文字を持たなかった明治―吉太郎101 初孫
(「100 出産へ」より続く)
明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。
昭和35(1960)年2月吉太郎の初孫が生まれた。産まれたのは男の子、吉太郎は「これで跡継ぎができた」と喜んだ。自身が晩婚(かつ再婚)で子供といえば男子が一人しかいない。自分の後継ぎは「確保」できているとはいえ、艱難辛苦に耐えて広げてきた田畑をさらに受け継ぐ孫、それも男児の誕生を、吉太郎は心待ちにしていた。親戚や集落の人々も、吉太郎と会うたびに「跡取りができてよかったですね」と声をかけた。
子供は和明と名付けられた。その由来について、和明自身やのちに生まれる孫娘の二三四(わたし)が尋ねたことはない。おそらく吉太郎ではなく息子の二夫(つぎお。父)が考えたのだろう。しかし平易ながらいろいろなよい意味を含むこの名前を、吉太郎も気に入った。
初孫の男児ということで、和明は家族のみならず周囲からも大事にされた。近隣の人々には、「あの吉太郎じいさん宅の初孫だから」という思いもあっただろう。吉太郎はそのくらい、働き者の土地持ち、同時にやり手として地域では一目置かれていた。
吉太郎たち家族はカメラを持っていなかったが、和明の写真はたくさん撮った。いや、撮ってくれる人がたくさんいた、ということかもしれない。すでにカメラを持っている誰かがなにかの用事で立ち寄ったり、集落や地域の行事に赤ん坊を背負った嫁のミヨ子(母)も参加したりしたとき、
「どら、孫ん子も撮ってあぐかいなー」(どれ、お孫さんも撮ってあげましょうかな)
とカメラを向けてくれた。おかげで赤ん坊だけのも、家族といっしょのも、およそ和明が写っている写真は数えきれないほどたくさんあった。
吉太郎自身は写真には興味がなかったし、自分が写ろうとも思わなかったが、二夫が買い、操作する耕運機の座席に親子孫の三代で座って写った写真は気に入っていた(これもカメラを持っている誰かが気を利かせて撮ってくれたものだったろう)。
和明は二夫の跡を継いで、自分が買い広げた田畑を耕してくれるものと信じて疑わなかった吉太郎にとって、この写真は人生の終わり近くに神様が授けた勲章ようなものでもあった。
ちなみに、和明の誕生から2週間少々で、のちに令和の天皇となる浩宮徳仁さまが誕生する。この年に生まれた男の子は「浩」の文字をつけた名前が多いが、和明の誕生は浩宮さまより前だったから名前であやかることはなかった。(「孫のいる生活」へ続く)
