文字を持たなかった昭和390 介護(9) 姑③徘徊の始まり
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書いている。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった「当時の状況①」、「当時の状況②」に始まり、舅・吉太郎(祖父)のお世話の様子(舅①、舅②)に続いて、姑・ハル(祖母)のお世話について述べている。
昭和40年代の終わり、ハルが屋敷の敷地の入口でぼんやりしていることが増えていたが。ミヨ子をはじめ家族の誰もが「留守番も退屈」だろう、ぐらいにしか思っていなかった。
認知症という言葉が定着し、認知症についての情報が増え、その気になればそれはなんらかの「サイン」だと調べることもできる現在とは違う。そもそも、ご老人の「ボケ*」が問題になり始めたのはその少し前からで、ボケて周囲を困惑させるケースは、ミヨ子たちの地域ではまだ少数派でもあった。
だから、まさか「うちのおばあちゃんがボケる」事態が来るとは、誰も考えていなかった。
しかし、ある時「ばあちゃんがいなくなった」。
農作業から帰ったミヨ子たちが家の中にいるはずのハルに声をかけても返事がない。家の中にも、屋敷の畑にも姿がない。大きくない集落をひとまわりする道に沿って探しに行くと、ハルはいた。
二夫(つぎお。父)がつい
「どこに行こうとしてたんだ」
と叱責すると
「家に帰ろうと思って」
という答えが返ってきた。
「うちはあっちだろう」
と連れ帰ったのだが、ハルは納得がいかない顔をしていた。
「道がわからなくなったのかな」
二夫は不安そうに呟いた。
ハルは、ミヨ子たちが暮らす地域の別の集落の生まれだった。明治中ごろのこととて、集落が違えば大人どうしでもそう頻繁には行き来がなく――基本の移動手段は徒歩だったのだから――、まして子供たちの生活は集落の中で完結していた。
現在の知識で考えれば、ハルは認知機能の低下が始まりつつあり、いま自分がいる家が見知らぬ場所のように思えて、子供の頃見慣れた場所へ帰りたいという心理状態に、その瞬間は陥っていたのかもしれない。ただその状態は、まだしばしば現われるほどではなかった、ということだろう。
二夫がハルを連れて帰ったことで、ミヨ子はほっと胸をなでおろし
「ごはんにしましょう。あんまり一人で出かけないでくださいね」
とハルに声をかけた。
*当時ミヨ子たちの地域では、ご老人の「ボケ」を鹿児島弁で「ども」と呼んでおり、「ボケる」ことは「どもになっ(なる)」と言っていた。もっとも、ご老人には敬語で接するのが基本だったので
「〇〇さんは、どもい(に)ならったちゅが(ち 言うが)」
(〇〇さんは、ボケてしまわれたそうですよ)
などというのが一般的だった。
「どもをけっ」という表現もあるようだが、この場合の動詞は「どもをからう」の「からう」(背負う)が短縮されたものかもしれない。
なお「ども」は「もうろく」と同じ意味の「老耄(ろうもう)」の転訛らしい。古来中国では、70代を「老」80代を「耄」と言い、本来はおめでたい意味である。
《参考》
【公式】鹿児島弁ネット辞典(鹿児島弁辞典) (kagoshimaben-kentei.com)
