文字を持たなかった明治―吉太郎112  埋葬

(「葬儀②」より続く)
 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れた吉太郎(祖父)の物語もここで終わりだ。

 昭和45(1970)年の11月に90歳の天寿を全うした吉太郎。当時まだ残っていた習慣として、通夜も葬儀も自宅で営まれ弔問客のための食事などは、集落や親戚の女性たちが準備した。

 葬儀が終わり、遺体は埋葬される。地域ではまだ土葬だった。

 いったい誰がどこから用意したのか孫娘の二三四(わたし)は知る由もなかったが、白くて立派な木の箱の中に横たわった吉太郎に、永遠のお別れをする。続いて棺の蓋が置かれ、釘が打ちつけられた。二人の孫も釘を打つよう言われ打つまねをした。

 棺は縁側のほうに移され、持ち上げるための縄がかけられた。外で待っていた男衆――集落の青年団の何人かだったと思う――が待ち受けており、縄に天秤棒を通して棺を担いだ。吉太郎というより棺本体が重かったはずで、四人ほどで担いでいたような気がするが、二三四の記憶はおぼろだ。

 その頃、一族のお墓は小高い丘の上にあった。近隣のいくつかの一族――ひとつの一族を薩摩ではかつて「門」と呼んだらしい――のお墓がここに集まっていた。墓地に行くまでは、畑の畦やちょっとした林の中の細い道を通る。狭いうえアップダウンもあり歩きにくい道だったが、棺が通る前に周囲の草は払われていた。おそらく訃報を知った集落の青年団が、長老の指示を受けてあるいは自発的に整備してくれたのだ。集落のどこかで葬式を出すときの、当然の習慣として。

 棺の後ろを、吉太郎の一人息子の二夫(つぎお。父)を筆頭に、家族がつき従う。11月も後半で寒かったはずだが、そのへんの記憶も二三四にはない。

 墓地に着くと、吉太郎のための長方形の穴がすでに掘られていた。正真正銘の墓穴(ぼけつ)である。穴は予想外に大きく見えた。子供の目にはそう映ったのかもしれないが、しっかり棺が収まり十分に土をかけることを考えれば、かなりの大きさ、深さの穴になるのは当然だっただろう。

 棺が穴の中に下ろされる。もちろん重機を使うわけではない。穴の横方向に棺を渡してから、棺を少しずつずらして縦にし、下ろしていったように思う。「ゆるいと、ゆるいとじゃっど」(ゆっくり、ゆっくりだよ)と、弔問客でもある世話役のおじさんたちが声をかけていた。

 やがて、子供の背丈ほどもある穴に棺は収まり、土がかけられていく。「これでほんとうにじいちゃんとお別れだ」と二三四ははっきり思った。

 土饅頭ができると卒塔婆が立てられた。最後にお坊さんが読経した――はずだが、そこもあいまいだ。たしかなことは、吉太郎は永遠の眠りにつくと同時に、その体は土の中で分解が始まったということだ。

 こうして吉太郎は生まれた土地へまさに「還って」いった。

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