文字を持たなかった昭和 十七(就職)
戦時中の義務教育を終えたミヨ子は、親しい人の紹介で鹿児島市内の国民学校(小学校に相当、※23)の購買部(売店)で働くことになった。購買部については地方や学校によって名称が違うかもしれない。少なくともわたしが高校に通った昭和50年代の鹿児島県では、校内で児童生徒向けに文房具類を販売するスペースはこう呼ばれていたと記憶する。
ミヨ子が生まれた町にある駅から国鉄(当時)鹿児島本線を通って、県内最大の駅「西鹿児島駅(※24)」までは、列車――正真正銘の「汽車」だっただろう――で1時間以上かかったはず、学校も駅から歩いてすぐではなかっただろうに、通勤はどうしていたのだろう? と考えていて、思い出した。購買部の仕事といっしょに、住むところも紹介されたのではなかったか。国民学校卒でも多くが働いていた時代とはいえ、まだ12、3歳の少女である。住まい含め信頼できる先だったので、家を出て働く決心を、本人も親もしたのではないか。
子供が相手で扱う商品も限られているとはいえ、売り子自身が国民学校を出たばかりの子供である。さらに――これはわたしの勝手な想像だが――ミヨ子が育った農村と鹿児島市内では生活水準や文化程度がかなり違ったはずで、同じ年ごろの「お客さん」たちからバカにされることはなかったか、心配してしまう。なにせ県庁所在地、元々は武家と商家の町である。
しかしミヨ子本人から「嫌な思いをすることもあった」というような話は聞いておらず、けっこう楽しく働いていたようだ。
自分が購買部を利用していたときの光景を思い出すと、学校という場所柄、「お客さん」が買い物するのは当然授業以外の限られた時間に集中する。授業の内容によっては、同じクラスや学年の子供たちが、短い休み時間の間に、同じような教材をこぞって買いにくることもあっただろう。「お客さん」の顔と注文するものと値段、そしてお釣りを間違えずに渡すのは、けっこうな能力が要求されたことだろう。
いまになってそんな当たり前のことを考えるのは、わたしが子供のころのわが家の経済状況を思い出したからだ。経営や蓄財の才能に恵まれていたといえない夫(わたしの父親)の陰で、ミヨ子はやりくりに苦労していた。当時のわたしは、迂闊にも母親に特別な才能を認めておらず、主婦としてのやりくりいの能力には全く注意を払っていなかった。しかし、わが家のあの経済状態を切り抜けられたのは、ミヨ子の手腕に負うところが大きかったはずだ(※25)。ミヨ子はじつは、たいした経営能力があったのではないか。それを発揮できる環境と立場が与えられなかっただけで。
ただ、ミヨ子の仕事も戦争の激化の影響を受けることになる。
※22 校名を聞いたと思うが思い出せないので、機会を作って本人に確認したい。
※23 現在の「鹿児島中央駅」。鹿児島本線で1駅隣の「鹿児島駅」と区別して「西駅」と呼ばれた。
※24 結婚後のやりくりについては「十三(学校)」で少しだけ触れたが、改めて書きたい。
