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花女13 | 半田唄子と中川幸夫、2人の癒着した内臓を別ける

2025年9月17日/記 
(敬称略)

 2018年12月に開催した「珈琲茶会」(注1)で、「女たちのいけばな」の題で話をして、中川幸夫の問題行動についても少し触れた。参加者の大半は美術関係の人だったが、その時の反応の1つが、〈 なんか、中川幸夫さんにはがっかりで、ショック 〉というものだった。参加者の多くがそんな感想を共有したようであり、この問題を語ることのむずかしさを実感した。 
 私としては、中川作品の水準の高さや、彼の努力、苦労、戦後いけばな史上の重要性を否定するつもりはなかったし、今もない。ただし、やたらと褒めちぎり、何もかも一緒くたに美化し、神格化するようなことは、したくない。あくまで人間として捉えたいのである。
 人間だからこそ、当然、いろいろな面がある。それらに対して、過剰に反応したり、いちいちあげつらってもしかたがない、とは思う。が、創作という点から見逃してはならないこともある。しかも、半田唄子と中川幸夫は、一心同体的なところがあって、癒着している2人の内臓をきちんと別けないと、半田の個性が見えてこない。少しばかり手荒い手術が必要なのである。 

(注1)愛知県犬山市にある私立美術館「岩田洗心館」で、2016年~19年、私が主宰して開催した自由参加の文化講座。「ミニレクチャー+議論」の形で20回開催したが、コロナ禍で休会、そのまま廃止となった。


🔴共同生活のリスク

(初出「日本女性新聞」2017/3/1 第38回)

(図1)半田唄子《不快指数》 卵紙パック 1961年 (中川幸夫・半田唄子造形オブジェ展)

 中川幸夫と結婚して半田は幸福だったのか、などと問うのは愚かであろう。そんなことは本人しか分からないからである。では作家としてはどうかだが、結婚は彼女に不利な状況を作り出したと判断するほかない。これまで見てきたように生活面では半田の負担の方が大きかった。そして創作面でも平等とは言い難いのである。
 2人をめぐって「相対(あいたい)生け」という、一見美しい言葉がある。貧しさゆえに花材を共有して2人が向き合って交替でいける、その様子を指した言葉だ。ただ雑誌の取材記事は真逆の場面を記録している。

 〈 バカッ。なぜ黙って、ボクの花を持ち出すんだ! 〉帰宅した中川氏が、いきなりどなった。〈 違うわ。これは、私の花です。私には、一輪の花も自由にできないの ⁉ 〉  二人は、一輪のアマリリスを中ににらみ合った(注1)。—— 花材も中川に優先権があり、そうした不平等に耐えてきた半田の姿が見えてくる。!

 半田は結婚前から前衛いけばなのトップランナーだった。そのことを本当に理解していたのは、当の中川である。彼は『いけばな芸術』1954年11-12月号のアンケートで、「戦後10年間に最も印象に残っている」作品としてただ1点、半田唄子の《天井に挑む》を挙げている。結婚の2年前のことで、この時にすでに彼女への恋心が芽生えていたのかどうかは微妙である。が、中川のことだ、作品評価に色恋を絡ませたりはしないだろう。ともかく半田は中川にとってライバルの資格をもつ作家だった。
 そして強烈な個性をもつ2人の結婚は、刺激し合って研鑽する「芸術的共同生活」だったはずだし、そうした側面もあったに違いない。2人が一緒に歩んだからこそ東京暮らしが続けられたように思われる。
 ただ、共同生活には相手に引きずられてしまうリスクもある。まして半田は明治生まれの女、なんだかんだと言いながらも自分を犠牲にする世代だ。昔は上流の女性ほどそういう教育を受けた。芸術的共同生活は半田の当初の想定と違っていったのではないだろうか。

 ここからはかなり強引な仮説。結婚から5年後の1961年に開催されたのが「中川幸夫・半田唄子造形オブジェ展」である。私は、芸術的共同生活の危うさをこの展覧会が象徴している、と見ている。仲良く2人展というところまでは共同生活の成果なのだが、問題は作品内容である。半田にオブジェ追求の必要があったのかどうか、私はそれさえ疑っているのだ。
 もちろん当時の前衛いけばなの潮流としてオブジェ志向があった。しかしその影響だけでなく、中川の個人的なオブジェ追求に引きずられた可能性を指摘しておきたいのである。

 中川の場合、人為でもって花の自然に深く介入する。花を操る彼のいけばなは、勅使河原蒼風とは異なる形ではあるにしても、同じく造形傾向が強いのである。中川のオブジェ追求には必然性があったと見てよい。
 半田は激しい個性の持ち主ではあるが、愛や情などをたっぷり抱えた人。花に対しても同様で、操るのではなく、花そのものを愛し、花の自然と共に生きるいけばなを好んだ人、そんなふうに推測したくなる。
 彫刻風の器物と絡み合わせるのも彼女の作風の一つではある。が、あくまで植物の自然を生かし、前面に出そうとする。そうだとすれば、2人の作風を峻別しなければならない。ところがこれがなかなか困難なのである。芸術的共同生活の副作用が絡むからだ。

(注1)鬼頭典子「花と貧乏の物語、その2」『女性自身』1969年5月31日号。
(図1)出典『日本の花者』草土出版、2014年刊。


🔴進化する白菜作品

(初出「日本女性新聞」2017/3/15 第39回)

(図1)半田唄子《11月の花》 白菜、カラスウリ、フウセントウワタ  1969年
 中川幸夫作のガラス器を使用

 半田と中川の芸術的共同生活の中身はどうだったのか。六畳一間(のちに+アトリエ1室)、それが生活と創作の全空間であった。互いの動向がまるわかりだし、人には見せたくない創作上の秘密も2人の間では筒抜けである。さらに日常的に作品批評や議論が続く。だからライバル同士でありながら一心同体的一面も生まれてくる。半田によると、中川のいけばなの先はこうなるだろうとか、あのテーマはこうだなとか、解ってしまうという。考え方や感覚の共有が相当に進んでいたと思われる。そして、それゆえの問題もある。

 中川に白菜作品《聲なき肉聲》がある。代表作の一つだが、彼が白菜を使ったのはこれが初めてではない。白東社時代にすでに取り組んでいて、その作を見た半田は〈 ギャフン 〉というほどの衝撃を受けた。作品写真はなく、正確な制作年も不明。ただ、それより少し前の1950年、四国の丸亀市で重森三玲が同類作品を見ていて、自著『現代挿花名作集』(桐華社)に収録している。
 その作品(図2)は、写真が薄くて解りづらいので、三玲の解説を参考にしよう。〈 八角形の白色コンポートに、白菜が中央に入れられ、蘇鉄の葉が四周からこれを囲んで 〉いると記している。蘇鉄の針状の葉を透かして見る白菜の美しい白色、半田が見たものと非常に近いと推測される。
 白菜作品を見た時の衝撃は本当に大きかったらしく、1969年になっても、まるで目の前のことのように雑誌記者に語っている。しかし、より興味深いのは、そのように語った1969年、半田が『日本女性新聞』に自身の白菜作品《11月の花》(図1)を発表していることだ。かつての中川作品よりも大幅に進化した白菜作品である。

 なるほど1950年という時点で白菜を用いた大胆さは中川の手柄である。が、この時の白菜は控え目である。当時は新鮮な作風だったにしても、蘇鉄と取り合わせただけの、わりにオーソドックスな作品構成に留まっている。半田の方は、白菜が堂々たる主役である。そして作品に添えられた彼女の言葉〈 古代エジプトに描かれた横顔の永遠の美 〉が示しているように、人の横顔に見立てる擬人化を狙ったようだ。新聞の編集者もそう判断したらしく、作品解説の見出しを「霜降月の白い横顔」としている(注1)。

(図2)中川幸夫「無題」蘇鉄、白菜 花器は八角コンポート 1950年。
(図3)中川幸夫《聲なき肉聲》白菜、羽根 自作ガラス器、染布 1973年。

 問題は、中川の《聲なき肉聲》(図3)が、その4年後の1973年に発表されていることだ。一目で横顔を連想させる巧みさがあり、その表情も豊かである。また、江戸時代の型染めだという風呂敷をバックにしていて全体にメリハリがある。総合的に見れば、完成度は半田作品より高い。
 しかし、である。半田作品に似すぎてはいないか。発想と作品構成の基本が同じなのだ。中川の初期白菜作品から半田の《11月の花》への進化は大きな一歩だったが、《11月の花》と《聲なき肉聲》の間にそこまで大きな進化があるとは思えない。だとすると、白菜を素材とした現代いけばな的作品展開という意味では、半田を始発としなければならない。半田の代表作の1つである。

 また、《11月の花》と《聲なき肉聲》は、類似点が多く、大げさに言えば、夫婦でなければ盗作疑惑に発展しかねないのである。夫婦だから類似作品の発表を許し合ったということか。過度の共有と許容は、やはり芸術的共同生活の副作用であろう。

(注1)『日本女性新聞』1969年11月12日号。
(図1)出典 前提書『日本の花者』。 ( 図2)出典『現代挿花名作集』桐華社、1950年刊。 (図3)出典『華』求龍堂、1977年刊。


🔴あのガラス器は誰のもの?

(初出「日本女性新聞」2017/4/1 第40回)

(図1)半田唄子《From one’s Heart》ガラス器(自作、1980年制作)、フウセンカズラ 1980年 

 半田唄子のお弟子さんだった千野共美に、千野が関わった本『日本の花者』(注1)に気になる箇所があったので聞いてみた。掲載作品にフウセンカズラの種子とガラス器を取り合わせた半田作品《From one’s Heart》(図1)があり、その作品データが「ガラス器(自作)」となっていたのである。「自作」というのは間違いではないかと聞いたのである。中川幸夫の作として知られているガラス器であり、中川のデザインで職人が製作した《迫る光》(図2)のはずだから。
 ところが意外な答えが返ってきた。あれは半田先生のもので、そのことは先生から何度も聞いているというのである。千野は1971年から半田が死去するまで師事した。また、中川とも彼の晩年まで交際があり、サポートを続けた数少ないいけばな人の一人である。その千野の話、私にはまったくの想定外で驚いた。

 ただし、少しばかりややこしい。半田は、職人に直接ではなく中川を通して製作を依頼しているのだ。おまけに中川は、ものが気に入ると自分用にも作らせたらしい。同類のものが複数あるかもしれず、中川の作品集にはそちらが使われたかもしれない。が、よく似ている。そして、そちらが仮に中川作だとしても、少なくとも原作(アイデアや基本的なデザイン指定)の権利は、あくまで半田にある、ということになる。

 《迫る光》は、中川の作品集にも収録され、彼の創作の一面を代表するものとして認知されている。その原作者が半田となると、それだけでも中川の作品世界の一部が剥落し、その分半田の世界が膨らむ。このガラス器は、半田作品にとって、花器の次元ではなく、作品に直結する構造になっているだけに、自作かどうかはより重要な意味をもつ。
 すでに評価の定まった中川にとってはたいした問題ではないかもしれないが、作品の記録が少ない半田には貴重な1点、おそらく彼女の後期代表作となるだろう作品である。

 ダイナミズムと開放感のある作品が多い半田だが、後期には、こうした優しく繊細な作風も登場していて、興味深い。で、これは検証した方がよいと判断したのである。少し細かな分析をするが、我慢してお付き合い願いたい。

(図2)中川幸夫《迫る光》ガラス、1980年制作。

 ガラス器の製作年は1980年で、これは間違いないようだ。そして半田は同年開催された「現代いけばな美術館1980」展にこのガラス器を使って《From one’s Heart》を発表している。《迫る光》のガラス器も1980年作となっている、が、中川にこのガラス器をいけばな作品に用いた形跡はない。
 また、ガラス器と呼んでいるが、器ではなく、手を模したガラス彫刻のようなもので、独特の雰囲気がある。誰かが一度使うと他の人が使いづらい。その点から考えると半田に所有権、あるいは優先権があったと見るのが自然であろう。
 独特の雰囲気ゆえに、それに沿ったいけ方が必要となる。ハート型の模様が浮き出るのがフウセンカズラの種子である。半田は模様の浮き出た多数の種子を手の中や周囲に配した。当時の批評を見ると彼女はその模様に宇宙論的意味を重ねて説明していたようである。千野の記憶では、人間の左にある心臓とつながっているのは右手、そんな話を聞いたという(注2)。作品に添えられた半田の文を紹介しておこう。

◆〈 生と死の混沌とした明闇のなかで、ゆらぎゆれながら〈心の底〉の耀く結晶を観た。開花からみのりのいぶくなかで必然とはいえ自由で大胆なドラマの神秘がかくされていることは驚きである。宇宙の人間の尊厳を謳うかのように 〉(注3)。

 文学的表現なので具体的な事柄は読み取れない。勝手な解釈を試みておこう。この時の半田は73歳頃、体調の関係で生と死に敏感になっていたのか、その種子にハート模様を生み出す植物の小さな生命のドラマに感動する。そして自身の心臓とつながる右手の中に愛らしい心臓(ハート)たちを配し、そうした命のつながりのイメージを宇宙の物語にまで広げる。半田のガラス器は右手でなければならないのである。

(注1)『日本の花者』草土出版、2014年刊。
(注2)このコラムが新聞に掲載されてからのこと。フラワーデザインの著名作家で、現代いけばなにも関わりをもつ松田隆作と話をした。〈 三頭谷さん、なんでこのことを知っているの? 〉と松田は言う。彼は「現代いけばな美術館」展に出品していて、会場で半田に作品の説明を聞いたことをよく覚えていたのである。〈 この時、半田さんのことはまったく知らなくて、妙なおばさんに捉まって作品の前に連れていかれた 〉らしく、印象深かったというのだ。松田も、ガラス器は半田の手を模した自作との説明だった、と記憶している。
(注3)「現代いけばな美術館1980」展の図録に掲載。
(図1)出典 前提書『日本の花者』。(図2)出典『はながらす』ギャラリー無有、1993年刊。



🔴中川幸夫、疑惑の問題行動

(初出「日本女性新聞」2017/4/15 第41回)

 前回に続いて半田唄子の《from one's heart》に使われたガラス器の問題を検証する。本人たちは亡くなっているので、私なりの仮説を立てて公表し、関係者の発言を待つことにしたのである。
 まずは半田の過去の作風との関連から見てみよう。注目すべきは、このガラス器が花器の形体をしていない彫刻のようなものだったこと、そして彼女には過去に彫刻風の花器を使った作品があることだ。連載31回に掲載した白東社時代の作品(図1)を思い出してもらいたい。人の頭部を模したような彫刻風花器(自作?)を使った作品のことだが、挿し口にいけただけでなく、植物を首のところに絡ませている。その部分だけを取り出せば、彫刻に植物を絡ませた小さなインスタレーションと言えなくもない。なお、この作品は1952年1月より前の作である。同年5月の大作《天井に挑む》に発展する作風をすでに見せていたことになる。

(図1)半田唄子の白東社時代の作品(アスパラガス、エリカ、スイートピーほか) 1952年1月以前

 《迫る光》のガラス器が中川の作だとしたら、どんなことが考えられるのだろうか。中川がこのガラス器をいけばな作品に用いた形跡はない。ではガラス彫刻として作ったのかだが、しかし、具象的すぎて中川作としては違和感が残る。
 もう一つ考えられるのが「写真作品」のための被写体である。最終作品形式が写真ということが中川作品には多い。その場合、私たちは「リアルいけばな」ではなく、「写真いけばな」を鑑賞しているのである。いけばなは作品が残らないのが普通で、それだけに写真の意味は大きい。とくに中川作品の場合、アパート内という密室でいけられ、現物の発表が一度もなく、いきなり写真画像で見るというケースが多くある。
 《迫る光》は現物をストレートに写した写真ではない。写真技術と照明技術によって大きく変貌した「写真作品」である。まさに《迫る光》というタイトルのとおり、過剰なくらいの光によって変貌させられているし、画像の下部が加工されているようなのだ。《迫る光》は立てた状態で撮影されているように思われる。しかし、おそらくガラス器の現物は横置きとして作られていて、そのままでは立たない。支えが必要で、その支えが写った部分を修正しているのではないか、というのが私の仮説である。

 現物が横置きだったとなると半田のガラス器の可能性が高い。中川にとっては、半田のガラス器だったとしても、写真化で別作品に変貌しているからかまわない、という気持ちだったのか。だとしても、半田のガラス器を使用したことを明記しなければならないはずだ。等々と考えていたら、また想定外の新たな疑惑が出てきてしまったのである。

(図2)中川幸夫《睡魔》
(図3)半田唄子《ふくらか》カーネーション、自作ガラス器。(『婦人画報』1982年3月号)

 半田の死から9年後の1993年、中川のガラス作品44点を収録した『はながらす』(ギャラリー無有)が発行された。トップページが《迫る光》、そして38番目に《睡魔》(図2)が収録されている。ところがこの《睡魔》は、『婦人画報』1982年3月号掲載の半田作品《ふくらか》(図3)で使用された彼女の自作花器と同じものなのである。

 撮影角度が異なるので違った印象を与えるが、よく見れば、ガラスのふくらみの奥に、もう一つのふくらみの一部が見える。まずは同じ花器であり、少なくとも類似の花器であることが分かる。『婦人画報』誌面に掲載された作品データには「花器/自作ガラス器」とある。明らかに半田の自作である。だとすると、なぜ中川のガラス作品集『はながらす』に入っているのか。
 さすがに自分の作品集に入れるのは問題ではないか、との疑惑が生まれる。共同生活、あるいは夫婦ゆえの許容範囲といった意識が中川にあったのだろうか。

(図1)出典『いけばな芸術』1952年2月号。 (図2)出典 前掲書『はながらす』。 (図3)出典『婦人画報』1982年3月号。


(花女13 | 半田唄子と中川幸夫、2人の癒着した内臓を別ける おわり)


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