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September 11

【悲劇の日】

 今年もまた、この日が来た。

  2001年9月11日

 日本では、『アメリカ同時多発テロ』『9.11事件』などと呼ばれている。イスラム教の過激派アルカイダによって行われた悲惨なテロ事件だ。
 まず、すべての被害者に、慎んで哀悼の意を捧げたい。

 ローガン国際空港からロサンゼルスに向けて飛び立ったアメリカン航空11便ユナイテッド航空175便の2機が、ニューヨーク州のニューヨークシティ=マンハッタンにあったワールドトレードセンター(WTC=世界貿易センタービル)に激突し、WTCのノースタワーもサウスタワーも炎上。そして崩落。あの衝撃的な映像は、見た人は忘れないはずだ。
 この2機は、複数のテロリストによって、それぞれハイジャックされていた。いずれも行き先がロサンゼルスで、東海岸から西海岸へ向かうためにジェット燃料も満タンだったことも、テロリストたちの狙いと言われている。

 また、3機目のアメリカン航空77便は、ヴァージニア州にある首都ワシントンDCの玄関口ワシントン・ダレス国際空港からロサンゼルスに向けて飛び立ったが、上記2機と同様にハイジャックされ、Uターンした後にワシントンDCのペンタゴン(国防省)に激突し、建物が損壊した。

 そして4機目。ユナイテッド航空93便は、ニュージャージー州のニューアーク国際空港からサンフランシスコに向けて離陸した後、ハイジャックされた。
 乗員・乗客がハイジャックに気づいて、ハイジャック犯達の制圧をしようとした結果、ペンシルバニア州のサマセット郡の野原に墜落した。こちらは「ユナイテッド93」というタイトルで映画化もされている。


【テロは日常に潜む】

 このテロ事件から、今年で24年も経過したことになる。
 あの日前夜遅くに、私たち夫婦はボストンのローガン国際空港(正式名称はジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港)にいた。
 休暇を取り、当時住んでいたロードアイランド州から、二人とも人生初のヨーロッパに行こうとして、最寄りの国際空港であるローガン空港から、前日夜のフライトでイタリアに向けて出発していたのだ。
 この事件についての第一報は、最初の目的地のベネチアのホテルにチェックイン後、観光に出ようとしたエレベーターの中で聞いた。
 エレベーターに乗り合わせたイギリスの老婦人と世間話をして、どこから来たのかを聞かれたとき、ボストン近くと答えた。
『アメリカといえば、WTCは大変なことになっているわね』
と言われた。

 WTC。ワールドトレードセンター。
 私たちはすぐにニューヨークのかつてツインタワーと呼ばれたあのビルを思い浮かべるが、『ワールドトレードセンター』と呼ばれる施設は、実は世界中にある。
 ベルギーのブリュッセルや、カナダのモントリオール、にトロント。中国は北京、重慶、温州、そして香港。デンマークのコペンハーゲン、バーレーンのマナマ、インドのバンガロールとムンバイ。ここに挙げたものはほんの一握りで、日本にも東京に世界貿易センタービルとして存在するし、大阪府咲洲庁舎の旧称は大阪ワールドトレードセンタービルだった。
 英語で World Trade Center, WTCとは、世界各地にある「貿易センター」を称する高層ビルのことを言う。

 そんな余分な知識もあったせいで、WTC?どこの⁇という疑問が先に立ち、イギリス人マダムとの会話はチグハグだった。
 観光に出たら、街の美しさに先ほどの会話は頭の隅に追いやられた。軽く観光したのち夕飯を食べてホテルに戻ると、夫の上司から「至急連絡されたし」と言うFAXが来ていた。

 部屋の電話から国際電話で会社にかけると、大変なことがアメリカで起きた。すぐテレビをつけてみろと。
 そして、あの映像を見た。
 衝撃しか無かった。
 映画のような、しかし紛れもない現実。
 私たちが見たのは、もう2機ともがツインタワーに激突したあとで、その映像が何回も何回も放送される。それだけでも強烈なのに、俄かにスタジオが騒然とし、キャスターに緊張感が走る。
 ツインタワーがともに、崩落を始めたのだ。大量のジェット燃料で、ビルの構造体が変形したり溶けたりして崩れたということは、明らかだった。

 WTCに向かった2機は、ボストンのローガン国際空港から出発していたと報道されていた。出発時間は7〜8時間のズレだが、私たちが空港にいた頃にローガンで待機していたテロリストも居たらしい。
 その日常との身近さに、ゾッとした。


【北米の空が停止した】

 上司からは頻繁に連絡がきた。
 日本の双方の実家にも、無事でいることの連絡をいれた。私がアメリカ北東部に住んでいることを認識していた従兄弟からは、実家に無事かの問い合わせも来ていた。

 幸いにも、そのホテルはインターネットが使えた。まだ当時はダイヤルアップ回線なので、ネット環境はどこにでもあるわけではなかった。
 アメリカはすべての航空機がとまり、北米大陸の空は完全に閉じられていた。つまり、緊急事態でも旅行を中断しても、今はアメリカの自宅へ帰れない。
 特にテロリストたちが航空機に乗り込んだ空港は完全厳戒態勢になり、空港の駐車場に止まっている車は、全車がCIAによって持ち主と所属とを洗い出されていると、アメリカ国内では報道されていた。ローガン空港に停めていた我が家の愛車レガシーも、もちろん対象のはずだ。

 今の時点ではどう動くべきか判然としない。当然だが、こんな超緊急事態に対しての社内マニュアルも、夫の会社には無い。
 ひとまず旅行を続けるようにと、会社から指示があった。ただし毎日無事でいるかの報告をすること。5日後に最終目的地のローマに到着したら、その時点の状況からまた判断して連絡を貰えることになった。

 イタリアは、報道以外は平和だった。
 普段の観光客がどれほどかはわからないが、ジェラート屋には行列ができていたし、ガイドブックに載っているようなレストランは、優雅にディナーをする人であふれていた。夜間はジプシーによって偽ブランド品が露店で売られ、スリは普通に彷徨いていた。アメリカでのテロ事件は、隣の田んぼの被害に近かった。
 しかし、たまにホテルでは、延泊の交渉をしているアメリカ人を見かけた。帰国するためのフライトが、無くなったからだ。

 私たちは、ヴェネツィアからフィレンツェそしてローマと、観光をしながら鉄道で移動していった。
 アメリカの空はまた動き始めたが、テロリストの出発点であったローガン空港だけはなかなか状態の確認がとれないようだった。会社としては、完全に安全だと確認が取れるまでは、アメリカに帰らせるわけにはいかないからだ。

 ローマに着いた時、最終日にホテルをチェックアウトした後、フランスのリヨンへ出張に来ていた同じアメリカ子会社の日本人の同僚がローマに移動してくるので、合流するよう指示された。その人も、空の封鎖でアメリカに帰る便が無くなっていたらしい。
 私たちがアメリカへ戻るフライトは、この時点で空港に行って延期の手続きをした。私たちはエールフランスを利用していたのだが、長時間の交渉を覚悟して向かったはずが、案外すんなりと手続きができた。アメリカ系の航空会社、特にテロに使われたアメリカンとユナイテッドは全く機能していなかったようで、これらの利用客の長蛇の列を横目に、早々にホテルに戻ることが出来た。

 同僚との合流ポイントには、陽気で足の長いイタリア人が迎えに来てくれていた。彼の車で3時間かけて、あの長靴型の半島のローマの反対側に行く。
 アテッサ(Atessa)という町に関連工場があり、アメリカへのフライトが回復まではひとまずそこへの出張という形をとることになったのだ。

 翌日から夫と同僚は、朝に迎えがきて現地の子会社に行き、夕方まで仕事。私はホテルの部屋で本を読んだり街中をぶらついたり。
 しかし、街中にでてもローマやフィレンツェなどの観光地ではないので、英語がなかなか通じない。私の拙い英語なのに『英語だ、やばい!、誰か話せる人いないの⁉︎』とオロオロする店の人。普段、私はあちら側の存在だ。

 そして宿泊先のホテルには、なぜかキッコーマンの醤油差しに入った醤油があり、朝食メニューにMEDAMAYAKIがあった。NHKの受信もできていたし、イタリア語の吹き替えをした『らんま1/2』が放送されていた。
 理由は、団体で入ってきた日本人の男性たちの会話で、すぐわかった。ホンダの工場がある街で、どうやらそこは出張者の利用ホテルだ。これにはちょっと、ホッとした。あちらはあちらで、ホンダ関係者ではない明らか日本人3人がいる、誰⁈という感じだった。

 アテッサに居たのは、たしか1週間ほどだったと思う。最大で2週間の可能性を示唆されていて、予定より短くなったという印象しか残っていない。
 ボストンに帰ることが可能になったと聞き、エールフランスに日程確保の連絡をし、何のトラブルもなく帰宅の便に乗ることができた。一緒にいた同僚は、アメリカの他拠点からの乗り継ぎで帰らなくてはいけないため、ローマでお別れ。また明日ロードアイランドの会社で夫は会うのだけれど。

 ローガン空港に着いて、入国審査の列は長かったが、そこはVISAを持っている安全国民の日本人。止められるのことなく入国し、荷物を受け取り駐車場へ。2週間ぶりの愛車は、変わりなく屋内駐車場に停まっていた。



【鎮魂の光】

 アメリカ生活のなかで、毎年クリスマスシーズンにはニューヨークに行っていた。
 一番の目的は、マンハッタンとはハドソン川を挟んで反対側に位置するニュージャージー州にある、大手日系スーパー"ミツワ(元ヤオハン)"での日本食料品の購入だ。ニューヨークの街を楽しむのは、そのついでという言い訳があった。

 だが、2001年は行かなかった。
 この街の悲惨さを直視することが出来ないと感じたから、行けなかった。テロ以降マンハッタンに足を踏み入れたのは、その翌年。
 2002年の春、追悼として光のツインタワーを作られていた。鎮魂のために現地にも行った。

 グラウンド・ゼロと呼ばれる、ツインタワーがあった場所。あの巨大なビルがあったとは思えない、何にも無い場所になっていた。あの場所に行けば、誰もが被害者となった方々の眠りが安らかであることを、祈るだろう。
 その後、光のツインタワーは2003年以降、9月11日という忘れない日に、追悼のために毎年開催されている。



【未来へ語り継ぐ場所として】

 2019年、息子が一年間の高校留学をする先の見学を兼ねて、家族でボストンとニューヨークを巡った。ニューヨークでは絶対に連れて行こうと思っていた、今のグラウンド・ゼロへもちろん足を運んだ。
 このトップ画の写真が、ノースタワーのあった場所に作られたメモリアルのプール。ここでは騒ぐ人も居ない。静かに水が流れ落ちる音が聞こえる場所だ。

 ニューヨークはあのテロをきっかけに、助け合いの精神が急速に育ったと言われている。だがその後、多くの社会問題や経済問題、戦争の影響があり、また別の空気へと変化してきている。
 今が当時に比べて平和かと言われれば、頭を傾げる部分も頷く部分もあるだろう。

 街は変わる。
 人も、何時からでも変わることができる。
 誰もが、己が良いと思う未来に向かっているはずだ。その未来が、願わくば悲しみに満ちたものではないことを祈りつつ、次世代に過去の戒めとして、広島の原爆ドームやアウシュビッツの収容所跡のように、グラウンド・ゼロも語り継いでいくべき場所なのだろうと思う。


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