雑10| あの時代、そして『裸眼』のこと
2025年 5月28 日/記
(敬称略)
昨年、札幌の柴橋伴夫から電話があり、〈 ご無沙汰してます。元気でしたか? 自分の本を送りたいのだけど、住所変わっていないか 〉と聞いてきた。私は、〈 いやー、懐かしいね。電話してもらってよかった、電話は変わってないけど引っ越しているから 〉と答えた。そして、今年になってから、もう1人、やはり懐かしい人から連絡があった。かつて福岡で、その後は横浜に移って活動を続けている山野真悟から連絡があり、メールでやり取りした。〈 いろいろ話したいことはあるけども、とりあえず本を送る 〉ということだった。
まるで旧友との交信といった感じなのだが、実は、彼らとはこれまで一度も会っていないのである。昔、名古屋で仲間たちとやっていた美術雑誌『裸眼』に執筆してもらい、原稿依頼の連絡などで短い手紙を交わす程度の関係だった。しかも、30年以上も前のことだ。『裸眼』の廃刊後、縁は途切れた。ただ、ふと彼らのことを思い出すことがあって、あの時代を回想し、温かい気持ちになる。今回の連絡は、懐かしく、嬉しかった。それだけでなく、『裸眼』のこと、あの時代のことを、もう一度考えろと促されたような気がした。
毒薬大系と8号室のあと
自分の1970年代後半の活動は、前にも書いたとおり、雑誌『毒薬大系』の発行と「8号室」がすべてだった。両方ともマイナーな活動で、とりわけ発行部数25部の『毒薬大系』は、1979年12月に廃刊したが、当時も今も社会的認知ゼロの雑誌である。
8号室の方は、当時の名古屋ではまだ少数派だった現代美術を目指す若者たちが集まり、自主運営の場を作り、個展、企画展、討論会などをおこなった。援護なし、忖度なしの路線を突っ走っていたので、名古屋の細々とした現代美術路線からもこぼれ落ちていた。そして、時代の変化とともに失速し、1980年7月をもって閉室した。
私としては完全な挫折だった。ただ、傷心?に浸っていたかというと、そんな暇はなかった。現代美術が地方に拡大しつつあり、じきにその波に乗っかることになったのである。翌年には『美術手帖』「展評」名古屋欄の担当を依頼され、8月号から執筆を始めた。それが終わるとすぐに『C&D』や『毎日新聞(中部本社)』の美術欄を担当するなど、ずっと仕事が続いた。当時は地方公務員をしていたのでその勤務があるから、オバーワーク気味になった。
メジャーなメディアの仕事はありがたかったが、その先に未来を見ていたわけじゃない。なにより自由な活動を渇望していたので、自主独立したメディアが欲しかった。それが旧「8号室」関係者を中心に立ち上げた『裸眼』である。結果、完全なオーバーワーク生活が始まってしまった。すでに30代最末期、ちょっとキツイが踏ん張るほかない。自分が選んだ二重生活だから、しかたがないのである。ただ、二重生活にはメリハリがあって、意外に自分の性分に合っていたのかもしれない。のちに大学に転職して美術を飯の種にするわけだが、虚業で飯を食うといった違和感があって、少し居心地が悪かった。
なお、これまで『裸眼』と記してきたが、第1号と第2号は『美術読本』の名で発行している。のちに述べるとおり、「発売停止事件」をへて、誌名を変更したのである。
「地域」の可能性を夢見て
『裸眼(美術読本)』の創刊は1980年代後半に入ってからだが、自分としては前半期をふくめて、あの時代という感触である。文化の穴倉生活を切り上げて、表通りの明るい日差しの中で活動してもよいと思った時代である。
現代美術の動向に期待していたのではない。すでに「新しさ」の神話は崩れ、海外美術の動向に左右されてきた現代美術のメッキは剥がれていた。剥げ落ちたあとの、うわべだけのポストモダンなどは単なる衰退に思えて、たいして魅力を感じなかった。しかも自分は地方に生活している。東京の流行現象を川下で待ち受けるかのような「地方」文化の様態をバカバカしいと思っていた。
あの時代は、「地域」文化が勢いをもってきた時代だったような気がする。名古屋では、ようやく現代美術活動が活発となり、画廊も増えた。展覧会のオープニングには多数の若者が押し寄せたことからも分かるように、時代を共有しようという空気が生まれていた。相変わらず川上から川下への流れはあったけども、その影響以上に、皆が目の前の創造行為に目を向けようとしていた。
そうした時代の変化がなければ、私が企画した111人の女性展「女たちによる感性のモザイク111」展(注1)は成立しなかったはずである。この展覧会は1984年12月の開催だったが、それより前の同年7月にも、企画展を手がけている。当時は新興の画廊だったギャラリー・ウエストベスの依頼で企画した「オールタナティブアート もうひとつの美術から」展である。生活と美術の接点に目を凝らす3人の美術家(大嶽恵子、しまむらひろし、林まさみつ)を、連続個展の形で紹介するものだった。案内状に企画趣旨を書いているので、下に写しを載せておく。

「新興画廊×駆け出し美術評論家」の構図は、まさにこの時代の新しい空気を反映している。とはいえ、画廊としては冒険だったし、オーナー小塚正和は、〈 三頭谷氏には、もっと正統派の美術評論家になってほしいのだけどね 〉、とぼやいていたのを思い出す。そう言いつつも彼は私と名古屋のあの時代の空気を仲良く味わっていた。
(注1)「女たちによる感性のモザイク111」展については、「花 G00 序論 +G(ジェンダー)視点の自分史的背景」で詳しく論じているので、参照していただきたい。
『裸眼(美術読本)』の創刊
※『裸眼』は、複数の編集メンバーがそれぞれの立場と方法で関わった雑誌なので、人によって雑誌に対する感想や考えが違って当然である。ここに書いている内容は、あくまで私の見方によるものということをお断りしておきたい。

あの時代、前衛時代のような激しさはない。けれども、前衛時代のような欲望過剰に陥らないで、無理なく創造的な行為に没頭できそうな雰囲気があった。「地域」内に創造的な文化状況を創れるのではないか、との期待感が私の中に生まれていた。自分としては「牧歌的」と呼んでもよい時代だったのである。
甘かったかもしれない。が、全国的にもそうした気運があったと思う。創刊号にこんなことを書いた。
◆〈 『ルナミジャーナル』40号に、「札幌からの発信」という一文がのっていた。柴橋伴夫さんが書いた文章で、札幌を中心に北海道の美術状況が手際よくレポートされている。彼はその中で、「中央集権型の情報過多は、くずれて、多焦点、複相した地域分散型がすすむ予感」と、そういう方向へ積極的に「革新してゆく必要」を語っている。確かに、こうした動き-考え方が全国各地に始まっているように思える。この<発信>が、地方からの視座で、しかも冷静に語るべきことを語っている点に、まず賛同したい 〉(三頭谷鷹史「地方からの想像力」 注2)。
文中の柴橋伴夫は、冒頭で触れた人物なわけだが、この時点ではまるで知らない人だった。遠く離れた他の「地域」で、自分と同じような状況判断と考えをもっている人を発見し、大いに励まされた。すぐに連絡を取ったかどうか覚えていないが、第3号から札幌や北海道の美術状況について書いてもらっている。
創刊までの経緯に少し触れておこう。8号室の閉室後、1981年8月頃に私の呼びかけで、8号室関係者を中心に「思索過程としての日本・アジア研究会」を発足。82年9月に、鈴木敏春らによる『ON THE BEACH』誌発行。研究会と雑誌は、メンバーがほぼ重なり、密接な関係を保っていたが、一応は別組織として並行的に活動していた。
その後、両者を解体して、新たに『美術読本』に再編成することになり、1986年1月の創刊となった。この経緯からもわかるように、単に美術雑誌を発行するというのではなく、研究会機能を合わせ持つはずであった。ただ、実際には編集作業に追われることになり、研究会の方は、のちになって『裸眼』壱金講座として実現させた。
創刊時の編集メンバーは、私、大賀たいが、鈴木敏春、西島一洋の4人で、研究会の時に比べて人数がかなり減っている。起業して忙しくなったり、遠方に引っ越したり、等々の事情で、参加できなくなった人がいたからである。ともかく5号までこのメンバーで、その後に変動があった(注3)。
新書判サイズ、40ページ程度という小さな雑誌である。定型郵便で送れる大きさなので扱いやすいし、なにより郵送費用が抑えられる。当時は手書き原稿の上に写植印刷なので、かなりの費用がかかる。もちろん広告や購読料でまかなえるものではない。発行所(事務局)は西島一洋宅で、多くの事務を彼に頼ったし、彼の熱意と尽力がなければ続かなかった雑誌だと思う。
『裸眼』には「地域主義」が濃厚にあった。美術に資する公平なメディアなんてことは、まるで頭になかった。地域の美術を活性化させるための文化運動のつもりだった。事実、創刊号では編集メンバー全員が地域に関わる文章を書いている。
「地域」へこだわるなら、他「地域」にもこだわるべき、と考えた。「net work」という名で、北海道から沖縄まで、毎回、地域の人に執筆してもらうことで全国各地をつないだ。採算を考える『美術手帖』では「展評」に名古屋欄を加えるのが精一杯であり、全国の情報にもっとも詳しいのは我が雑誌だと、小さな体で吠えていた。東京情報はなし、と決めていた。
東京の人たちを敵視していたわけではない。私もたまには東京に行くし、評論家仲間の北澤憲昭にはずいぶん世話になった。お上り同然の私に多くの画廊を紹介してくれたのも北澤だったし、そうした画廊の一部には『裸眼』の委託販売を創刊号からお願いしている。なお、「net work」は、のちに東京情報も取り入れている。
(注2)三頭谷鷹史「連邦文化論・序 地方からの想像力」『美術読本』第1号、1986年1月発行。なお、『ルナミジャーナル』40号(GALLERY LUNAMI発行)は、手元にないので推測だが、1985年10月の発行だと思われる。
(注3) 6号から茂登山清文・木方幹人・新見永治・米島竜雄が参加。7号より大賀脱退、8号より岩田正人・佐藤英治が参加。10号より三浦幸夫参加、茂登山・新見・米島脱退。
『美術読本』発売停止となる
『美術読本』は、『美術手帖』や『アトリエ』などの編集部にも送った。応援してもらうつもりだったと思う。そして、事件が起きた。『美術読本』第2号の発行後、事務局の西島宅に内容証明郵便が郵送されてきたのである。発信元は東京のアトリエ出版社で、誌名についての勧告であった。「美術読本」は、アトリエ出版社が新企画準備のために商標登録した名称であり、この名称を使わないこと、現在発売中のものもただちに発売停止せよ、と勧告してきたのである。
内容証明郵便など編集メンバー全員が初めて見る代物だった。商標権のことも詳しくは知らないし、自分たちとは無縁のものと思っていた。あわてて編集メンバーの1人が法律無料相談所へ出かけ、他は図書館へと急いだ。で、結果として、法的には勝ち目がないことが分かった。

当時、私たちの雑誌のほかに『美術読本』という名の雑誌は出版されていない。日本の場合、法そのものにも問題があり、出願主義なので、実際には使われていない幽霊商標が膨大に登録されているという。アトリエ出版社は、社長が、営利目的で、自分が登録した商標を売っているとの噂を聞いた。それも商売の一つではあろうが、普通の手紙、電話の一本でもあれば、私たちは〈 申し訳ない、次号から名前を変えます 〉と簡単に引き下がったはずである。
いきなりの、裁判を前提にした内容証明郵便は、明らかな脅し。地方のミニコミなど、一ひねりといった侮蔑の気持ちが透けて見えた。若気の至りというほど若くはなかったが、ついイキリ立ち、勧告には従った上で、事件の経緯と自分たちの考えを広く伝えるため、号外を出すことにした。予定外の出費と労働がともなうが、やむを得ない、定期購読者はもちろん、美術年鑑で全国の美術関係者の住所を調べて、号外を送った。アトリエ出版社にも送った。
ずっとあとで知ったのだが、美術評論家の石崎浩一郎から、〈 あの「号外」が届いてから、すぐにアトリエ出版社からも文書が送られてきた 〉と聞いた。内容は知らない、こちらには送られてこなかったからだ。こちらが送っているのに、送ってこないとは! ともかく、アトリエ出版社にとって、号外は想定外で、しかもそれなりに痛かったようだ。結果、「窮鼠猫を嚙む」ことになったわけである。
以下に、1986年12月1日発行の「号外」の写しと、同日発行の『裸眼』第3号(改名第1号)に書いた文の一部を再録しておく。

◆〈 いわゆるミニコミ誌のほとんどが商標登録などしていないだろう。手続きにかなりの費用が必要で、しかも出願から商標権を得るまで、3年程度は待たねばならない。もともと弱体なミニコミのこと、出てはつぶれが常識、3年は大半のミニコミをつぶすのに十分な期間である。
それほど弱々しいが、ミニコミ文化を無意味なものと考えたくはない。限られた読者と毎号の赤字、しかし、自然発生・自然発育はミニコミの良さである。衝動的であれ、「今、すぐに、伝えたい」ことをミニコミは伝える。その中には、メジャー誌から切り捨てられた情報やメジャー誌を超える内容も含まれている。メジャーが果たしている役割は、あくまで文化の一部分であることを忘れてはならない。
『裸眼』(旧美術読本)は商標登録をしない。商標権は企業防衛に有効であっても、ミニコミの自然発生・自然発育を守ってはくれないからである 〉。
(三頭谷鷹史「『美術読本』発売停止事件」 『裸眼』第3号)。
当時のミニコミ誌には、今のSNSに近いようなところがある。もちろん状況が違いすぎて、安易に比較できないのだが。
さて、商標登録をしない、としたものの、実は困った。もう面倒なトラブルを起こしたくない。登録されていないような名ということで、ヘンな話だが、人が嫌がる、売れそうにない誌名を探したのである。それで、辞書を舐めるように読んで、「裸眼」とした。宗教関係にはありそうな名だが、まあいいや、と決めたのである。幸い、どこからも苦情は来なかった。
『裸眼』第3号 「ゼロ次元」特集

改名第1号である『裸眼』第3号は、「ゼロ次元」を特集した。私は、学生だった京都時代にゼロ次元のことを情報として少し知り、名古屋発の過激なパフォーマンス集団ということでも関心をもっていた。帰郷してから、ゼロ次元とも交流のあった水上旬から、〈 あなたの知っているゼロ次元は東京情報ですよ、しっかり把握してください 〉と諭された。ようするに偏向した情報だったということだ。しかも、当時の名古屋の人たちは、ゼロ次元にまるで関心をもとうとしていなかった。行政とはよくぶつかっていたので、行政だけは強い関心をもち、敵視していた。
1960年代の初期に名古屋で活動を始めたゼロ次元だが、じきに加藤好弘が東京に移住することで、名古屋の岩田信市と東京の加藤がそれぞれ核となる二系列活動となり、時に合同の活動をする、といったスタイルになった。そして個性の大きく異なる2人の融合、というより混在したパフォーマンスがゼロ次元だったのである。ところが無類のアジテーターであった加藤が発する東京情報のみが全国に流れる結果となった。
例えば、私が京都時代に得たもっとも詳しい情報は、1969年頃に無名時代の嵐山光三郎が風俗雑誌『実話情報』に書いた一文だった。雑誌は紛失してしまったが、確か、そこにはゼロ次元の主宰者は加藤で、岩田は番頭と書いてあったと記憶している。東京ではそのように見られていたのだろう。そうした見方では、個性が違う2人が混在するからこそ個性的となったゼロ次元の、中身が見えてこない。
また、加藤は1970年の反万博闘争でゼロ次元は終わったとしているが、岩田は違う見解を示している。名古屋では、岩田らが行政と激しく対立した「ゴミ裁判」などもゼロ次元活動の連続的側面をもつ。そして、1979年、劇集団「ロック歌舞伎スーパー一座」を立ち上げることで、名古屋ゼロ次元が終わるのである。
なるほどゼロ次元を全国的な銘柄にしたのは、加藤の功績である。ただ、実体とズレがあり、これは地域から修正するほかない。
岩田と出会ったのは8号室時代だが、一筋縄ではいかない人なので、仲良く喧嘩しながら、徐々に相互理解を深めていった。そして私は、1981年の『美術手帖』12月号の展評で、岩田信市個展と彼が主宰・演出するロック歌舞伎の両方に言及し、〈 ゼロ次元の80年代における一つの回答が、このロック歌舞伎である 〉と書いた。
ただ、この点についての理解は、今日でも広まっていないだろう。美術を逸脱しているから美術関係者は理解できない、演劇を逸脱しているから演劇人の思考は追い付かない。それくらいユニークということでもある。
その後の『裸眼』、そして「富山県立近代美術館事件」


『裸眼』は、1986年1月に創刊し、年3回発行を公言していたから、初年度は約束を果たした。が、号外の発行もあって、翌1987年は2回(4月と11月)の発行にとどまった。内容としては、タイ国留学生によるタイ美術紹介、社会運動家による暮らしの問題提起、名古屋圏内の若手美術家の紹介、等々である。ただ、毎回掲載の「net work」欄の存在が大きくなり、1988年3月発行の第6号では、「net work」の全面特集を試みている。そして同年12月発行の第7号が「富山県立近代美術館事件」の特集である。


『裸眼』の存在と編集姿勢がいろいろなところに伝わっていたのか、縁もゆかりもない富山の小倉利丸から、富山県立近代美術館で起きた事件について連絡が入った。美術館収蔵の大浦信行作品、それは天皇裕仁の肖像と古典絵画、解剖図、裸婦などをコラージュ風に構成した版画作品なのだが、1986年、県会議員のクレーム等によって公開禁止になったのである。
小倉の第一報に続いて、彼が主導していた市民運動の会が発行した冊子『頽廃芸術の夜明け』(1988年2月発行)が届き、事件の詳細が見えてきた。のちに「昭和天皇コラージュ事件」と呼ばれることになるが、その当時は、まだマスコミ、美術雑誌なども、十分な形で事件を報じていなかった。そうしたジャーナリズムの動向を踏まえて、この事件に取り組むべきだと判断したのである。
なお、その後、作品の売却や関連図録の焼却という事態に至り、『裸眼』として、そして編集メンバー個々としても、それぞれのやり方で事件に関わることになる。
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」騒動までつながる事件に、早い段階で向き合ったわけであり、小雑誌とはいえ、当時、第三者的立場による最初のジャーナルになりえたものと自負している。ただ、その流れの末端が、今さらになって、我が地元に到達するとは予想していなかった。
トリエンナーレの騒動では、かつて共に活動した大浦や小倉も名古屋にやってきた。私は、残念ながら問題点がズレてしまっていると判断し、抗議集会には参加しなかった。この件については、翌年に一文を公表しているが、別の機会に紹介させてもらおう。
『裸眼』と「アパルトヘイト否!国際美術展」
この論考、予定外に長文になってしまった。もう8000字くらいになるが、まだ道半ば、申し訳ないが、休み休み読んでいただきたい。

特集「精読『アパルトヘイト否!国際美術展・名古屋展』」 表紙と目次
次号の第8号の発行が、1年半もたった1990年7月で、これほど遅れたのには訳がある。
南アのアパルトヘイトに反対する美術展が、世界各国を巡回していたが、1988年に日本にも上陸し、国内を巡回することになった。アルマン、ラウシェンバーグ、リキテンスタイン、ハミルトン、タピエスなど81名が参加する大規模な展覧会だ。
上陸直前くらいの時期に『美術手帖』から批評を頼まれた。そんな時期だったから、展覧会は見ていない。海外版の図録と資料が送られてきて、それをもとに文を書き、同年8月号に掲載された。
アパルトヘイトそのものは、はるか彼方の地の、縁の遠い話だ。しかし、日本と関係ないわけじゃない、南アに対して世界各国が経済制裁を実施しているスキに貿易相手国第1位にのし上がったのが日本である。私は、展覧会の主要な目的は、反・アパルトヘイトの意志を広く一般市民に呼びかける「社会的運動」と判断。そして、この問題に対する認識と対応が遅れている日本の現状からすれば、〈必要で有効な方法〉だと書いた。ただし、「もう1つの視点」があることを、強調した。その一部を以下に引用しておこう。
◆〈 もう1つの視点、美術的動向として見た場合は、社会的運動であると同時に個々の作品表現であるという自明の事実が、この展覧会を見掛け以上に複雑なものとしている。(略) いわゆる社会派作家の展覧会ではない。アパルトヘイトを題材にした作品もあるが、基本的には、各作家がふだんの表現を堅持しながら、展覧会への参加という姿勢でもって社会的メッセージとしているようだ。こうした姿勢の正否については意見が分かれそうな気もするが、少なくとも社会性を過剰に嫌う日本の美術界には刺激となるし、社会的関心が世界のさまざまな美術家を結ぶまでに高まっていることに対して、認識を改める契機となるのではないか。(略) 今回の展覧会に見られるような社会的関心の高まりは、美術にとって変化の前兆でもある。若者たちのラブ・ソングが政治ソングに移り変わった西ドイツで、社会と美術の危険な綱渡りを作品化(行為)したボイスを参照してもいいだろう。社会的要因・社会的関心は、現在の美術に対して針路の変更を迫るかもしれないのである 〉。
(三頭谷鷹史「アパルトヘイト否!国際美術展 美術と社会の横断領域で」 『美術手帖』1988年8月号)。
名古屋展は、2つの大規模展の同時開催
名古屋にも巡回すると聞いていたので、見に行こうと楽しみにしていた。ところが、ある日、名古屋の市民運動家を名乗る人から連絡があり、会ってみると、名古屋展を手伝ってほしいという話だった。しかも、まだ何も決まっていないという。私自身は手一杯だったので、乗り気ではなかったのだが、『美術手帖』で賛同の意を表していたから逃げづらかった。『裸眼』メンバーの大半が〈 取り組もう 〉と言うので、やることになった。
こうして、市民運動グループと美術関係者の共同作業が始まったのである。なお、美術関係者と書いたが、実体はもっと多様で、『裸眼』メンバーはもちろん、様々な表現分野の人たちが参加した。
一応軌道に乗った段階で、もういいだろうと、余力のない私は手を引くことにした。ところが、しばらくして西島一洋から〈 戻ってくれ 〉と、呼び戻された。市民運動の一部に後退傾向があり、まさかの黄色信号とのことだ。で、美術側を中心に立て直すことになった。
美術などの表現者が取り組む以上は、パッケージになっている名画を並べるだけの展覧会はやりたくない。いろいろあったが、巡回している作品を、建築現場用の足場鉄材を使った荒々しい展示とした。このアイデア、誰の発案だったか忘れたが、この方が展覧会の趣旨として面白いし、経費削減の意味もある。市民運動側から日本巡回の責任者は北川フラムで、赤字になった場合は彼が引き受ける、と聞いていた。そんな話に乗るわけにはいかないので、経費削減を可能な限り実行したのである。
巡回展とは別に名古屋独自の展覧会を併設することにした。美術、デザイン、いけばな、アートメッセージ、写真、映像、演劇などの、様々な分野の表現者たちによる名古屋発信のアクションである。参加者は、自分の表現活動として、アパルトヘイトにどう向き合うかという課題を背負うことになった。しかし、2つの大規模展を同時に開催するようなもので、それだけ仕事が増えた、というか増やしてしまった。
展覧会は1989年10月に名古屋国際センターで開催された。多くの人がそれぞれの役割を果たして実現させた展覧会であり、それらの人の名前をあげたらきりがないので止めておく。ただ、西島が八面六臂の活躍をしていた様子が今も目に浮かぶ。

参加者それぞれに考えがあったと思う。が、私としては『美術手帖』に書いた「もう1つの視点」を導入したつもりであった。理解されにくい視点であるし、それ以前に、名古屋の美術界には「社会的運動」に加担することへの抵抗感があり、面と向かって批判されたこともある。
様々な表現者が参加した意味や意義への理解を探るため、『裸眼』第8号で、「精読『アパルトヘイト否!国際美術展・名古屋展』を特集した。だから1年半の発行遅れは空白ではなく、精一杯働いた結果なのである。
特集「美術館問題」

前号の疲れが残っていたのか、第9号を出したのは一年後だった。今度は本当に空白の状態で時が過ぎたのである。それでいて、奥付には〈年3回発行予定〉と書いている、嘘ばっかりだ。ともかく、第9号の発行は1991年7月だが、これ以前に美術界は大きく変わっていた。変化の最大要因は、公立の大型美術館が増加し、影響が広がったことだと思われる。
美術館は、展示はもちろん、コレクションの権限をもち、優秀な学芸員という人材を抱えている。そして、全国の美術館との相互協力、新聞テレビ主催の全国巡回展への協力、等々と、地域にあっても地域を超えた役割を果たす美術システムである。一般市民への広報能力など、画廊の比ではない。そうした美術システムが現代美術に取り組むようになり、画廊や美術家たちも喜んでこの大波に乗っていった。
ただし、よいことばかりではなく、さまざまな問題も起きる。第7号で特集した富山県立近代美術館の「昭和天皇コラージュ事件」が早い例だった。画廊なら問題にならない次元の表現も、公立の美術館だと大問題になってしまう。画廊界隈の表現活動と美術館での表現活動は根本から違う、ということを認識すべきだった。画廊界隈が表現活動の確固とした基盤とならないまま、もう美術館の時代に突入してしまったのである。
また、1990年9月に地元作家が主体となって岐阜県美術館の県民ギャラリーを借りて開催した「FROM OUR HEARTS―アパルトヘイトに反対する美術展」には『裸眼』メンバーも参加した。そして美術館総務課との間で様々なトラブルを体験し、貸館業務に多くの問題があることを知った。
ということで『裸眼』では、全国の様々な美術関係者にアンケート形式で執筆を依頼した。全国の作家、評論家、学芸員、編集者、等々の知人非知人に依頼文を送った。設問は以下の3点である。①美術館が美術にとって必要なのかどうかといった、根本的な問題。②美術館の姿勢や企画、運営のあり方についての意見。③美術館で起きた具体的な事件やトラブルのレポートなど。約300人に依頼文を送り、約60人から回答をえた。
今回、あらためて読んでみたが、けっこう面白い。出版後に三重県立美術館の石崎勝基が〈美術館の問題が出尽くしてますよ〉と語っていたのを思い出す。なお、今、『裸眼』を読もうとすると、所有している人に頼むか、公共施設では愛知県芸術文化センターのアートライブラリー(図書室)が所蔵し、公開しているので、そちらを利用してほしい。
画廊の時代の終わり
結局のところ『裸眼』は、画廊の時代を基盤にしていたように思われる。委託販売所の多くが画廊だったということからも、それは明らかである。画廊界隈に成立していた人と人の関係が『裸眼」の背景だった。第9号を発行した頃、定期購読者が200人、委託販売所は沖縄から北海道までの45カ所だった。発行部数は1000部、実売はそれよりずっと少ないはずだが、なんとか健闘していた。ただ、残念ながら、画廊界隈の空気は終わりを伝えていた。こうした空気は、活動していると肌で感じるものだ。
第10号の発行は遅れに遅れ、2年後の1993年3月になってしまった。特集は『裸眼』のルーツである「8号室」とした。画廊の時代より前の1970年代の再考であり、わざと時代に逆行する特集としたのである。結果としてこれが最終号となった。

『裸眼』の基盤であった画廊界隈の熱気が失われたら、手の打ちようがない。ただし、画廊界隈の失速と心中するつもりはなかった。しぶとく、しつこく、1970年代の穴倉文化に近い意識と活動方法に帰ることで気力を保ち、延命を図った。『裸眼ノート』や「裸眼・壱金講座」のことだが、それについては別に語ろう。
冒頭の2人のこと
ここで再び冒頭の2人について触れておきたい。

右は柴橋伴夫『ミクロコスモスⅠ 美のオディッセイ』
柴橋伴夫は1947年北海道岩内生まれ、札幌在住。私と同年だ。『裸眼』の「net work」で、アイヌの彫刻家砂澤ビッキの死をレポートしてくれたのが印象に残っている。書くべき人が書いた、秀逸なレポートだったからだろう。柴橋は、北の詩人、北の美術評論家として活躍してきただけでなく、展覧会などの自主企画や文化の核「ゆいまある」を組織するなど、状況の活性化に務めてきた。そう、「地域」で何かやろうとすると、「地域」の変革とセットの仕事になる。北海道という「地域」に様々な形で働きかけ、文を書き、独自の位置から日本文化に貢献してきた人だ。
北海道美術ペンクラブ同人、荒井記念美術館理事、『美術ペン』編集人、文化塾サッポロ・アートラボ代表、「北の聲アート賞」選考委員・事務局長、等々と、様々な役割を果たしている。
もちろん著書も多数ある。例えば、詩集『冬の透視図』、美術論集『風の彫刻』、評伝『風の王 砂澤ビッキの世界』『雑文の巨人 草森紳一』、『夢見る少年 イサム‣ノグチ』、『アヴァンギャルドバード 一原有徳』、『内なる嚝野 安部公房』(8月刊行予定)、美術評論集成『アウラの方へ』。他にもいろいろあり、たいへんな仕事をしてきたことが分かる。
今回送ってくれたのが『ミクロコスモスⅠ 美のオディッセイ』(藤田印刷エクセレントブックス、2022年発行)である。この本は、彼にとって集大成的なシリーズの第一弾である。その中で彼は、自分を戒めるかのように、「精神の凍土」に立ち戻ることを強調する。〈 「凍土」は不毛性と同義ではない。しばれる冬を耐える「凍土」。それに熱い息を吹きかけ溶かしていくこと。情況に抗していくこと、そして絶えず書き続けること 〉と記している。人生の晩期、北の人である柴橋の覚悟が感じ取れる。
山野真悟は1950年福岡県生まれ。福岡を拠点にして美術活動を続け、1978年から「IAF芸術研究室」を主宰し、研究会や展覧会企画などをおこなう。こうした活動をする中で、『裸眼』に寄稿してくれていた。
ただ、1990年代に入ってから、山野は、穴倉文化に回帰する私とは真反対の方角、表通りのど真ん中に向かう。彼は〈 アートを都市と関係づけて考える 〉方向に舵を切り、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」を立ち上げた。モノを造る美術家ではなく、都市を創造するディレクターに変貌したようなのだ。いや、正しくは、アートが街を変え・街がアートを変える、双方向的なシステムのディレクターと言うべきかもしれない。美術家、行政、企業、住民に働きかける実践的な、そして先駆的な事業だが、我慢と忍耐のいる仕事のはずだ。
そうした活動が成果をあげたのだろう、2005年の「横浜トリエンナーレ」キュレーター就任をきっかけに、ヘッドハンティングされて2008年から横浜に活動拠点を移し、「黄金町バザール」ディレクター、「黄金町エリアマネジメントセンター」事務局長に就任、長年勤めた。
私は黄金町のことを耳にしたことはあるが、全国に広がったアートイベントの一種だと思い込んでいて、あまり関心をもたなかった。山野が関わっていることも知らなかった。今回送ってもらった本は、山野と鈴木伸治(横浜市立大学教授、専門は都市計画等)の共著『アートとコミュニティ 横浜-黄金町の実践から』(春風社、2021年発行)である。2人は黄金町の活動で初期から協動する関係にあったという。私は、この本を読んで、初めて黄金町の活動の詳細を知ったわけである。
売春の街として知られる(私は知らなかったが)黄金町は、2005年の一斉取り締まりをへて、新しい街に脱皮しようとしていた。山野が引き受けたのは、そうした地域の願いを背負った事業なのである。そして行政、住民、警察、それに反社勢力が絡み合う渦の中にアートを介入させたわけだ。
初期の治安はよくなくて、近くの川に死体が浮かんだり、組員が山野らの事務所のトイレを勝手に使ったり、山野の活動に反感をもつ男に包丁で追われたりといったことも。こんな泥臭い仕事を引き受けていたのかと、本を読んで驚いた。たいへんな現代美術の最前線である。穴倉の中でまどろんでいた私は、思わず身震いをした。
柴橋と山野は、それぞれの方法で地域に働きかけ、独自の活動を展開した。立派なものだと思う。それぞれの地域が彼らの活動をきちんと評価し、受け入れ、地域の成熟に活かしたかどうか、地域の事情を知らない私には判断がつかない。彼らの思いが地域に活かされたと信じたい。
1980年代に夢見た未来は妄想?
名古屋では、地域の成熟はいまひとつ、というか後退したように感じられる。1980年代に夢見た地域の未来はやってこなかった。この論考で、長々と、しかも意気揚々と『裸眼』について書いてきた末の結論だから、ぞっとする。
しかし、今はそれどころではない。日本、そして世界で起きている変化についても考えておかねばならないからである。実は、美術館の時代は長く続かなかった。2000年以降は、北川フラムによるアートイベントが登場して、展覧会手法や鑑賞方法を大きく変え、イベント化は広がり、美術館界も追随するようになった。
アートイベントだけでなく、通常の展覧会の中身にもイベント色が加わっていく。芸術の守護を標榜する美術館がエンターテインメント的手法や要素を取り入れるわけだから、良いか悪いかはともかく、アカデミズム色は薄れるほかない。世の中全体がアートとエンターテイメントの区別に鷹揚になった、あるいは区別できなくなったことが背景にある。
しかも、さらに大きな変化が世界規模で起きている。グローバル化の果てに生まれた世界の富豪たちの登場である。金持ちが名品を買いあさるのは昔からのことだが、超富裕層が現代美術に直接介入し、マネーゲームのついでに作品評価にまで影響を及ぼすとなると、話は別だ。上流にいる雲上人たちの駆け引きは、閉鎖的で、私たちの目には見えない。が、下流に余波が伝わってくる。ある時、大型美術館の展覧会の公式案内文に、デカデカと「この作品100億円です」と唱われているのを目にして、思わずつぶやいた。〈 そりゃ、作品評価じゃなくて、ゲームの結果だよ 〉と。
(注) アートイベントについては、このブログの「美術の終末、芸術の終末 02 イベントが悪いわけではない、しかし・・・」で詳しく書いた。富豪たちのマネーゲームについては、同06の「終末論から読み解くバンクシー(続)」の中で書いている。参照していただきたい。
以上だけでも時代の変化を感じるのだが、さらにSNSやAIの影響を加えたら、予測不可能の時代が予測される。1980年代に夢見た未来などは、単なる妄想だったのか。いやいや、こうなったら、真正面から妄想を見詰めよう。おそらく近い将来に既存の価値観のほとんどが揺らぎ、滅び、人の心は追い込まれていく。心を再構築するためには、過去の妄想を手がかりにすることもありうるのではないか。妄想は人のためになる、たぶん。
かつて地域の人たちが牧歌的な時代を共有していたことを思い出そう。いろいろな問題や闘いもあったけれども、私たちは明るかった。
(あの時代、そして『裸眼』のこと おわり)
