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花G 01| いけばな文化は、女性排除で始まった

2025年3月12日/記
(敬称省略)

 いけばなは、日本で独自の発展をしてきた、世界的にも貴重な文化である。私たちが誇りとし、大切に守るべき文化なのだが、それが今、非常な危機にある。このブログの「いけばな論01、02」で考察したとおり、いけばな人口が激減し、いずれは従来のいけばな界の体制や考え方では対処できなくなるだろう。女性専科とも見られてきたこの分野から、女性たちが大挙して撤退しつつあるのだが、それを止める手段が見つからないのである。
 しかし、こういう状況だからこそ、あらためて事実の把握や分析をおこない、発想の転換を急がねばならないのではないか。いけばなの新しいあり方を探る好機でもある。あくまで前に進め、である。

  ただし、この連載では、前に進むために、過去を見直してみようと思う。もっとも私は史家ではないし、その素質や素養に欠ける。だから、いけばな史を、素人の乱暴な方法で煮たり焼いたりすることになる。乱暴であっても、過去から掘り出せるものは掘り出し、未来に向かうための燃料、あるいは参考にしたいのである。 

(注)私は「いけばな」と呼び、書く。が、「花道」「生け花」「活花」「いけ花」「花」「挿花」等々と、さまざまな用語が現役として使われていて、ややこしい。単に言葉尻の問題ではなく、それぞれ歴史と意味を担っているので、この問題はあらためて考察したい。基本用語は「いけばな」とし、必要に応じて他の用語を使用することにする。

いけばなの始まりは、いつ?

 いけばながいつ始まったのかについて、多くの研究者は15世紀半ば頃としている。例えば山根有三は〈 文献に瓶に花をたてる名人や専門家が次々と登場するのは、15世紀の中葉から後半 〉と書き、大井ミノブは〈 いけばなの成立は、おおよそ、15世紀中頃から16世紀にかけて 〉、伊藤敏子は〈 15世紀なかばごろ 〉としている(注1)。日本史の区分でいえば、室町時代の中期・後期といったところか。その上で、それ以前を前史、あるいはルーツとする。ただ、私が読んだ研究書は古いものばかりなので、最近はどうなのか。
 私よりはかなり若いと思われる研究者の小林善帆が、2017年の雑誌の連載で、こう書いている。〈 いけ花の始まりは、東山殿足利義政からというのが、花の伝書における通説です 〉(注2)と。伝書、すなわち古いいけばな文献による通説だとわざわざ断っている。自説は別にあるということなのだろうが、前後の文脈から、今もいけばな史の見方に大きな変更がないと推察する。
 
 いけばなはモノが残らないので、文献などに頼るほかなく、始まりを追求しようとしてもなかなかむずかしい。多くの研究者は、仏前供養の花といった宗教色が薄まり、格式の高い室内装飾の一部として、その姿の美しさが鑑賞されるようになった時点を始まりとしているようだ。厳密な時期の特定は無理なので、ここでは、とりあえず、室町時代に始まり成長した文化としておこう。

(注1) 山根有三「いけばなと座敷飾り」『花道史研究』中央公論美術出版、1996年。 大井ミノブ編『いけばな辞典』東京堂出版、1976年。 伊藤敏子『いけばな その歴史と芸術』教育社、1991年。
(注2) 小林善帆「女性といけ花 第1回」『小原流挿花』2017年1月号。

いけばなの名人たちの登場

 いけばなの始まりに役割を果たした場はいろいろあるが、重要な場の一つは、足利将軍に仕え、輸入美術工芸品の鑑定、座敷飾り、芸能、等々に腕をふるった同朋衆である。阿弥を名乗っていたことから、浄土系の一遍が興した時衆(のちの時宗)との関わりが指摘されている。その関わりの文化的な意味でのピークは義政の時だった。
 こうした同朋衆やその他の阿弥から数々のいけばなの名人が出た。代表的な人物が立阿弥、文阿弥らである。  
 
 もう一つの場が池坊である。天台系の頂法寺の住坊の一つで、池の前にあったことから池坊と呼ばれたという説がある。ここからも名人が生まれたのである。池坊いけばなの祖とされているのが池坊専慶で、その後も池坊専応、池坊専栄らへと続く。

 公家社会にもいけばなで活躍した人はいる。公卿の山科言国に仕えた大沢久守は、独自のいけばなを考案し、宮中では立花御用を勤めている。なお、室町時代には、いけばなの総称として立花という用語が使われ、「たてばな」と呼んだが(注3)、のちの時代に「りっか」と呼ぶようになる。
 
 このように室町時代には名人たちが続々と登場してくるが、彼らの関係はどのようなものだったのか。いけばな史家の研究を読んだ印象としては、職場の同僚、親子、師弟といった関係は見られるが、基本は個人であって、まとまった業界のようにはなっていなかったように思われる。時にライバルが立てる花を見にいったり、花会に同席したり、情報交換したりする様子が当時の文献に記録されている。戦乱の世ながら、それぞれが創意工夫をして、懸命に生き抜いたようである。

(注3)山根有三によると〈室町時代の花道の作品はすべて立花という名で呼ばれていた。これは「たてばな」と読むのである〉「室町時代の立花図巻について」『花道史研究』中央公論美術出版、1996年。ただ、濁らずに「たてはな」と読むこともある。

女性排除の文化

 以上、いけばなの始まりを簡単に素描してみたが、G(ジェンダー)視点を加えて観察すると、たいへんな結論が導き出されてしまう。それは女性の姿が見られないということにある。これといって語れる人物や事象がない。どうやら、いけばなという文化は、最初から女性を排除して始まったようなのだ。この点は、いけばな史ではあまり意識されていない。のちに女性専科となる文化が女性排除で始まったとは、実に不思議な現象である。
 「排除」というのは言い過ぎではないか、との意見もあるだろう。ただ、一般の女性史を重ねると、その言葉が妥当に思えてくる。
 
 〈 元始、女性は実に太陽であった 〉と語ったのは平塚らいてうである。単なる文学的表現かと思うと、そうではなく、実際にかつての女性は自らの力で輝く太陽であった。縄文時代などは、男との分業はあっても、男の下にいたわけではなく、対等の存在感があり、男以上に輝きを放っていた。また、縄文時代は、戦争のない平和な時代だったとの説もある。狩猟や採集などによる自然経済だったから、富の余剰がなく、かえって争いや差別が抑えられていたのかもしれない。
 それが時代とともに発展ではなく、徐々に後退していく。もちろん女性たちはさまざまな場所で輝くことを忘れなかった。鬼道によって人々を導いたと「魏志倭人伝」に記された卑弥呼もそうだし、飛鳥時代には女性宮廷歌人の額田王などが輝いていた。そして飛鳥から奈良にかけては推古天皇をはじめとする6人8代の女帝ラッシュがあった。男性天皇につなぐための、単なる「中継ぎ」だったとする説もあるが、天皇になれるだけの権威や権力があったことも事実なわけである。そして平安時代には才女の清少納言や紫式部が登場し、鎌倉時代には北条政子が活躍した。
 
 女性史的な目で古代日本の律令制度を見ると、中国の影響についていろいろ考えさせられる。日本軍は白村江で唐・新羅軍に敗れ(663年)、律令国家への道を急ぐ。強大な中国に対抗するために中国に学ぶわけで、西洋列強に対抗して西洋化を急いだ明治日本を連想させる。日本の律令制は、家父長制の強い唐の律令に学びながらも、日本の伝統と実態に配慮して、女性にかなりの財産権を留保した。日本の女権は一歩二歩と後退したものの、なんとか踏みとどまったのである。

儒教と仏教の毒素

 当時の中国は、日本にとって怖い相手でありながらも、お手本であり、憧れの対象でもあった。その中国から移植した儒教と仏教の女性蔑視の毒素は、いわば種火となって、のちに広がりながら、日本女性を蝕んでいく。
 
 儒教に「三従の教え」というのがある。江戸時代に儒学者・貝原益軒の著書や女子用教訓書『女大学』で広がったせいか、今でもなんとなく馴染みのある言葉だが、もとは中国の『礼記』等で、そこには〈 婦人は人に従う者なり。幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う 〉(注4)と記されている。
 
 仏典での重要な女性差別は、女には障害があって成仏できないとする「五障(ごしょう)」、女は穢れているとする「女身垢穢(にょしんくえ)」などだ。もとの意味からズレたり、日本独自の解釈もあってのこととはいえ、仏典が女性差別の一根源だとは、なんとも残念である。それと、男性に性転換(変身)しないと成仏できないとする「変成男子(へんじょうなんし)」というのが、妙に現代的な問題と重なるようで興味深い。
 中国仏教のルーツは、当然インドである。仏教学の松下みどりによると(注5)、家父長制が社会の基礎にあった古代インドでは、女性の地位は低かったという。こうした社会に釈迦は生まれているが、彼自身は〈 生れを問うことなかれ、行いを問え 〉と平等思想を説いた。男女観についても、明確な言葉は残されていないものの、同様だったと松島は推測している。女性蔑視は釈迦の死後のことで、〈 その後の仏教は、釈迦の平等思想を持ち続けることができなかった 〉というのである。 

(注4) 「女子」『中国思想文化事典』東京大学出版会、2001年。
(注5) 松下みどり「女性と仏教」『仏教の事典』朝倉書店、2014年。

女性が無能力者となった時代

 室町時代に女権は地に落ちたと言われる。が、日野富子がいる。夫である足利8代将軍義政をないがしろにして幕府の実権を握った、悪妻の代表との評判もある。富子は幕府の重要案件を義政に取り次ぐ役割をしていたが、〈 義政に取り次ぐふりをして実権を掌握してしまったというのが真相であり、決断力のわるい義政であるから、富子の采配によってようやく、幕府政治は廻っていたという局面もいくつか見出される 〉(注6)という。
 富子は、息子を将軍にしようと画策し、「応仁の乱」の一要因となった。また、ワイロ、あくどい金貸し、不正な米取引に手を出すなどして大儲けをした。しかし、こういう評価もある。〈 戦国の世には、誰だって自分の富と権力のためにしのぎをけずっていた。富子も自分の地位を利用して男と同じことをやっただけだ。そして、その才能が並みの男よりちょっぴりすぐれていたというわけである 〉(注7)。

 なるほど一理ありだが、同意まではしたくない。過度な酒色と浪費に溺れる夫と、富と権力に走った妻の、背後の光景が凄まじいからである。飢饉で餓死者が溢れ、さらに権力争いで京都は焼け野原となった。日野富子の才能は、残念ながら、権謀術数の泥沼に沈み込んでしまったようなのだ。
 いけばな成立の背後には、喜ばしい景色はなく、当時の国民の大半にとって最悪の状況があるだけだった。女性の文化においても最悪の時代であり、女性史学の開拓者であった高群逸枝の評価は厳しく、こう断じる。
 
◆〈 日本の女性が、自分の眼でものを見、自分の心でものをかんがえ、自分の意思で実行する能力をもっていたのは、すなわち鎌倉頃までであった。文献に徴される限りでいえば、奈良の乙女、平安の職業婦人、鎌倉の主婦までは、そういう能力をもっていたといえる。したがって、そこにのみわれわれは、なおありし日の女性文化の伝統を探りうるのである。室町以後においては、われわれはほとんど無能力者となったし、したがって文化的所産もない 〉(注8)。
 
 今日では高群の研究の一部に疑義が唱えられているようだし、〈 女性史とは、いいかえれば、すなわち女性奴隷史である 〉と言い切る姿勢には、前のめりの感がある。しかし、真剣に取り組まれていなかった問題を、決して見逃さない、許さない、そんな情念を忍ばせた開拓者の精神には圧倒される。

(注6)脇田晴子「女人政治の残光」 『日本女性史』吉川弘文館、1987年。
(注7)加美芳子『はじめて出会う女性史』はるか書房、1996年。
(注8) 高群逸枝『女性の歴史』(上)、講談社文庫、1972年。

室町時代以降のいけばな

 以上を踏まえて、あらためて室町時代以降のいけばなをどう語るか、という話になる。語れるのは男たちのいけばなであり、それも室町よりのちは活躍が際立つ池坊に絞られる。安土桃山時代の初代池坊専好に続いて、江戸時代に入ると2代池坊専好が立花(りっか)様式を完成させた。しばらくは池坊の独占状況が続く。
 そして伊藤敏子によると、池坊専養の時代、『池坊永代門弟帳』に延宝6年(1678)から入門者の名が書き留められようになったという。〈 このころには家元の地位が確立し、直弟子が家元に代わって指導する裾広がりの体制が形成 〉されたと、伊藤は見ている(注9)。初期の家元制度が生まれたのである。

 なお、茶の湯の世界には「茶室の花」がある。茶室内で独自のいけばなが展開し、それが茶室の外にも影響を与えるようになった。こうして立花より簡素で自由度の高い「抛入花(なげいればな)」が成立した。さらに江戸時代後期には、新興流派によって新しい決まりをもつ「生花(せいか)」様式が登場してくる、といった流れだ。
  背景にあるのが力をつけてきた裕福な町民、とくに江戸の町民層であり、彼らがきそって茶の湯やいけばなを嗜むようになったことである。結果、さまざまな流派が競い合う、本格的な家元制度が成立してくるのである。また、家元制度の外に、「文人花」という小さい流れがあり、田能村竹田などの文人たちが質の高いいけばなに取り組んでいる。
 
 しかし、この間は、G視点から見ると不毛の歴史ということになる。女性がいけばな分野にまとまって参加するのは、庶民文化が花開いた文化-文政期(1804~1830年)である。もうすぐ幕末という時期になって、ようやく女性の姿が見えてくる。では、+G視点のいけばな論を、ここから語るべきなのだろうか。
 いや、ここで相当に乱暴な手法を使って、いけばな史を修正しよう。いけばな史的には前史とかルーツとかで呼ぶ時期を、正統ないけばな史に組み入れるのである。さて、そうするとどうなるのか、次回は、平塚らいてうの言う「元始」までさかのぼって、考えてみるつもりである。 

(注9)伊藤敏子『いけばな その歴史と芸術』教育社、1991年。



( 花G 01| いけばな文化は、女性排除で始まった おわり )            


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