文字を持たなかった明治―吉太郎12 文盲

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 郷里の役所で交付を受けた除籍謄本を参照しつう、吉太郎の生年月日などのあと吉太郎の家族構成を書いた。苗字住所吉太郎の父・源右衞門母・スヱ、そしてきょうだいその関係について。

 前項では吉太郎が農家の五男であることについて考え、子供ながらに大家族の働き手の一人だったはずだと考察した。

 読んだ方は「?」と思っただろう。子供なら働き手の頭数に入れる前に学校へ行かすだろうに、と。

 過去のnoteで軽く触れたことがあるが、吉太郎は読み書きができなかったと、息子の二夫(つぎお。父)やミヨ子から伝え聞いている。それを示すエピソードとともに。そしてそれらには
「じいさんはきょうだいが多かったから、学校へは出してもらえなかったからね」
という、エクスキューズのような補足もついていた。

 庶民の子供に対する教育制度を国全体で整えたのは明治に入ってからだ。それ以前の教育施設は、士族階級なら藩校など、庶民階級なら寺子屋などが主なところだった。江戸時代でも日本(の庶民)の識字率は高かった、寺子屋などで子供が読み書きを教わっていたからだ、とよく言われるが、それは江戸のような都市、あるいは地方でも城下町などの町なかの、かつ時間(とお金)に余裕のある子供が中心だっただろう。(お金に関しては、主宰者が負担する場合なら、子供たちが持参する必要はなかったかもしれない。)

 しかし、吉太郎たちが生まれ育った小さな農村には、子供に読み書きを教える寺子屋のような場所も、他人の子供に教育を施せるほど余裕のある大人もいなかった――と思われる。あくまで推測なのだが、それは孫娘の二三四(わたし)が育った昭和40年~50代の郷里の姿を思い出せば、十分想像がつく。

 むしろ、誰もが食べていくのに必死だっただろう。農業にせよその他にせよ、子供は働き手の一人として生まれた家の生業を助けることが期待された。いや、それが当たり前のことだった。

 いずれ跡取りとなる子供なら多少で教育を受ける機会を与えられたかもしれない(吉太郎きょうだいの長男・仲太郎が学校へ行ったという確認はできていない)。しかし三男、五男となると「その他大勢」の働き手の一人として扱われていたとしても、なんの不思議もない。

 ここで述べているのは、吉太郎など長男ではないたくさんの子供がいかにぞんざいに扱われていたか、ではなく、子供であっても大人たちといっしょに働いて家を支えるのが当たり前だった、という当時の社会的経済的背景だ。

 そんな中で吉太郎が何を思っていたのか、推し量る手立てはない。ただ、後年の吉太郎が爪に火を灯すような節約をしつつ田畑や山林を買い広げていったことを思えば、「同じ息子なのにまともに扱われない」とか「なにくそ」といった気持ちを抱えていただろう、と思えてくる。

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