏愛の事業化」
この考え方を、かなり分かりやすく体現している例の一つが、フェリシモの「部活」や「猫部」です。
フェリシモでは、社員個人の「偏愛」を起点に、業務や部門を越えて活動する「フェリシモ部活」という仕組みを展開しています。
社員が自分の興味や関心から活動を始め、それが商品やサービス、コミュニティなどへ発展していく。
猫好きの社員たちから生まれた「猫部」は、その代表例です。
面白いのは、単に「社員の好きなことを許している」だけではないことです。
社員の偏愛が、
商品になる。
コミュニティになる。
顧客との接点になる。
さらに社会的な価値にもつながる。
「猫部」は、猫好きの社員たちの活動から始まり、猫にまつわる商品やコミュニティを通じて、猫の保護活動などにもつながっています。
これは、
偏愛 → 共鳴 → 商品 → 顧客の喜び → 社会的価値
という、まさに「変態のメタモルフォーゼ」と呼びたくなる循環です。
もちろん、フェリシモの戦略全体を「変態経済学」で説明できる、と単純化するつもりはありません。
ただ、
個人の偏愛を組織が殺さず、仲間とつなぎ、顧客との共鳴へ持っていく仕組み
という点では、非常に示唆的です。
■変態のメタモルフォーゼ──偏愛から利他へ
ここからが、変態経済学の一番面白いところです。
変態は、最初から利他的である必要はありません。
むしろ、「自分がやりたい」という強烈な偏愛から始まっていい。
その方が強い。
しかし、その偏愛を突き詰めていくと、やがて他者との接点が生まれます。
自分だけではできない。
誰かとやりたい。
誰かにも、この楽しさを味わってほしい。
この場を続けたい。
そして、「なぜ、こんなものが世の中にはないんだ?」という違和感や義憤が生まれる。
そこから、
自分が楽しみたい
↓
誰かと楽しみたい
↓
誰かにも楽しんでほしい
↓
誰かが楽しめる場をつくりたい
↓
次の変態が生まれる環境をつくりたい
という変化が起こる。
これが、
変態のメタモルフォーゼ
です。
■「義憤」は、利他への入口になる
ここには、以前から考えてきた「義憤」も入ってきます。
変態は、単に「好きなことをする人」ではありません。
「なぜ、こんなに面白いものがないんだ?」
「なぜ、こんなに素晴らしいものが伝わっていないんだ?」
「なぜ、こんなおかしなことが放置されているんだ?」
という、「不在」への感度を持つ。
そこから義憤が生まれる。
そして、「自分が楽しみたい」
から、「この状態を変えたい」へ移っていく。
さらに、「自分だけが変えるのではなく、みんなが変えられるようにしたい」となる。
ここまで来ると、変態は「場のリーダーシップ」を獲得し始める。
自分の偏愛を他人に押しつけるのではなく、
他者の偏愛が発現する場をつくる側へと変わっていく。
これは、単なる自己実現とは違う。
自己の楽しみが、他者の可能性を生む装置へと変態していく。
■そして、ここから「経済」が始まる
変態が、「自分はこれが楽しい!」だけで終われば、それは「変態ライフ」ではあっても、まだ「変態経済」ではありません。
変態経済が始まるのは、
自分の楽しみが、誰かの喜びに変わったときです。
楽しみが、
商品になる。
サービスになる。
コミュニティになる。
場になる。
新しい仕事になる。
文化になる。
そして、その喜びが、
お金になり、
信頼になり、
仲間になり、
次の機会になり、
また新しい楽しみを生む。
つまり、
楽しみ → 喜び → 共鳴 → 交換 → 次の楽しみ
という循環が生まれる。
これが、
変態経済
です。
■競争優位は「変態の結果」として生まれる
ここで、クリティカル・コアとの接続が完成します。
変態の偏愛から始まった活動が、
仲間とつながり、
顧客とつながり、
技術とつながり、
社会とつながり、
別の活動とつながる。
やがて、複数の活動が一つのストーリーを形成する。
その中には、
「なぜそんなことをやっているの?」という活動も残っている。
しかし、全体を見ると、
「ああ、だから全部つながっているのか」となる。
つまり、
変態が持ち込んだ部分的な非合理が、全体の合理性を形成している。
これこそが、クリティカル・コアの一つの生まれ方なのではないでしょうか。
だから、
クリティカル・コアをつくろうとするのではなく、クリティカル・コアが生まれうる環境をつくる。
これが、
競争戦略としての変態経済学
です。
■戦略の対象を一段上げる
従来の戦略は、競争優位をどうつくるか?を問います。
しかし、クリティカル・コアのようなものは、直接設計できないことがある。
そこで、問いを一段上げる。
競争優位が発現する条件を、どうつくるか?
さらに一段上げるなら、
まだ意味になっていない可能性が、意味になるまで生き残れる環境をどうつくるか?
となる。
この視点に立つと、「変態を生かしておく」は、単なる人材施策ではなくなります。競争戦略そのものになる。
■「変態経済学」の競争戦略
ここまでを、実践原理としてまとめるなら、こうなります。
① 殺さない
意味の分からない好奇心や偏愛を、合理性だけで排除しない。
② 余白をつくる
本業の合理性を維持しながら、部分的な非合理が発現できる空間を残す。
③ 越境させる
変態を閉じ込めず、人・顧客・技術・社会との接点をつくる。
④ 環流させる
秘密基地と本体、組織と社会の間を、人・知識・価値が行き来できるようにする。
⑤ 共鳴させる
一人の偏愛を、仲間との活動へ変える。
⑥ メタモルフォーゼさせる
「自分の楽しみ」を「誰かの喜び」へ変換できるようにする。
⑦ クリティカル・コアを発見する
最初からつくろうとしない。
後から振り返って、
「あの意味不明な活動が、実は全部をつないでいた」
と気づく。
■「変態を増やす」ことは、未来を生成することである
未来は、完全には予測できません。
だから、未来を正確に予測して、そのために必要な人材や事業を配置するだけでは限界があります。
むしろ、
まだ存在していない可能性が発現する条件をつくる。
そして、発現したものを、意味になる前に殺さない。
仲間とつなげる。
社会とつなげる。
環流させる。
その中から、後になって、「これだったのか」というクリティカル・コアが生まれる。
これは、
未来を予測する経営から、
未来を生成する経営への転換なのかもしれません。
そして、ここに「変態経済学」のもう一つの特徴があります。
未来をつくるのは、必ずしも「正しい人」ではない。むしろ、今はまだ意味を説明できない人が、未来の可能性を持ち込むことがある。
だからこそ、変態を殺さない。
そして、変態が変態できる環境をつくる。
その環境そのものが、競争優位になる。
おわりに──あなたの組織の「座敷わらし」は誰か?
最強の競争優位は、最初から最適化された戦略として現れるとは限りません。
むしろ、
合理性から少し外れた何かを、殺さずに残しておいた結果として、後から全体の合理性が立ち上がる。
その「何か」を、私は「変態」と呼んでいます。
変態は、動機がない。
正確には、動機が、まだ言語化されていない。
だから周囲には意味不明に見える。
しかし、その意味不明さこそが、既存の合理性では生まれなかった活動を生み出す。
そして、その活動が偶然と出会い、仲間と出会い、社会と接続する。
やがて、自分の楽しみが誰かの喜びになり、変態自身もまた変態していく。
その過程で生まれた独特な活動の組み合わせが、後になってクリティカル・コアになる。
だから、経営者やマネージャーが考えるべき問いは、
「何をやらせるか?」
だけではないのかもしれません。
むしろ、
「自分の組織にいる座敷わらしは、誰だろう?」
「その人が、意味になる前に、私たちは殺していないだろうか?」
そして、
「その変態が、本体や社会と環流しながら、さらに変態していける場所をつくれているだろうか?」
と問うてみる。
クリティカル・コアは、会議室で設計されるとは限らない。
事業計画書に書かれているとも限らない。
もしかするとそれは、ある日、誰かが勝手に始めた、
「なぜか分からないけど、やってみたい」
という小さな活動なのかもしれません。
そして、その活動が、いつの間にか誰かの楽しみになり、誰かの喜びになり、仲間を生み、場を生み、組織を変え、社会を変えていく。
そのとき初めて、私たちは気づく。
「ああ。あれが、クリティカル・コアだったのか」
最強の競争優位は、合理性から生まれるのではない。
合理性だけでは、そもそも生まれなかったものを、
合理性が殺さずに残しておくこと。
そして、その「意味不明なもの」が、未来と出会うまで生きていられる環境をつくること。
変態を一人守ることは、人材施策である。
変態が生きられる文化をつくることは、競争戦略である。
そして、
「あの会社には変態が集まる」という評判をつくることは、競争優位そのものになる。
もしかすると、それこそが、
競争戦略としての「変態経済学」
の出発点なのだと思います。
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