花女01|女たちの文化参加
2025年6月3日/記
(敬称省略)
はじめに
10年ほど前、『日本女性新聞』に、ジェンダー的視点を加味した内容のコラム「女たちのいけばな」を連載した。全部で55回という、けっこう長い連載である。ただ、読んだ人は限られているだろうし、いけばな界内外の、いろいろな人に読んでもらいたいという思いが残った。それで、このブログ上に、新聞連載を下地にした「+G視点のいけばな論」シリーズを立ち上げ、すでに2論文を公開している。
新聞連載に肉付けしていく書き方をイメージしていたのだが、いざ書き始めると、肉がどんどん膨らんでいく。こりゃあ、まずい。55回もある連載に、この調子で肉付けしていくとなると、私も高齢、生きている内には終わらない。
というわけで、「+G視点のいけばな論」とは別に、新聞連載に一部加筆する「改訂版 女たちのいけばな」を立ち上げ、先行させることにした。改訂版1回ごとに、新聞版の3回~5回を併載していく予定である。
🔴本来検証すべきことを検証
(初出「日本女性新聞」2015,1,1 第1回)
今、いけばなという文化に触れ、関わり、楽しんでいる人の大半が女性である。これは誰もが知っていることなので、何をいまさらといった声が聞こえてきそうだが、少し待ってほしい。「女性専科」と呼んでよいほど、女性によって成り立っている文化なのに、その文化のあり方とか歴史についての真剣な議論や研究となると、ほとんどないに等しいのである。
どこかおかしい。何かを見誤り、本来検証すべきことをやっていないのではないか。ならば「女性」という点を意識しながら、いけばなを見直してみよう。それが今回の連載執筆の動機である。
いけばなには、表現、生活、装飾、習い事など、多様な因子がある。しかもそれらの因子が複雑に絡み合って進化する、研究者にとっては一筋縄ではいかない、やっかいな文化である。
ただ、近代という限定で観察すると、表現因子が格段に大きく働いたし、表現面の拡張こそ近代いけばなの一大特徴となっていることに気づかされる。そして表現を意味あるものとして保証したのが「芸術」という価値観であった。だから重森三玲が主導した昭和8年の新興いけばな宣言(未発表で終わったが)は、〈 何よりこれは芸術である 〉と強く主張したわけである。彫刻家出身の小原雲心から自由花、新興いけばな、前衛いけばなに至る流れは、芸術的表現へ向かう、明快な一本の道なのである。
この道は、その多くが男性であった家元や指導者たちが求めた、いわば表街道である。近代化の中で世の中にどんどん浸透していく「芸術」という価値観、それを共有するための道であった。しかし、女たちはどうだったか、この道を是としたのかどうか、渇望したのかどうか……。
それはともかく、長い間男性専科であったいけばなは、女性専科へと、驚愕の大変貌を遂げた。明治以降のいけばなの主役は女性であり、女性が何を望むかによって、いけばなは栄えもするし滅びもする。女性という視点は必須の要件なのである。
かつて女性は、男より能力が劣るとされ、男より一段も二段も低い立場しか与えられなかった。江戸末期の水戸藩を例にとろう。女性解放運動の思想的原点とも評される山川菊栄、その彼女が母から聞き取った話をもとに書いた『武家の女性』(注1)には、下級武士の妻や娘たちの日常が描かれている。
それによると、当時は〈 女中たりとも女はほとんど外に出ず、往来で女の姿を見かけることは稀 〉だったし、〈 女の一人歩きは、主人の顔にかかわる 〉恥とされた。また、〈 女は平仮名で手紙のやり取りができれば十分 〉というのが当時の常識だった。女の子も満6歳で手習いのお師匠さんへ弟子入りするのだが、まず「いろは」を習い、それから『百人一首』『女今川』『女大学』などを、平仮名で習う。そして12、3歳にもなると、裁縫の稽古の方が忙しくなり、学びから離れていったらしい。
こんなこともある。幕末の水戸藩では、佐幕派と勤皇派とが争う、血で血を洗う内乱があった。ところが、目の前で起きていることなのに、女たちは何ひとつ教えてもらえないのである。その内乱で親や夫を失い、絶望のどん底に突き落とされるのは女たちなのだが。
こうした極端な例は別にしても、家内労働と忍従に耐える日常からようやく起き上がり、よちよちと歩み始めたのが、女性の近代であった。「女たちのいけばな」も同様なのではないか。どこへ向かうか分からない、そのよちよち歩きから見つめ直す必要がある。
私の本籍は男性だが、いったん女性の立場に越境し、そこから見えてくる風景を観察してみようと思う。もうひとつの近代いけばな史である。
(注1)『武家の女性』、岩波文庫1983年刊。(初版は三国書房1943年)
🔴女性の文化参加が時代を動かす
(初出『日本女性新聞』2015,2,1 第2回)
明治初期は、文明開化の掛け声とともに、大急ぎで西洋に学ぼうとする欧化主義が圧倒的な勢いをもっていた。これに対して伝統を重視する国粋主義が台頭し、対抗する。その葛藤と格闘が日本文化の形を作ったと見てよいだろう。で、その結果はどうなのか。
たとえば絵画では、日本画と洋画が分離し、それぞれが並行して発展する形になった。身を二つにして文明開化の衝撃をやわらげたのである。世界の新潮流は洋画で受け入れ、伝統は日本画で受け継ぐ。「和と洋」の使いわけ文化であり、実に巧妙な日本的解決法であった。
いけばなはどうかというと、明治初期に大打撃を受けて衰退した。この時期の状況を雄弁に語っているのが、工藤昌伸の『日本いけばな文化史』にも紹介されている手紙である。江戸で隆盛を誇っていた古流だが、四世家元・関本理恩は、明治4年に、金沢の古流関係者に次のような文面の手紙を送っている。
◆〈 近年世柄悪しく、一年ましに世上窮迫いたし、為に旧冬より当春にいたりても宅の稽古一人もなく、出稽古も漸く十人ばかり 〉◆(注1)
伝統軽視の風潮だけが影響したのではない。当時の東京では、諸藩の武士たちが国元に帰ったため、一時的に極端な人口流出が起きて、大名屋敷などは荒れ放題だったという。当然ながら商家の破産も多かったはず。加賀藩や商人世界に基盤をもっていた古流の打撃は大きかったと思われる。
ただ、面白いことに、文人画が流行していたように、文人花は栄えたようだ。明治の指導者層の文人趣味によって支えられたのである。また、明治に入っても浮世絵が一定の役割を果たしていたが、いけばなでは浮世絵に類似する曲線美の遠州流が勢力を保っていたようである。明治の庶民に受け継がれた江戸趣味が有利に働いたものと推測される。遠州流は、古流などとは違った支持層をもっていた可能性がある。
問題はその後のいけばな復興の流れをどう見るかである。明20年前後からの国粋主義の台頭によって息を吹き返したことは確かであろう。明治22年に池坊が東京に「池坊華務課出張所」を設立。古流の動きも活発になり、様々な人材が結集し、明治31年には「花友会」を結成した。こうした動きが次の時代の中核になった。
しかし、それだけなら、その後のいけばな界の繁栄はやってこなかったのではないか。せいぜい小さないけばな界ができて、時とともに衰退し、無形文化財になる可能性さえあったのでは・・・。
これは極端な見方かもしれないが、伝統的な文化で、今では伝承がきびしくなっている分野もあるわけだから、それほど無茶な見方ではないだろう。もちろん、いけばなの場合、そのようにはならなかった。女性が参入したからである。明治以降、女性の文化参加は、時代を動かす大河であった。
長い間、女性の文化参加はせき止められていた。「三従」 (幼い時は父に従い、結婚後は夫に、夫が死んだら子に従う) の教えは古くからあったし(注2)、「女訓」「女徳」などの思想によって心身を縛られ続けてきた。とりわけ封建制社会が確立されてからの武家社会の女性はそうだ。恋をする自由もなく、社交の機会、財産権も奪われていた。女性史を創始した高群逸枝は、『女性の歴史』(注3)で、室町時代以降の女たちは〈ほとんど無能力者となったし、したがって文化的所産もない〉と断じている。
明快な断定だが、結論を急ぎすぎているところもある。武士と農民や商人ではずいぶん事情が違うだろうし、何をもって文化的所産とするか、その見方次第では結論が変わってくるからである。ただ、綜合的に見れば、女性の力が日本社会の巨大ダムによってせき止められてきた歴史を認めないわけにはいかない。そして明治維新は、この巨大ダムに損傷を与えた。大河の水はゆっくりと、時に激しく、日本の津々浦々に流れ始めるのである。
(注1)『日本いけばな文化史 3』同朋舎出版、1993年刊。この有名な手紙の初出は、1954年(昭和29)12月刊の『伝統芸術講座第7巻いけばな』(河出書房)で、筆者は同書の「第3章の明治-大正いけばな史」を分担執筆した下田尚利である。下田による手紙文の引用は少しだけ長く、以下のとおりである。
◆〈 ご承知の通り、近年世柄悪しく、一年ましに世上窮迫いたし、為に旧冬より当春にいたりても宅の稽古一人もなく、出稽古も漸く十人ばかり、盆暮二度の附届けの仁五六軒も御座候に付、日々の生活の儀殆んど当惑つかまつり候・・・〉。
最初は早大の卒業論文「近代いけばな史」で書き、それから間を置かずに『伝統芸術講座』でも書くことになった。興味深いのは、当時若者だった下田の研究が、いきなりメジャーデビューできたことだ。前衛運動が盛んだった時期ならではのことである。この本では、下田の仲間の工藤昌伸や重森弘淹も分担執筆している。
なお、下田は、この本の文中で古流四世家元・関本理遊と書いているが、これは関本理恩の誤りだと思われる。
(注2)「三従」については、「花G01|いけばな文化は、女性排除で始まった」で詳しく書いているので、参照していただきたい。
(注3)『女性の歴史 上‣下』 講談社文庫、1972年刊。 (初版は全4巻、講談社、1954~58年、)
🔴江戸の女性たちの遊芸
(初出「日本女性新聞」2015,2,15 第3回)

近代いけばなは、女性が主役の文化である。その歴史を探りたいのだが、近代以前のことも気になる。まずは江戸時代の女性たちの文化参加の様子を探ってみよう。その実態はどうだったのか。
西山松之助の『家元の研究』(注1)は、女性の数について触れていて、たいへん参考になる。江戸時代最後の安定期、町人文化が栄えた文化・文政(1804~1830)頃のこと。西山によると、〈(正風遠州流の)「華道社中連名」の845人中、女性は僅か80人にすぎない。「古流生花宗匠録」では445人中、女性宗匠は僅か23人だけである〉。そうすると、前者が9%強、後者が約5%ということになる。茶道の藪内流の女性比率はもっと少なく、西山は〈 すべての遊芸人口は、江戸時代においては、ほとんど例外なく男性によって占められていた 〉と見る。
もちろん名を記載されないような素人弟子がかなりあっただろうし、そこでの女性の比率はもっと高かった可能性もある。この点の判断はむずかしい。
別のアプローチを試みたい。この頃の戯作に式亭三馬の『浮世風呂』(注2)があり、銭湯を舞台に様々な人間模様が描かれている。そのなかに10歳くらいの町娘2人が寺子屋や三味線、踊り、琴の稽古で遊ぶ暇がなく、〈 いやでいやでならない 〉とぼやく場面が出てくる。当時、武家奉公するには遊芸を身に着けていると有利だった。それで町人たちは競って娘の遊芸教育に力を入れた。が、親の思いだけが過熱すると、子どもが気の毒なことになる。今も昔も・・・。
銭湯なら客は庶民と考えがちだが、この頃は自宅に風呂がないのが一般的だった。だから銭湯には武士も入れば、裕福な町人一家も入った。庶民とは限らないのである。娘を稽古漬けにできる家となると、かなり裕福だったのでは。
別の場面では、中高年世代の女性2人が登場し、毒舌を吐く。近隣に住む武家奉公出の若妻が気に入らなかったらしい。〈 ヤレ香をかぐの茶を食らう 〉などの遊芸三昧に加え、芝居見物三昧、贅沢三昧。それに武家礼法を鼻にかけて、お高くとまっているのが癪にさわったのだ。で、2人でさんざん若妻をこき下ろしたのち、1人がこんなセリフを吐く。〈 そうさ花を活けるの琴を弾くのと所帯もちのいらねえ事さ。飯を炊いて着物を縫って 〉、家のことをちゃんとやれば女房の役は十分だと・・・。嫉妬心半ばといった感じである。
戯作であり、あくまでフィクションなのだが、細部のリアリティーにこだわる作風だと言われているので、おそらく事実に近い。格差の現実を感じさせる場面である。
江戸時代の支配階級である武士たちは、前時代からの文化を継承したけども、新しい文化を創造しえなかったという見方がある。たしかに江戸時代の文化創造は、圧倒的に町人によってなされた。遊芸は、そうした文化のひとつの形である。そして、奉公に遊芸が有利ということは、武士たちが遊芸を所望し楽しんだことを意味し、町人文化が武士階級にも浸透していたことを物語っている。
こうしてみると、遊芸としてのいけばな文化に女性たちがある程度参加していたことは明らかである。思ったより多いという印象も受ける。遊芸化が女性参加の敷居を低くしたのだろうか。ただし経済的余裕が必要であり、庶民一般に広がったとまでは言えないようである。
(注1)『家元の研究』(西山松之助著作集1)吉川弘文館、1982年刊。(初版は校倉書房、1959年)
(注2)『新日本古典文学大系 86 浮世風呂 戯場粋言幕の外 大千世界楽屋探』岩波書店、1989年刊。(『浮世風呂』の初版は4編9冊、文化6~10年)
(花女01|女たちの文化参加 おわり)
