文字を持たなかった明治―吉太郎110  葬儀①

「大往生」より続く)
 しばらくというよりかなり長い間、昭和5年に鹿児島の農村に生まれたミヨ子(母)を綴る「文字を持たなかった昭和」でその終末期をほぼリアルタイムで追ってきたため、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について綴ってきた「文字を持たなかった明治」のほうは、吉太郎が大往生したところで中断していた。一旦明治の物語に戻る。

 明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語も終わりに近づいてきた。

 貧しい――と言っていいだろう――農家の6人きょうだいの五男に生まれ、徒手空拳で土地を買うところから始め、家屋敷のほか田畑や山林まで買い広げた。子供は一人だったが跡取り息子としてそれらを引継ぎ、ふたりの孫も生まれた。まだ小さいが、その一人の男の子がいずれ田畑を継いでくれる、と吉太郎は堅く信じただろう。大阪で万国博覧会が催された昭和45(1970)年の11月、吉太郎は90歳の天寿を全うした。半月ほど臥せった程度の大往生だった。

 当時、兼業農家が増えていたとは言え、冠婚葬祭のうち「葬祭」については集落のなかでの協力が機能していた。以下は、孫娘の二三四(わたし)が見た吉太郎の葬儀である。

 かかりつけのお医者が臨終を告げたあと、吉太郎の体は妻のハル(祖母)や嫁のミヨ子(母)の手できれいに拭き清められた。早くしないと死後硬直が始まると、居合わせた誰かが言ったようにも思う。まだ小学校の低学年だった二三四も「じいちゃんを拭いてあげなさい」とタオルを渡され、形だけ体を撫でた。

 そのあとは、吉太郎が持っていた中でいちばんきれいな――新品だったかもしれない――浴衣に着替えさせ、仰向けに寝かせて両手を組ませた。鼻や口には綿が詰められ、顔には白い布が架けられた。吉太郎の体は奥の仏間に置かれ、床の間には簡単な祭壇がしつらえられた。

 やがて菩提寺から住職さんが到着し、まず通夜が営まれた――はずだが、二三四の記憶の中で通夜ははっきりしない。たくさんの人が出入りし、それまで経験したどんな行事とも違う雰囲気だったことはたしかである。なにより、朝まで息をしていた「じいちゃん」が、もう息をせずに横たわっている事実に圧倒されていた。

 翌日が葬儀。吉太郎の親戚の多くは同じ集落か近隣にいたし、二夫はもう地域でかなりの顔役だったから、通夜を含めたくさんの人が訪れた。自宅での葬儀だから、お線香を上げた人たちはそのまま座敷に座って住職さんが来るのを待った。やがて読経が始まるとそれを聞き、続けて説話を聞いた。座敷にいるのは少しの例外を除いて男の人ばかりだった。

 喪主は当然一人息子で跡取りの二夫(つぎお。父)である。二夫の横に妻のハル(祖母)が紋付を着て座り、続いてミヨ子――も紋付姿だったと思う――、小学校の実質制服である「標準服」を着た上の孫の和明、そして同じく標準服の二三四が座った。

 これら一連の動きはいまのように葬儀会社が仕切ったわけではない。遺族は弔問客を迎える側として動けないから、誰か――集落の世話役で、地域の儀礼に通じた人が仕切ったのだと思う。結婚式こそ「外」で行うのが普通になりつつあったものの、葬儀はまだまだ自宅ですべて行う時代だった。少なくともこの地方では。(「葬儀」②へ続く)

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