文字を持たなかった昭和392 介護(11) 姑⑤粗相
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書き始めた。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった「当時の状況①」、「当時の状況②」に始まり、舅・吉太郎(祖父)のお世話の様子(舅①、舅②)に続いて、
昭和40年代の終わり、姑・ハル(祖母)がぼんやりしていたり、一人であてもなく出かける(ように見えるが、本人にはちゃんと意図がある)「徘徊」が始まった様子など。
徘徊と前後して、ハルのお手洗いでの粗相が増えた。
ミヨ子たちの家のお手洗いといえば、農村家屋の典型的なスタイルとして、昭和40年代の半ば頃まで建屋の外にあったが、昭和47(1972)年頃に母屋の一部を改築し、お手洗いも家の中を通っていく、いわゆる「内便所」に変えた。汲み取りの和式ながら浄化槽を埋め込んだ新しいタイプで、床はタイル張りだった。
ただ外にあったお手洗いのうち、小用専用の壺――と言っていいのだろうか。桶?――だけは残した。男たちがちょっと用を足すのに、いちいち作業靴を脱がなくていいように、という理由だった。そして、基本和服、せいぜいモンペしか着たことのないハルも、この「壺」*で小用を足した。
壺に女性がどうやって? と、たいていの「いまの人」は思うだろう。
和服の女性はパンツを履かない。腰巻と(裾よけとも)いう大きな布のような下着を腰に巻きつけたうえに、襦袢を着け、着物を重ねる。「大」はともかく、「小」のときはしゃがみこまず、腰巻を少しはぐったぐらいで中腰になって、お小水を「滴らせる」のだ(この描写は難しい)。見ようによっては女性なのに立って用を足しているように映るだろう。農作業する田畑やそこへの道すがらなど、便器や「壺」などがない場所でも、女性は「小」ならお尻を丸出しにしてしゃがみこまずとも用を足せたのだ。
和服が日常着であった頃の習慣で、地域のおばあさんたちは「催して」くると手頃な籔に入って、中腰で用を足した。
そんな習慣もあり、働き者のハルも、履き物を脱がなくても用を足せる「壺」を愛用していた。しかし、家の中にいると逆に外に出て用を足すことになる。そのうち、外に出て「壺」に行きつく前に粗相するようになった。
*小用専用の壺、場合によっては地面に穴を掘って石などで囲んだそれを、地域の人びとは「しべんつぼ(小便壺)」と呼んでいた。日本でも古くは人糞も肥料にしていたわけだが、尿は別に溜めて肥料にした名残だと思われる。
