文字を持たなかった明治―吉太郎99 今度こそ初孫

 明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。98回(2024年10月31日投稿)の「牛歩」まで綴ったところで、嫁のミヨ子(母)の近況や二三四(わたし)自身の帰省の話などで長らく中断してしまったが、さすがにそろそろ再開することにして、どこまで綴ったかを振り返ってみよう。

 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)は昭和29(1954)年に同じ集落の娘ミヨ子を嫁に迎えた。戦後日本が高度経済成長を続ける中、農作物も換金性の高い果物が注目され始め、吉太郎たちの地域ではミカンの栽培を始めることになり、共同で山林を開墾した。ミヨ子は開墾作業の負担のゆえか、初孫だったはずの子を死産する。

 当時耕作には牛を使っていたようだが、時代の波に乗った形であらたに耕運機を買うなど一家の状況も変わりつつある中、吉太郎たちにうれしい知らせがもたらされた。

 昭和34(1959)年、ミヨ子が再び身ごもったのだ。妊娠がわかったのは晩春の頃だろう。南国鹿児島のこと、すでに初夏に近い陽気だったかもしれない。予定日は翌年の2月だと言う。その2回目の妊娠については、ミヨ子の来し方について綴った「文字を持たなかった昭和」の「五十六(二回目のおめでた)」でも一度述べている。

 ミヨ子は最初の子のときと同じように、家事と農作業をふだん通りに行っていた。それはどこの農家の嫁も同じだった。ただ、最初の子を妊娠した時開墾中だったミカン山には、ミカンの樹がすでに植わり実をつけつつあった。鹿児島弁で言うところの「体をこなす」*(体に大きな負荷をかける)作業までミヨ子にさせる必要はない。ただ、お産は昔から家でやることに決まっている、と吉太郎は思っていた。

 しかし、最初の子を亡くしたミヨ子と二夫は、今度は慎重だった。

 ミヨ子は母子手帳を熱心に読み、妊婦健診にも通った。通うと言っても、町にひとつしかない産婦人科病院までは歩けば40分ほどもかかるから、毎回二夫がオートバイに乗せていく。文字を読めないどころか小学校すら通わなかった吉太郎にすれば、必要なことは姑のハル(祖母)や周りのばあさんたちに聞けば早いのに、わざわざ時間と手間をかけて…、という気持ちだった。

 なにより、戦前までの嫁たちは、わざわざどこかで習ったりしなくても、自然にお腹が大きくなり、月が満ちれば自分で子供を産んだものだ。戦争に負けてから何もかもが変わってしまった、お産までも、と吉太郎は思った。

 なにかにつけお腹(の子供)をかばおうとして、動作もゆっくりになりがちなミヨ子には
「何(な)よ うろいとしちょっとかね」(何をうろうろしてるのかね)
とつい言ってしまうこともあった。

 それはハルも同じのようだった。むしろ吉太郎に負けないくらい働き者で、その分勝気なハルのほうが、ミヨ子に対する当たりは厳しかった。(「100 出産へ」へ続く))

*鹿児島弁「こなす」:苛める、こらしめる。「熟(こな)す」の転義。
《参考》鹿児島弁ネット辞典>こなす

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