【おむすびはもう隠さない】~アイデンティティは食から生まれた~4
その4 子ども達が学んだ食との向き合い方
娘持参のお弁当
姉弟で最年長の巴奈が、大学で家を離れた。
大学の寮は、食事付き・食事なしの棟を選ぶことができるのだが、彼女は迷わず食事なしを選び自炊生活を始めた。
その巴奈が最初の帰省をした。一週間強の大学の休みに、電車で6時間かかる距離を帰って来た。帰宅早々、巴奈はリュックサックから取り出したタッパーを洗っている。冷蔵庫のものを使い切ってお弁当をつくり、それを電車のなかで食べてきたのだと言う。
その姿がいじらしかった。この時の鼻がツンとした気持ちを私は忘れない。親として蒔いた種が実をつけたのを見た初めてだったと思う。たまの電車旅行に、もうちょっと贅沢をさせてやりたかった自分と、学生の分をわきまえた娘を誇らしいと思う自分が居た。
こんなこと教えてないのに‥‥と思ったけれど、そりゃあ同じ釜の飯を共有するうちに、そんなことは沁み込むようにあたりまえになるのだ、と気づいた。
『子どもは親の背中を見て育つ』というが、それは生活様式ばかりではなかった。自分にまつわる多くのことは、無意識の積み重ねで形成されているのだろう。
そう、自分が何者かということも‥‥
アイデンティティは『模索する』ものだろうか。アイデンティティの欠片は日々の暮らしにこれほどまでに散りばめられていた。
それらを否定したり、再構築したり、迷いながら『確立』していくのかもしれない。
巴奈は「ハウスメイトたちはみんな冷蔵庫のものをゴミ箱にポイポイ捨ててたの」と言った。
そんなに簡単に捨てられるのは、買う時に自分の食べるものを吟味していないからのような気がするのだ。
子は親のしたことを肯定していればその通りにする。
生活を大切にしなければ、と身が引き締まる思いがした。
どこへ行っても食が繋げてくれた
長男の甲斐は大学三年目にスペイン語圏のウルグアイへ留学している。そして卒業後もまた中南米の旅に出て、メキシコやグァテマラでボランティアをして働いた。
私には想像もできない様々な人種や文化背景を持つ人たちとの出会いがあったに違いない。
色々な場所で寝泊まりする中、自分の食事を分け与えてくれた人も居たし、自分が分け与えたこともあっただろう。行く先々で人と深く繋がれた経験は、いつも『食べる』ことを通してだったと言う。
子ども達が小さい頃、私達家族はキャンプをしながらフランスを回った。現地の市場やスーパーマーケットでは、家族みんなで食料を選んだ。
夫が「イカを三杯、そのパテを200gください」などとフランス語で注文する。彼の第一外国語がフランス語ならば第二外国語は日本語ということになる。彼の外国語脳スイッチが入った途端、日本語もぞろぞろと出てきてしまう。
イギリス人が英語だけで事足りると思うのは傲慢だ、と夫は言う。
たとえカタコトでも、フランス語を臆せず使おうという姿勢は、いつでもフランス人から好意的に迎えられた。
相手は気づかないけれど、子どもたちは日本語を耳でキャッチしていた。一語一句漏らすまいと、夫の仏・日ごちゃまぜの会話に耳をそばだてながら。マーケットで汗をかきながらフランス語で買い物をする時、土地の人へ敬意を自然に学んだと思う。時には相手の英語のほうが上手だったこともあっただろう。コミカルだったのは間違いないけれど、子ども達は「ダディ、めっちゃ恥ずかしい」と言いながらも、その努力から得られる相手の好意も体感したと思う。
外食ばかりしていたら、レストランで盛りつけられた料理の食材の姿を知らなかったなんてこともあるだろう。私たちは買い物から料理、食べるから食器洗いまですべて一緒にやった。
例えばアーティチョーク。

最初は大きくてこんもりしたもののどこを食べるのかさっぱりわからない。
茹でたアーティチョークの花びらのような葉を一枚ずつ剥いていくと、最後に真ん中の根元に塊が残る。元の形が想像できないほど小さなものだからこそ、分け合った一切れの大切さを知るのだ。
花びらのような葉も無駄にせず、一枚一枚付け根を口にあてて歯でしごくようにして、柔らかい部分だけをこそげ取って食べていくのも楽しい。

新しく知った味にはどんなソースが合うかな、と探求心も出てくる。こんな時は親も子もなく、教える人でも追従する人でもないのがいい。

キャンプ場では毎朝、焼きたてのバゲットを積んだVANがやって来る。
フランス語を学校で学び始めた長女に、バゲットを2本買ってきてもらうことになった。巴奈12歳にして、はじめてのおつかい〈外国編〉というわけだ。彼女を知らない人にとってはたいしたタスクでないように見えるだろうが、引っ込み思案な彼女には大きな試練だったと思う。自意識が高まる年齢でもあり、逆に幼児であったほうが躊躇なくできたのかもしれない。
涙ぐむほど勇気をかき集め、重い足取りで向かった巴奈が、2本のバゲットを大事そうに誇らしそうに抱えて戻って来た姿を忘れない。あの時と同じ輝く笑顔で、巴奈は大学卒業と同時にフランスへ旅立って行ったっきり。結婚して今もパリに住む。
もしかしたら、あのちいさな達成感が原体験だったのかな、と思わないでもない。
一粒の米を通して
イギリス生まれの飛勇が、いつだったか私の実家で祖母(私の母)から、お茶碗にご飯つぶが残ったことを注意された。多分家でナイフとフォークで食べているのと勝手が違ったのだろう。フォークの幅に米を載せるのに比べたら、細いお箸で米粒をつままないと口まで運べないのだから。
その時に初めて、一粒一粒に神様が宿るほどのお米の尊さを教えられた飛勇。以来、我が家に戻ってからは、厳しいご飯つぶモニターとなって活躍した。
飛勇が生まれた時、私達は既に四十に差し掛かっていたのだ。少しずつ老眼が進んで、白いお皿の上のご飯つぶを見落としていたのだろう。それを指差して「ここ」「そこ」と最後の一つぶを教えてくれるのが、十八歳で家を離れるまで飛勇が日課のようにしていたことだ。
今にして思えば、「これが介護ってものなのか‥‥」とあの頃から思われていたのかもしれないぞ。
おむすびが呼吸するために
我が家で家族を30年間支えてくれた相棒がある。おむすびを入れる竹籠だ。
大きさが違う籠が四つ、本体と蓋で大小二つで使った後には、四つ入れ子で保管できる。

中に紙を敷いていたのには理由がある。籠の角が少しずつ劣化して、ところどころ穴が開いていたからだ。
これを使い続けた結果、四隅がこうなった。

この竹籠を使う度、いつか日本の竹職人さんの丈夫で美しい籠を、奮発して買いたいと思ってきた。
なかなか日本に行けずにここまで使い倒してしまった。次の帰省にこそ新調しようと思っていた矢先に、
こうなってしまった。

着なくなったセーターを熱湯で洗濯機に回すとフェルトになる。そのフェルトを使ったものだ。
同じくもう一つの籠も、違うフェルトで継当てをした。

穴が全部ふさがったので、もう紙は使わなくてもよくなり、今は直におむすびを入れている。
修繕後の竹籠を見て、うちの子どもたちはなんて言うだろうと思ったし、恥ずかしいと言われたら、今度こそ処分しようと思っていた。
ところが皆、口々に「かわいい」「凄い!」「新しいの要らんじゃん」と言ってくれるのだ。
ここまで寄り添ってきてくれた相棒は、今でも現役だ。
日本の職人さんの竹籠への憧れは消えたわけではない。いつかきっと、作業場で「これしかない!」と一つの籠に恋に落ちるのを夢見ている。子どもたちにプレゼントしたいなとも思うのである。
その5に続く‥‥
いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んでいただきありがとうございます。スキのハートは会員じゃなくてもポチっとできます。文章書くのに時間がかかる私です。あなたのスキが大きな励みになります♥