文字を持たなかった昭和 十三(学校)

 母ミヨ子の話に戻ろう。

 お弁当の話を先にしてしまったが、昭和12(1937)年(※14)学齢に達し小学校へ通った。ミヨ子が住む集落から小学校までは約2km、子供の足だと30分以上かかった。もちろんバスなどの公共交通機関はないし、子だくさんの時代、どの家でも多忙な親が送迎するわけもない。低学年の子供たちも舗装されていない自分の脚で歩いて通った。風の日は土埃が立ち、雨の日は泥がはねて着物が汚れる道を黙々と通った。ミヨ子たちよりもっと遠くから通う子供も少なくなかった。

 学校に行くといっても、通学用の靴やカバンなどを全員が用意できたわけではない。ノートや筆記具はもちろんのこと、教科書さえ持てない子供もいたのではないだろうか(※15)。校舎や教室の様子について、ミヨ子や同年代の人たちから詳しく聞いたことがない。できるだけその年代の方々から話を聞きたいし、わたしの母校でもある小学校で機会を作って当時の資料も探してみたい。

 裕福といえないほかの子供たち同様に、ミヨ子も「勉強さえしていればいい」という境遇ではなかったこともあり、勉強はあまり得意ではなかった。本人にどの教科が得意だったか尋ねたことがあるが、勉強はあまりしなかったという答えだった気がする。「三(「文字を持たなかった」について)」でふれたように、子供のわたしの目からは、母親が何かを読んだり書いたりする姿はめったに見たことがない。それも当然かもしれない。子供の知的好奇心を刺激するような、例えば本やラジオといったものは幼かったミヨ子の家の中になく、日々の暮しを維持することが最優先だったはずだから。

 しかし、のちの結婚生活において、お金儲けや経営といったことにはとんと疎く、ミヨ子に言わせれば「他人からほいほい乗せられてお金にならない役職ばかりなさって(※16)」夫の代わりに、季節ごとに植えた野菜をこまめに市場へ持って行って(※17)、手元の現金を確保し家計をやりくりしていたミヨ子は、じつはとても賢い女性だった。

 いまになってわかるその賢さのおかげで、わたしたちきょうだいは中学、高校で部活動に熱中できた。当時は考えが及ばなかったことにだんだん気付くようになるのは、歳を重ねたおかげかもしれない。

※14 昭和12年の国内情勢(自分の参考として)
7月7日北京郊外の盧溝橋で北支事変(9月に支那事変へ名称変更。日中戦争とも)が勃発、11月5日 第10軍が抗州湾に上陸、12月13日南京占領。以後日本は中国(大陸)への関与を強め、のちに泥沼といわれる戦闘に引きずり込まれていく。これに先立ち4月5日に「防空法」公布。8月24日「国民精神総動員実施要綱」 制定、11月20日大本営設置など、戦時体制が強化される。
《参考》https://kagebome.com/showa12/
※15 当時の義務教育の状況と学習環境についても調べていきたい。→「十六(義務教育)」に制度の一部を記載。
※16 鹿児島弁:「他ん衆から良か良か言われて、銭にならん役ばっかいせらって」(ほかんしから よかよかいわれて、ぜんにならんやっばっかい せらって)
※17 くわしくは改めて書くつもり。

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