文字を持たなかった明治―吉太郎111  葬儀②

(「葬儀①」より続く)
 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れた吉太郎(祖父)の物語も終わろうとしている。

 昭和45(1970)年の11月に吉太郎は90歳の天寿を全うした。当時まだ残っていた習慣として、通夜も葬儀も自宅で営まれ、たくさんの弔問客が訪れた

 前項で「座敷にいるのは少しの例外を除いて男の人ばかりだった」と述べた。少しの例外とは、ご主人を亡くした奥さんたちである。子供の中に、「家長」代わりに挨拶できるほど大きい男の子がいればその子が弔問に来るのだろうが、まだ小さければ奥さんが弔問に来るしかない。もっともその場合でも座敷の後ろのほうに、目立たないように座っていた。

 では弔問には来ない集落や親戚の女性たちはどうだったか。ほとんどの女性たちはやはり葬儀が行われる家に行き、遺族では直接手を出しようがない「もてなし」の仕事を引き受けていた。つまり、弔問客にお茶や簡単な食事を出すことだ。もちろん食事のしたくも含まれる。

 亡くなった頃の吉太郎の家屋は、ガスは引かれているもののまだ土間の広い台所だった。それでも足りず、台所の外の井戸のところでも、たらいを置いて揃いの食器や野菜などを洗う女性たちがいた。急ごしらえのかまどで大きな羽釜にごはんを炊く女性もいた。

 出すのは簡単な精進料理だし、種類も品数も昔から決まっていたから、地元の主婦ならだれでも作れるようだった。由来はわからないが、吸い物には必ずそうめんが入れてあった。一度ゆでて一人分ずつまとめておき、お椀に入れて熱い出汁を注ぐのだった。精進料理だから鰹節など動物性の出汁は使えない。干し椎茸と昆布の出汁だったはずだが、戻すのに時間がかかる食材を、いったいいつ仕込んだのだろう。

 よく考えれば、どんな食材をどのくらい用意するか、買い出しや支払いの管理など、お金に関わることも多かったはずだが、そのへんは誰が仕切っていたのだろう。儀式が表の仕切りだとすれば、裏の陣頭指揮をとる女性もいたに違いない。お金もからむから、葬儀を出す家と信頼関係がないと任せられないはずだが、まだ小さかった孫娘の二三四(わたし)にはそこまで読み取れなかった。

 来客用の食器は、塗りのお膳とともに何十人分もタンスの上や納戸の棚にしまわれていた。親戚や近所どうし、何かにつけて支度も後片付けも共同作業するせいか、よその家の道具や食器なのに、女性たちは「勝手知ったる」という感じで、的確にモノを探し出し、必要数を取り出して使った。もちろん使い終わるときれいに洗って、拭きあげて、再び新聞紙にくるんで元の場所にしまうのだ。

 おそらく当時でも、街のほうの勤め人の家などであれば、仕出しをとったりしていたのだろう。しかし吉太郎たちが住む――もう吉太郎はいないが――農村部では、ほとんどが自給自足で、かつ近隣で融通し合うのが当然だった。そういう言い方はなかったが「結い」のようなつながりかもしれない。

 ともかく、儀式を進めるのに必要なことは誰かしら知っていて、葬儀に使うモノもお互いにわかっており、集落とその周辺がひとつの生き物のように有機的に動いていた、と言えばいいのだろうか。(「埋葬」へ続く)

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